The Project Gutenberg eBook of 幽霊書店

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Title: 幽霊書店

Author: Christopher Morley

Translator: Kiyotoshi Hayashi

Release date: November 9, 2012 [eBook #41325]
Most recently updated: February 21, 2021

Language: Japanese

Credits: Produced by Kiyotoshi Hayashi

*** START OF THE PROJECT GUTENBERG EBOOK 幽霊書店 ***

幽霊書店

クリストファー・モーリー

 書店主各位へ

 このささやかな本を皆さまに愛情と敬意を込めて捧げます。

 作品の欠陥はだれの目にもあきらかでしょう。わたしは「移動書店パルナッソス」において大活躍し、一部の方からありがたくもお褒めの言葉をいただいたロジャー・ミフリンの冒険談のつづきをお話ししたいと思ってペンを取りました。ところがミス・ティタニア・チャップマンがあらわれ、若き宣伝マンが彼女に恋をし、むしろこの二人が物語の中心になってしまったのです。

 さて、一言申し添えておきますが、第八章でシドニー・ドルー氏のすばらしい才能を語った一節は、この魅力的な芸人の悲しむべき死の前に書かれたものです。しかしながらそれは嘘偽りのない、心からの賛辞でしたので、わたしは削除する理由はなにもないと考えました。

 第一章、第二章、第三章、および第六章はもともと「ザ・ブックマン」に掲載されたものですが、このすぐれた雑誌の編集者には再版の許可をいただいたことを感謝します。

 ロジャーは十台のパルナッソスに地方回りをさせることになりましたので、もしかすると旅先で皆さまのお目に留まることがあるかもしれません。もしもそのような機会があれば、パルナッソス巡回書店株式会社のあらたな行商の旅が、わたしたちの高貴な職業の、ふるくて名誉ある伝統をけっして汚すものではないことをお確かめいただきたいと思います。

クリストファー・モーリー   

 フィラデルフィアにて

 一九一九年四月二十八日

第一章 幽霊書店

 ブルックリンといえば、とびきりあざやかな夕映えと、女房持ちが乳母車を押すすばらしい光景の見られる街だが、もしもあなたがそこに行くことがあるなら、まことにめずしい本屋のある、とある静かな裏通りに行きあたることを願う。

 この本屋は「パルナッソスの家」という、いっぷう変わった屋号を持ち、店をかまえた褐色砂岩のふるい快適な住居は、配管工とごきぶりが数代にわたってこおどりしてきた場所だった。店の主人は家を改装し、古本のみをあつかう自分の商売にいっそうふさわしい聖廟をつくろうと苦労をかさねた。世界じゅうを探しても、この店ほど敬服にあたいする古本屋はない。

 寒い十一月のある晩、およそ六時ごろのこと、ときおり雨がはげしく降りそそぎ、舗道にあたってはねかえるなか、ひとりの若い男が道に迷ったかのようにときどき立ち止まりながら、頼りなげにギッシング通りを歩いてきた。彼は暖かそうな明るいフランス式焼き肉料理店の前に立って、欄間窓にエナメルでしるされた番地と、手にしたメモを見くらべた。それからさらに数分歩きつづけ、ついに探していた住所にたどりついた。入り口の上の看板が目をひいた。

パルナッソスの家

R・ミフリンとH・ミフリン

愛書家のみなさん、ようこそ!

☞この店には幽霊がいます☜

 彼は詩神のすみかに通じる三段の踏み段をおり、立てた外套の襟をなおして、あたりを見まわした。

 そこは行きなれた本屋とはずいぶん様子がちがっていた。二階建てのふるい家は、床が打ち抜かれてつながっていた。下の空間はいくつもの小さなアルコーヴ(くぼみ)にわかたれ、上のほうは回廊をめぐらした壁に、天井までびっしり本が並んでいた。あたりはふるびた紙と革の馥郁としたかおりに満ち、それにたばこの強烈なにおいが加わっていた。目の前には額入りの掲示があり、こう書いてある。

 当店には幽霊がいます

 あまたの偉大な文学の霊が。

 にせもの、駄作は売りません。

 本が好きなら大歓迎です。

 むだ口をたたく店員はいません。

 喫煙自由――ただし灰は落とさないように!

 ――

 閲覧はお好きなだけどうぞ。

 値段はすべてわかりやすく表示されています。

 ご質問があれば、もうもうたるたばこの煙に包まれた店主まで。

 本は現金で買い取ります。

 あなたに必要なものがここにあります。もっとも、それが必要だということをあなたはご存じじゃないかも知れません。

 ☞読書する力が栄養不足におちいると一大事です。

 本の処方は当店におまかせください。

     店主 R・ミフリン、H・ミフリン

 店内はあたたかく落ちついた薄暗さ、いわば眠気をさそう夕闇のなかにあり、緑色の笠をかぶった電灯がそこここで黄色い円錐形の光をはなっていた。たばこの煙がすみずみまで行きわたり、ガラス製のランプシェードの下で渦を巻いたり、もやもやと立ち迷っていた。アルコーヴのあいだの狭い通路を通るとき、仕切られた区画のあるものは完全な闇にとざされていることに訪問者は気がついた。ランプがともるほかの場所には机と椅子が見えた。「随筆」という表示の下の一隅で、年輩の紳士が熱中のあまり恍惚とした表情を電灯に照らしだされて本を読んでいた。しかし、たばこの煙がまわりにただよっていなかったので、あれは店主ではないのだろうと、初めて店に来た男は判断した。

 店の奥に行けば行くほど、まわりの印象はますます現実ばなれしていった。はるか頭上に明かり取りの窓があって、そこに雨の打ちつける音が聞こえるのだが、それ以外はしんとしていて、まるで住んでいるのは、充満する煙の渦と、随筆を読む男の明るい横顔だけのような感じがした。そこは秘密の神殿、奇怪な儀式のとりおこなわれる聖廟のような印象で、若者は、なかば不安のために、なかばたばこのために、喉元がしめつけられるような気がした。見あげると暗がりのなかに本棚が何段もつみかさなっており、屋根にちかづくほど闇にしずんで見えるのだった。彼は褐色包装紙の筒と麻ひもをのせたテーブルを見つけた。あきらかに商品を包装する場所だったが、店員のいる気配はなかった。

 「この店には本当に幽霊が住み着いているのかもしれない」と彼は思った。「たばこの守護神で、ここが気にいったサー・ウォルター・ローリーの魂とか。しかし店主は出没しないようだ」

 彼の目は青くけむる店内を見わたしていたが、ふと卵のような奇妙な光沢をはなつ光の輪に気がついた。それは吊り電球の光を受けてまるく白く輝き、たばこの煙の波間にうかぶ明るい島のように見える。ちかづいてみると、それははげあがった頭だった。

 この頭は、よく見ると、回転椅子にふんぞりかえった目つきのするどい小男の上にのっており、彼がいる片隅がこの建物の中枢神経と思われた。男の前には仕切り棚のついた大机があり、刻みたばこの缶や新聞の切り抜きや手紙とともに、ありとあらゆる種類の本がうずたかくつみあげられていた。ハープシコードに似た旧式のタイプライターが、原稿用紙の束に半分うもれていた。はげ頭の小男はコーンパイプをくゆらし、料理の本を読んでいた。

 訪問者はほがらかに話しかけた。「失礼ですが、この店のご主人でしょうか?」

 「パルナッソスの家」の店主、ミスタ・ロジャー・ミフリンは顔をあげた。青いするどい目に、みじかい赤髭をたくわえ、いかにも有能で独創的な人物だという雰囲気をただよわせていた。

 「そうですが、なにかご用ですか?」

 「わたしはオーブリー・ギルバートといいます。グレイ・マター広告代理店を代表してまいりました。わが社に広告業務のとりあつかい、しゃれたコピーの作成、発行部数のおおきなマスメディアへの掲載などをまかせていただけないかと思い、ご相談にあがりました。戦争もおわりましたから、販売拡大のために建設的な宣伝活動にとりくむべきだと思います」

 店主はにっこりと笑みをうかべた。彼は料理の本を置き、勢いよくたばこの煙をまわりに吹き出すと、楽しそうに相手を見あげた。

 「きみ、わたしは宣伝をいっさいしないんだ」

 「まさか!」相手はまるで背徳行為を目にして度をうしなったかのように叫んだ。

 「きみがいうような意味での宣伝ではない。わたしにとっていちばん役に立つ宣伝は、業界最高の粋なコピーライターたちがやってくれている」

 「というと、ホワイトウォッシュ・アンド・ギルト社ですね?」ミスタ・ギルバートは残念そうにいった。

 「とんでもない。うちの宣伝をしているのは、スティーブンソン・ブラウニング・コンラッド商会だよ」

 「おやおや」グレイ・マター社のセールスマンはいった。「そんな代理店は知りませんでしたね。でも、うちのコピーほどパンチはきいていないでしょう」

 「おわかりじゃないようだな。わたしがいっているのは、うちの広告はわたしが売る本がやっているということだ。お客さんにスティーブンソンやコンラッドの本を売るとするね。おもしろがらせたり、こわがらせたりする本だ。するとそのお客さんと本が、わたしの生きた広告になるんだよ」

 「しかしその手の口コミは時代遅れです。それじゃ販路拡大ができません。大衆の前にトレードマークをかかげなければ」

 ミフリンは大きな声でいった。「今は亡きタウフニッツ(註 ドイツの出版業者)に誓っていおう! いいかい、きみは医療の専門家である医者のところに行って、新聞雑誌で宣伝する必要を説いたりはしないだろう? 医者の宣伝は医者がなおした肉体がする。わたしの商売の宣伝はわたしが刺激を与えた心がする。それに一言いわせてもらえれば、本を売るのはほかの商売とちがう。人々は自分が本を必要としていることを知らないんだ。わたしは一目見ただけできみの心が読書不足で病んでいるとわかるが、きみはおめでたくもそのことに気がついていない! 人は心に重い傷を受けたり、病いにかかり、重篤な状態にでもならないかぎり本屋に来ないものだ。そういう状態におちいってはじめて本屋に来る。わたしの考えでは、宣伝の効用とは、どこも悪いと思ってない人に医者に行け、と忠告するようなものだ。きみはどうして人々が今までにもまして読書をするようになったのか、知っているかい? 戦争という大惨事によって、みんなが心を病んでいることを知ったからだ。世界はありとあらゆる精神の熱病、疼痛、障害にとりつかれていたのだが、そのことに気がつかなかった。しかしいまや、心の病いは明らかすぎるくらい明らかだ。だれもが貪欲に、せっかちに本を読み、災難が過ぎ去ったいま、われわれの心のどこに病巣があったのかを知ろうとしている」

 小柄な店主は立ちあがり、訪問者は興味と警戒のいりまじった表情で彼を見つめた。

 「こんなところでも来る価値がある、ときみが考えたことがわたしには興味ぶかい。本屋のすばらしい将来にたいする、わたしの確信を裏づけるものだ。しかし商売を拡充するだけじゃ、ほんとうの未来はおとずれない。肝心なのは専門家としての誇りを持つことだ。粗悪な本やいんちきな本や嘘を書いた本をほしがると、一般大衆にむかって文句をいってもはじまらない。医者よ、汝自身を癒やせ! 本屋に良書を見わけ、敬うことを学ばせよ。そうすれば客に教えることができる。良書を読みたいという欲求はきみが夢想するよりはるかに広がっているし、強いものだ。しかしそれはまだ、いうなれば意識下にとどまっている。人々は本を必要としているが、必要としていることを知らないのだ。たいていは必要としている本が存在することにも気づいていない」

 「どうして宣伝でそのことを教えてやらないんです?」若い男はなかなかするどく尋ねた。

 「きみ、わたしも宣伝の価値は理解している。しかしわたしの場合はむなしいのだ。わたしは商品の卸業者じゃなくて、人の必要にあわせて本をえらぶ専門家なんだ。ここだけの話、『よい』本という抽象的なものは存在しない。本は人間の飢えを満たし、まちがいを証明するときにのみ、『よい』本といえる。わたしにとってよい本は、きみにとって無価値ということもおおいにありうる。わたしの楽しみはここに立ち寄り、喜んで症状を話してくれる患者さんに本を処方することだ。なかには読書能力を衰退させてしまって、検死をしてあげるほかは手のうちようのない人もいる。しかしたいていはまだ治療の道がのこされている。いちばん喜んでくれるのは、その人の魂が求めていた、まさにその本を紹介することができ、しかもその本のことを知らなかったお客さんだ。この世に喜んでくれるお客さんほど強力な宣伝はないよ」

 彼はつづけた。「わたしが宣伝をしない理由をもうひとつ話そう。猫も杓子もきみがいうように大衆の前にトレードマークをかかげる今日では、宣伝をしないというのがもっとも独創的ではっとさせる注目の集め方なんだ。きみをここに引き寄せたのも、わたしが宣伝をしないという事実だった。それにここに来た人はだれもが、ここを発見したのは自分だけだと思っている。そして変人と狂人が経営するこの本の収容所のことを友だちにいいふらし、今度はそれを聞いた友だちがどんな場所なのだろうと見に来てくれるというわけさ」

 「わたしもまたここにきて、本を見てまわりたいです。あなたに処方していただきたいですよ」と宣伝マンはいった。

 「最初に学ぶべきは残念だと思う心だ。世界は四百五十年間、本を印刷しつづけてきたが、火薬のほうがいまだにそれより広く行きわたっている。しかし心配はいらない! 印刷屋のインクのほうが強力な爆弾だからね。いつかきっと火薬を負かすだろう。そうだね、ここにはよい本が何冊かある。世界には本当に重要な本が三万冊くらいしかない。そのうち五千冊は英語で書かれ、もう五千冊が翻訳されているはずだ」

 「夜もあいているんですか?」

 「十時までね。うちのお得意さんは昼間ずっと働いている人が多くて、夜でないと本屋に来ることができないんだ。真の読書家というのはたいてい貧しい階層の人々だよ。読書に夢中という人は、仲間から金をまきあげてやろうなどと、あくどい計画をねる暇もないし、忍耐も持っていない」

 小柄な店主のはげ頭は、包装台の上のつり電球の明かりを受けてひかった。目は真剣さにかがやき、短い赤髭が針金のようにぴんと立っていた。彼はボタンがふたつとれた、みすぼらしい茶色のノーフォークジャケットを着ていた。

 ちょっと狂信的なところがあるな、と訪問者は思った。しかしとても愉快な狂信者だが。「それでは、ご主人、お話を聞かせていただいてほんとうに感謝します。またまいります。おやすみなさい」彼はドアにむかって通路をもどりはじめた。

 店の正面にちかづいたとき、ミスタ・ミフリンが天井高くぶらさがっている電球の群れに明かりをともしてくれたので、若者は脇に大きな掲示板があるのに気がついた。切り抜き、お知らせ、回状、そして小さくこぎれいな字でカードに書かれた本の短評がそこを埋めている。こんな掲示が彼の目をとらえた。

 処方箋

 もしもあなたの心が、燐を必要としているなら、ローガン・ピアソール・スミスの「トリヴィア」をおためしあれ。

 もしもあなたの心が、丘の上と、桜草の谷から吹きつける、青く清浄な一陣の強い風を必要としているなら、リチャード・ジェフリーズの「わが心の物語」を。

 もしも鉄分配合の強壮酒と、とことん頭のなかを引っかきまわされるような経験が必要なら、サミュエル・バトラーの「ノートブックス」あるいはチェスタートンの「木曜日の男」を。

 「アイルランド的な奇想」、羽目をはずしたどんちゃん騒ぎが必要なら、ジェイムズ・スティーブンスの「半神半人」を。教えるのがもったいないような、思った以上にいい本です。

 砂時計をひっくりかえすように、時には心を上下反対にして、砂粒を逆流させるのもいいもの。

 英語をいつくしむ人なら、ラテン語の辞書はとてもおもしろいはず。

ロジャー・ミフリン   

 人間はすでに多少知っている事柄でないと、あまり注意をはらわないものだ。若者は書籍療法士が処方した本はどれひとつ聞いたことがなかった。彼がドアを開けようとしたとき、ミフリンがそばにあらわれた。

 「ねえ、きみ」彼はどことなく妙におどおどした様子でいった。「きみとの話はとてもおもしろかったよ。今晩、わたしはひとりなんだが――妻が旅行に出ているんだ。よかったらいっしょに夕ご飯をどうだろう? きみが来たとき、ちょうど新しいレシピを見ていたところだ」

 相手はこの思いがけない招待に驚き、おなじくらい喜びもした。

 「ああ、それは――ご親切にありがとうございます。でもほんとうにお邪魔じゃないんですか?」

 「とんでもない! わたしはひとりで食事をするのがだいきらいなんだ。だれかうちに寄ってくれないかと思っていたところだ。妻がいないときはいつもお客さんを招くようにしている。ほら、店番があるから、わたしは家にいなければならないんだ。召使いがいないので自分で料理をしている。料理はじつに楽しいね。さあ、パイプに火をつけて、準備をするあいだ、くつろいでくれ。奥の居間に行こう」

 ミフリンは正面入り口の本の平台ひらだいにつぎのように書かれた大きな札をのせた。

店主食事中につき

ご用の方は

ベルを鳴らしてください

 札の横に大きくて古風なディナーベルを置くと、彼は先に立って店の奥へすすんだ。

 この変わり者の商人が料理の本を研究していたせまい帳場のうしろには、左右にほそい階段があって、それぞれ二階の回廊までのびていた。その階段のうしろの短いあがり段をあがると、家族が住まう奥の間にでる。訪問者はまねかれるままに左手の小部屋にはいった。黄色がかった大理石のすすけたマントルピースのなかで石炭があかあかと燃えていた。その飾り棚の上には黒ずんだコーンパイプが一列に並び、刻みたばこの缶が一つ置いてある。上の壁にはびっくりするくらいどぎつい油絵がかかっていた。大きな青い馬車が、見たところ馬らしき、白い屈強な動物にひかれている。青々としげる草の背景が、画家の力強い筆づかいをきわだたせていた。壁は本でびっしりつまっていた。貧弱だが座り心地のよさそうな椅子が二脚、鉄の炉格子の前に引き寄せられている。からし色のテリヤが寝そべっていたが、火にちかづきすぎて、毛のこげるにおいがした。

 「さあ、ここがうちの居間、くつろぎの礼拝堂だよ。コートを脱いでお座りなさい」

 「あのう」とギルバートが話しはじめた。「こんなことをしていただいて――」

 「なにをおっしゃる! さあ、座って魂を、神と台所のかまどにゆだねなさい。わたしは夕食の支度をしてくる」

 ギルバートはパイプを取り出し、うきうきした気持ちで奇妙な一夜をたのしむ心づもりをした。彼は愛想がよくて、よく気がつく、人当たりのいい青年だった。文学の話題にとぼしいことは自覚していたが、それは名門大学に進学したものの、グリークラブと演劇活動がいそがしくて、読書する時間がほとんどなかったからである。しかし、主に噂で情報を手にいれるとはいえ、よい本を読むのは大好きだった。年齢は二十五歳、職業はグレイ・マター広告代理店のコピーライターだった。

 彼がいる小部屋が店主にとって神聖な場所であることはあきらかで、店主個人の蔵書が並べられていた。ギルバートは本棚を興味ぶかく眺めまわした。本はぼろぼろにいたんでいるものがほとんどだった。どうやら古本屋の粗末な飼い葉桶から一冊一冊選ばれたものらしい。どの本にも手あかと瞑想のあとがついている。

 ミスタ・ギルバートは自己修養なるものに熱中していて、これは多くの若者の人生をしおれさせてきたものなのだが、しかし大学卒という経歴や男子学生友愛会フラターニティのきらめく記章を負担に感じる人々にあっては賞賛にあたいする情熱である。彼はふとミフリンが蒐集した本のタイトルをいくつか書き抜いておけば、自分の読書の貴重な参考になるのではないかという気がした。彼は手帳を取り出し、興味をそそる本の題を書きつけはじめた。

 フランシス・トンプソン全集(三巻)

 アパーソン「喫煙の社会史」

 ヒラリー・ベロック「ローマへの道」

 岡倉覚三「茶の本」

 F・C・バーナンド「名案」

 「ジョンソン博士の祈祷と瞑想」

 J・M・バリー「マーガレット・オギルビイ」

 テイラー「サグ団員の告白」

 オクスフォード大学出版部総目録

 C・E・モンタギュー「夜明けのたたかい」

 ロバート・ブリッジズ編「人間の精神」

 ボロー「ジプシー紳士」

 エミリー・ディッキンソン「詩集」

 ジョージ・ハーバート「詩集」

 ジョージ・ギッシング「蜘蛛の巣の家」

 ここまで書き取り、(嫉妬ぶかい女王さまである)広告のためにも、もう止めたほうがいいと思ったとき、主人が小さな顔をかがやかせ、目を青い光の点にして部屋のなかに入ってきた。

 「さあ、ミスタ・オーブリー・ギルバート!」彼は叫んだ。「食事の準備ができました。手を洗いますか? じゃあ、いそぎましょう。こちらです。卵が熱々で待っていますよ」

 客が招じ入れられた食事室は、たばこの煙にかすむ店内や居間にはない女性らしさをしめしていた。窓には笑っているようなチンツのカーテンがかけられ、ピンクのゼラニウムの鉢が置いてあった。オレンジ色のシルクにおおわれたつるしランプの下には、テーブルが置かれ、まばゆい銀器や青い皿がならんでいた。カットグラスのデカンターには赤茶色のワインがきらめいている。有能な広告業者は気持ちが高揚するのをはっきりと感じた。

 「さあ、座ってください」ミフリンは大皿のふたを取りながらいった。「これはサミュエル・バトラー風卵といいまして、わたしが考案した、卵料理の精髄ですぞ」

 ギルバートはその考案を賞賛の言葉でむかえた。サミュエル・バトラー風卵を家庭の主婦のメモ用に簡単に紹介すると、トーストの土台にベーコンの薄切りと、かためにゆでた落し卵をのせ、まわりをきのこで飾ってピラミッド状にし、てっぺんに唐辛子をふりかけたものといっていいだろう。全体に考案者秘密のあたたかいピンク色のソースがかけられている。書店主のシェフはこれにフライドポテトをべつの皿からもりつけ、客のグラスにワインをそそいだ。

 「これはカリフォルニアのカトーバ・ワインだ。このなかで葡萄と太陽の光が、それぞれさだめられた運命をじつに味わいよく、しかも安価にまっとうしている。きみの黒魔術、広告の繁栄に乾杯しよう!」

 広告の本質をなす心理作戦の要諦は、如才のなさ、聞き手の気分にぴったりの口調や言葉づかいを直感的に察知することにある。ミスタ・ギルバートはこのことをよく理解していた。主人はおそらく本屋という神聖な職業よりも、美食家としての余技のほうを自慢に思っているのではないかと彼は直感した。

 「ご主人」彼はジョンソン博士のまねにしては、ずいぶんわかりやすい言葉づかいでそう話しはじめた。「かくも美味なる一品を、かくもすばやくおつくりになるなど、はたして可能でありましょうか? わたしをかついでいらっしゃるのではありませんか? ギッシング通りとリッツホテルの厨房のあいだに秘密の通路がありはしないでしょうね?」

 「ああ、妻の手料理を味わってごらんなさい! わたしは彼女がいないときに道楽で手を出すしろうとにすぎない。妻はボストンの従姉妹をたずねている。この建物にこもるたばこの煙にうんざりして、当然といえば当然なんだが、健康のために年に一度か二度、ビーコンヒルのすんだ空気を吸いに行くんだよ。妻が留守のあいだ、家事という儀式を研究するのはわたしの特権だ。店でたえず興奮したり思索したりしたあとでは、心をしずめるのに非常にいいね」

 「本屋さんはとてものどかな生活をおくっているものだと思っていましたが」

 「とんでもない。本屋の生活は爆弾倉庫に住むようなものだ。あの棚にはこの世でもっとも危険な可燃物――人間の頭脳がならんでいる。雨の日の午後を読書してすごすと、わたしの心は人間がかかえる諸問題にかき乱され、不安におちいり、気がめいってしまう。あれはおそろしく神経をつかれさせる。カーライル、エマーソン、ソロー、チェスタートン、ショー、ニーチェ、それにジョージ・エードに囲まれてみなさい――興奮するのも当然じゃないかね? もしも猫が好物のイヌハッカのつづれ織りで飾られた部屋に住まなければならないとしたらどうなるだろう? そりゃあ、気が変になるだろう!」

 「正直にいって、本屋さんにそんな側面があるとは思いもよりませんでした」と若者はいった。「しかし、それなら図書館はどうしてあんなにおごかな静けさにつつまれた神殿なのでしょう? あなたがおっしゃるように本が挑発的なら、図書館員はみんな秘儀の祭司のように甲高い叫び声をあげ、ひっそりしたアルコーヴのなかで夢中になってカスタネットでも打ち鳴らしそうなものですよ!」

 「だがね、きみ、きみは検索カードを忘れているよ。図書館員は、魂の熱冷ましとして鎮静効果のあるしかけを考え出したんだ。わたしが台所の儀式を利用するのとまったくおなじだ。集中してものを考えることができる図書館員だもの、ひんやりとして心をいやす薬のような検索カードがなければ、みんな頭がおかしくなるよ! 卵のおかわりはどうだい?」

 「ありがとうございます」ギルバートはいった。「この料理の名前のもとになった執事バトラーはだれでしたっけ?」

 「なんだって?」ミフリンはショックを受けて叫んだ。「きみはサミュエル・バトラーを聞いたことがないのか? 『万人の道』の作者を? きみ、この本と『エレホン』を読まずに死んだ人間は、天国に行く機会をわざと放棄したようなものだ。あの世で天国に行けるかどうかはわからないが、この世にはまちがいなく天国がある。それはよい本を読むときに住まうことができる天国だ。ワインをもう一杯めしあがれ。それではここでひとつ……」

 (ここからサミュエル・バトラーの反逆的な哲学について、熱のこもった説明がはじまるのだが、読者に敬意を表して割愛しよう。ミスタ・ギルバートは会話の最中にメモを取り、うれしいことに、自分の罪ぶかさを心から自覚したらしい。数日後、彼は市立図書館にあらわれ、「万人の道」はないかとたずねているところを目撃されている。図書館を四つ訪ねてまわり、いずれの場所でも本が貸し出し中であることを知り、彼は一冊購入せざるをえなかったが、そのことを後悔はしていない)

 「おやおや、お客さまをおまねきしながら、わたしはなにをしているのやら」ミフリンはいった。「デザートはアップルソース、ショウガ入りケーキ、そしてコーヒーだよ」彼はからになった皿を手早くテーブルからかたづけ、つぎの品を持ってきた。

 「さっきから食器棚の上の注意書きが気になっていたんですが」ギルバートはいった。「今晩、かたづけのお手伝いをさせてもらえませんか?」彼は台所のドアのちかくにかかっている札を指さした。それにはこう書いてある。

食事が終わったすぐあとに

かならず皿を洗うこと

あとで手間がかかりません

 「残念だが、いつもあの教えを守っているわけではない」店主はコーヒーをそそぎながらいった。「妻は注意をうながすために出かけるときはいつもあれをかけていく。しかしわたしたちの友人、サミュエル・バトラーがいうように、些末なことにとらわれるおろか者は、大切なことを見失うおろか者だ。わたしは皿洗いにかんして人とはちがう見解をもっていて、わたしなりの流儀でたのしんでやっている。

 わたしは皿洗いをいやしい雑用、いってみれば眉間にしわをよせ、辛抱づよく堪えしのばなければならない、憎むべき試練にすぎないと思っていた。妻がはじめて出かけたとき、わたしは流しの上に書見台と電球を取りつけ、手が自動的に食器洗いというくだらない行為をおこなっているあいだ、本を読んでいたものだ。偉大な文学の霊を悲しみの友にし、鍋や皿にまじって水をあび、のたうちまわりながら、『楽園喪失』やウォルト・メイソンをずいぶん暗記した。よくキーツの詩の二行を口ずさんで自分を慰めたものだ。

 動きやまぬ波は神官のごとく

 人住まう大地の岸辺を浄め……

そのとき、新しいものの見方にはっと気がついた。人間は、いかなる仕事も、強制されて苦行のようにいつまでもつづけることはできない。どんな仕事であれ、それになんらかの精神的な意味を賦与し、ふるい考え方を打ちこわし、心から望むものに作り変えなければならない。皿洗いの場合はどうしたらいいだろう?

 わたしはこの問題を考えながら、かなりの数の皿を割ったよ。そしてふいに、これこそわたしに必要な息抜きなんだとさとったのだ。それまで、人生の栄光や苦悩について相矛盾する見解を叫びつづけるやかましい本たちに終日囲まれ、頭がくたくたになってしまうことに不安を感じていたのだ。それなら皿洗いをわたしの鎮痛剤と湿布薬にしたらどうだろう?

 どうにもならないような事実も、あたらしい角度から見ると、おどろくほど輪郭や縁の形がちがってくるものだ! とたんに洗い桶は一種、哲学的な神々しさをおびて光りはじめた! なまぬるい泡だらけの水は、かっかした頭を冷す特効薬になり、コップや皿を洗って乾かす地味な行為は、いうことを聞かないまわりの世界に人間が押しつける秩序と清潔さの象徴に変わった。わたしは流しの上から書見台と読書灯をとっぱらった。

 ギルバートさん、笑わないで聞いてほしいんだが、わたしは独自の台所哲学を発展させたんだ。台所はわたしたちの文明の聖堂、人生における好ましいものすべての中心だと思う。ストーブの赤いかがやきは、どんな夕焼けにも負けないくらい色鮮やかだ。丹念にみがかれた水入れやスプーンは、ソネットのように優雅で、完璧で、美しい。きちんと洗って水切りをし、裏口のドアの外にほしてある皿洗い用のモップは、それじたいが一編の説教だ。冷蔵庫の水受けをからにして、スコットランド風にいえば、台所をくまなく『レッドアップ(整理)』したあと、勝手口から見る星くらいかがやかしいものはない」

 「とてもすてきな哲学ですね」とギルバートはいった。「さあ、食事がおわりましたから、ぜひ皿洗いのお手伝いをさせてください。あなたの汎皿論をためしてみたくてうずうずしているんです」

 「きみ」ミフリンはせっかちな客を手で押さえるようにしていった。「たまには否定を甘んじて受けいれるぐらいでないと、本物の哲学とはいえない。いやいや――いっしょに皿を洗ってくれとたのんだんじゃないんだ」彼は客をふたたび居間のほうへ導いた。

 「きみが入ってくるのを見たとき、新聞記者が取材に来たのかと心配になったよ。いちど若いジャーナリストがうちに来て、非常に不愉快な目にあったことがある。やつは妻に取り入って、わたしたちの話を本にしてしまった。『パルナッソス移動書店』というんだが、わたしにとってはいささか目ざわりな本でね。その本のなかで、わたしは本屋の仕事について、あさはかで感傷的な発言をいくつもしていることになっているんだが、それが同業者をいらいらさせている。しかしさいわいなことに、その本はほとんど売れなかった」

 「聞いたことがない本ですね」とギルバートはいった。

 「本屋の仕事に真剣な興味があるなら、いつかまた晩に来てコーンパイプ・クラブに顔を出しなさい。月に一回、書店主が大勢ここにあつまって、コーンパイプをくゆらし、リンゴジュースを飲みながら本の話をするんだ。じつにいろいろな書店主がいるよ。一人は図書館の話ばかりをする。彼は、市立図書館をことごとく爆破すべし、と考えている。それから映画が出版業を破滅させると考えている人もいる。ばかな話だ! 精神をとぎすまし、疑問をいだかせるものは、どんなものであれ、かならず読書欲をかきたてるものだ」

 「本屋の生活は知性をひどく堕落させる」一息おいて彼はつづけた。「数知れぬ本に取り囲まれているが、すべてを読むことはできないので、あっちをちょいとのぞき、こっちをすこしかじるという読み方をする。しだいに頭のなかは漂流物の寄せ集め、うすっぺらな意見、千の生半可な知識でいっぱいになり、ほとんど無意識のうちに、大衆の需要という尺度で文学を評価しはじめる。ラルフ・ウォルド・トラインはラルフ・ウォルド・エマソンよりすぐれているのではないかとか、J・M・チャプルはJ・M・バリーとおなじくらい偉大な文人じゃないかとか考えるようになる。こうして知性は自殺してしまうのだ。

 しかしよい本屋には一つだけ認めてやらなければならないことがある。それは寛容だということだ。本屋はどんな思想や理論にも辛抱づよく接する。奔流のような人間の言葉にのみこまれても、喜んで一人ひとりの言い分に耳をかたむける。出版社のセールスマンにさえおおらかに耳を貸す。人類の幸福のためならすすんでだまされようというのだ。よい本が生まれることをひたすら願っているのだ。

 わたしの商売は、ごらんのとおり、ほかとくらべるとずいぶん毛色がちがっている。あつかっているのは古本だけだし、買い取るのも正当な存在価値があると、わたしが考える本だけだ。人間の判断がおよぶ範囲で、わたしは駄本を棚に置かないようにしている。医者はにせの薬を売買しない。わたしはいいかげんな本を売買しない。

 先日、おもしろいことがあったよ。あるお金持ちで、ミスタ・チャップマンという人がいるんだが、この店に足繁くかようになってもうずいぶんになる……」

 「もしかするとチャップマン・デインティビッツ株式会社のミスタ・チャップマンですか?」ギルバートは勝手を知った領域に足を踏み入れたことを感じながらいった。

 「そうだが」ミフリンはいった。「知っているのかい?」

 「やっぱり」青年は敬意のこもった声で叫んだ。「あの人こそあなたに広告の美徳をお話しできる人ですよ。あの人が本に興味を持っているとしたら、それは広告のせいです。あの会社の広告は、すべてうちが引き受けているんです――わたし自身もたくさん作りました。わたしたちがチャップマン社のプルーンを、文明と文化の必需品にしたんです。大きな雑誌ならかならずのせている『わが社の自慢、チャップマン・プルーン』というあの標語はわたしが考えたんです。チャップマン社のプルーンは世界じゅうが知っています。日本のみかどは一週間に一回食べているし、ローマ法王も食べています。そうだ、講和会議に出席するため大統領が乗船するジョージ・ワシントン号にも十三箱積み込まれたって話ですよ。チェコスロバキア軍の糧秣はほとんどがプルーンでした。チャップマン・プルーンの宣伝が戦争勝利におおいに寄与したと、うちの会社は確信しています」

 「このまえ読んだ広告――もしかしたらあれもきみが書いたのかい?」と店主はいった。「エルジン時計が戦争を勝利に導いた、というやつだが。ともかく、チャップマンさんは長いことうちのお得意さんのひとりなんだ。彼はコーンパイプ・クラブのことを聞いて、もちろん書店主じゃないんだが、ぜひ集まりに参加したいと熱心に頼みに来た。わたしたちは大歓迎だったし、彼も真剣に議論の輪にくわわってくれた。鋭い意見を出すこともしばしばあった。彼は本屋の生活にいれこんでしまって、先日、娘さんのことでわたしに手紙をよこしたくらいだ。(チャップマンさんはやもめ暮らしをしている)娘さんは上流階級の女の子が通う学校に行っているのだが、彼がいうには、そこで常識はずれの贅沢な俗物思想をたっぷり吸収したらしい。人生の意義とか美しさがわからない点は、ポメラニア犬とおなじだそうだ。彼は娘を大学にやるかわりに、わたしたち夫婦が引き取って、ここで書籍商の仕事を教えてくれないかといってきた。彼女には自活しているように思わせておいて、内緒で住み込みの費用を払うというのだ。本に囲まれていれば、すこしは良識をわきまえるようになるのではないかと考えているようだ。そんなことをこころみて大丈夫なのかと、ちょっと不安なんだが、しかし店にとっては名誉なことだ。ちがうかね?」

 「おどろいたなあ」ギルバートは大声を出した。「それをネタにしてすごいコピーが作れますよ!」

 ちょうどそのとき店のベルが鳴り、ミフリンは飛びあがった。「夜のこの時間帯はちょいとだけいそがしくなることがある」彼はいった。「残念だが、下に行かなければならない。常連客のなかには、わたしが本の話に花を咲かせようと、うずうずしながら待ちかまえていると思っている人がいる」

 「お礼の言葉もないくらいたのしかったです」ギルバートはいった。「またお邪魔して、本棚をじっくり見ることにします」

 「そうだ、さっきのお嬢さんの話は秘密にしておいていただきたい」と店主はいった。「きみのようなさっそうとした青年が押し寄せて、彼女の心をまどわすようではこまる。この店にいるあいだ、恋をする相手はジョセフ・コンラッドかジョン・キーツにしてもらわなければね!」

 外に出て行くとき、ギルバートはロジャー・ミフリンが髭をはやした大学教授風の男と話しているのを見た。「カーライルの『オリバー・クロムウェル伝』ですか?」彼はそういっていた。「もちろんですとも! こちらですよ! おや、変だな! ここにあったんだがなあ!」

第二章 コーンパイプ・クラブ

読者が書店経営者でないなら、本章の後半は飛ばしていただいてかまわない。

 幽霊書店は魅力にあふれる店だが、とりわけ夕方、ものういアルコーブにランプの光がともり、本の列を照らし出すときがそうだった。多くの通行人がひたすら好奇心にかられて階段をおりてきた。それ以外のなじみの客は、クラブを訪れる男のようにゆったりとした気分で店に立ち寄った。ロジャーは店の奥で机にむかい、パイプをふかして本を読むのが常だったが、客に話しかけられると、たちまち会話に夢中になった。おしゃべりな獅子は身体のなかに眠っているだけで、それを目ざめさせるのは造作もなかった。

 夜も営業している本屋は、どこも夕食後が多忙な時間帯といっていいだろう。真の読書好きは夜行性の種族であって、闇と静けさと笠を被った電球の光が、あらがいがたい力で読書へといざなうまで外に出ようとしないからだろうか? もちろん夜は文学と神秘的な類縁性を持っている。イヌイットが偉大な書物を生み出していないのは奇怪なことだ。われわれのほとんどは北極の夜などオー・ヘンリーとスティーブンソンがなければ耐えられないだろう。また、いっときアンブローズ・ビアスにかぶれたロジャー・ミフリンはこういったこともある。真に甘美な夜ノクテス・アムブロジアナエは、アンブローズ・ビアスの夜である、と。

 しかしロジャーは十時になるとパルナッソスの家をさっさと閉めた。その時刻に彼とボック(からし色のテリヤで、ボッカチオから名前をとった)は、店を巡回してすみずみまで点検し、客用の灰皿をあけ、正面ドアに鍵をかけて明かりを消した。そのあと彼らが居間にもどると、たいていミフリン夫人が編み物か読書をしていた。彼女はポットにココアをわかし、二人は床につくまでの半時間あまりを読書やおしゃべりで過ごすのである。ロジャーは寝る前にギッシング通りを散策することもあった。一日じゅう本といっしょにいると、精神的な疲労は相当なものになる。だからブルックリンの通りを吹き抜けるさわやかな風にあたって、ボックが老犬らしく鼻を鳴らしたり、夜道をのろのろ歩くかたわら、読書中に思いついたことをじっくり考え直したりしたものだ。

 しかしミセス・ミフリンが家にいないとき、ロジャーの行動はいつもの手順をいささか逸脱する。店じまいをしたあと、彼は机にもどり、こそこそと恥ずかしそうに、いちばん下の引き出しからメモや原稿が乱雑につめこまれた紙ばさみを取り出す。これは押し入れのなかの骸骨、人に知られてはならない彼の罪悪だった。それはすくなくとも十年のあいだ、彼が編集して本にしようとしてきた資料で、「文学ノート」、「松葉杖をついた詩神」、「本とわたし」、「若き書籍商が知っておくべきこと」などといったいろいろな仮題がつけられていた。はるか昔、彼が本の行商人として田舎をうろつきまわっていたころに「農民と文学」という題で書きはじめたものなのだが、しだいに枝葉がついて、ついには(すくなくとも分量だけは)リドパス教授の布張りの著作(註 「リドパスの世界文学集成」のこと)をおびかすまでにいたった。いまのところ、この草稿には出だしも終わりもなく、ただ中間部分だけが猛烈な勢いでふくれつつあり、何百枚もの原稿用紙がロジャーのこまかな手書き文字で埋まっていた。「アルス・ビブリオポラエ」、すなわち本を売る技術の章は、いまだ生まれざる書籍販売業者に古典として世代を超えて読み継がれることを彼は望んでいた。散らかった机にむかい、もうもうたるたばこの煙の掛布団にやさしく包まれ、彼は原稿を熟読しながら、字句を消し、手を加え、議論をやり直し、棚の本を参照した。ボックは椅子の下でいびきをかき、じきにロジャーは頭が朦朧としてきた。結局、彼は原稿用紙の上につっぷして寝てしまい、夜中の二時ごろ、からだが痛くなって目をさまし、いらいらと床をきしませひとり寝のベッドにむかうのだ。

 長々とこんなことを話したのは、オーブリー・ギルバートが訪ねてきた晩の真夜中、ロジャーが机にむかってうとうとしていたことを説明したかったからにすぎない。渓流のように冷たいすきま風がはげた頭の上を通りすぎ、彼は目をさました。上半身をぴんと起こして、まわりを見た。店内は頭上の明るい電球以外は暗闇に包まれている。飼い主よりも規則正しい生活を送っているボックは、台所にある寝床にもどっていた。かつてはブリタニカ百科事典が一式詰め込まれていた荷箱で作ったものだった。

 「変だな」ロジャーはひとりごとをいった。「たしかに鍵はかけたんだが」彼は店の正面に行き、スイッチを押して、天井からぶらさがる電球の群れに明かりをともした。ドアがすこし開いていたが、ほかはなんの異常もないようだった。彼の足音を聞きつけたボックが、木の床に爪音を響かせながら台所からとことこと出てきた。主人の奇矯なふるまいに慣れた犬らしく、辛抱づよく問いかけるような目で彼を見あげた。

 「だんだんぼけてきたようだ」ロジャーはいった。「きっと閉め忘れたんだ」彼はドアを閉めて鍵をかけた。そのときテリヤが店の正面の左側にある歴史のアルコーヴに入り込み、においを嗅いでいることに気がついた。

 「どうしたんだ、おまえ」ロジャーはいった。「寝床で読む本がほしいのか?」彼はアルコーヴの明かりをつけた。なにも変わったところはないように思われた。が、ふと一冊の本がまっすぐに並んだ背表紙の列から一インチほど飛び出しているのを見つけた。ロジャーは几帳面に棚の本をことごとく平らに並べる癖があり、ほとんど毎晩、閉店の時間になると、てのひらを背表紙にそってはしらせ、不注意な閲覧者による本の不揃いを直すことにしていた。彼は手を伸ばして本を押し込もうとした。そして手を止めた。

 「こりゃまた変だな」彼は思った。「カーライルの『オリバー・クロムウェル伝』じゃないか! 昨日探したときは見つからなかったのに。あの教授がここにいたとき。もしかしたら疲れて、まともにものも見えなくなったのかも知れない。寝ることにしよう」

 つぎの日はきわめて重要な日だった。感謝祭とコーンパイプ・クラブの十一月例会がかさなっているだけでなく、ミフリン夫人がそれに間にあうようにボストンから帰ってきて、書店主たちのためにチョコレートケーキを焼いてあげると約束していたのである。クラブのメンバーのなかには、本の話をするためというより、ミフリン夫人のチョコレートケーキと、彼女の兄アンドリュー・マギルがサビニ農場から毎年秋に送ってくる樽詰めのリンゴジュースを目あてに欠かさず出席する者もあるという。

 ロジャーは妻の帰りをむかえる準備として、かるく家の掃除をして午前中をすごした。食べ物のくずやら、たばこの灰が食事室の絨毯の上にたくさんたまっていて、彼はいささか恥ずかしくなった。昼食はつつましくラムチョップとベークトポテトですませたが、食べ物にかんする警句が頭にうかんだのでご満悦だった。「大切なのはあなたが夢に見る食べ物ではない」彼はひとりつぶやいた。「家のなかに入り来たり、家族の一員となる食べ物こそ重要なのである」もうすこしみがきあげ、言葉づかいを工夫する必要があるが、ちょっと気がきいていると思った。ひとりで食事をするときは、よくいろいろなことを思いつくのだった。

 そのあと流し場で皿洗いに精を出していると、二本の腕がじつに手早く彼をつつみ、ギンガムのピンク色のエプロンを頭からすっぽりかぶせたのでびっくりした。「ミフリン」妻がいった。「何度いったらわかるの! 洗い物をするときはエプロンをおつけなさい」

 二人は気があって結婚した中年者どうしの、あっさりしたなかにも心から愛情のこもった挨拶をかわした。ヘレン・ミフリンはふくよかな健康的な女性で、良識とユーモアに富み、心にも身体にも栄養がゆきわたっていた。彼女はロジャーのはげた頭にキスをし、相手の小柄な身体に腕をまわしてエプロンの紐を結び、台所の椅子に座って彼が食器をふきおわるのを見ていた。彼女の頬は身を切るような空気にあたって冷たく赤みをおび、その顔は快適な都市ボストンに逗留した者があじわう静かな満足感にかがやいていた。

 「さあ、おまえ」ロジャーはいった。「これでほんとうの感謝祭になった。『家庭版名詩選集』みたいにふっくらして元気いっぱいのようだね」(註 「家庭版名詩選集」は四千ページあまりのぶあつい本)

 「すばらしかったわ」彼女は膝もとのボックをかるくなでながらいった。犬は人間の友を見わける嗅ぎなれた不思議なにおいを吸いこんでいた。「三週間というもの、本の話はいっさいなし。きのう、オールド・アングル書店に立ち寄って、ジョー・ジリングスにひとこと挨拶して来たの。彼は、書店主はみんな頭が変だけど、あなたは群を抜いて変だっていっていたわよ。まだ店はつぶれていないのか、ですって」

 ロジャーの灰色がかった青い目がひかった。彼は瀬戸物戸棚のフックにコップをひっかけ、パイプに火をつけてから返事をした。

 「なんて答えたんだい?」

 「うちの店には幽霊がついているから、普通の本屋とはわけがちがうのよ、って」

 「よくぞいった! で、ジョーはなんていっていた?」

 「『変わり者にとりつかれているのさ』だって」

 「そうだな」ロジャーがいった。「文学が破産することになったなら、そのときはわたしも運命を共にしよう。それまではやめるものか。ところで、もうすぐ、うちの店に美しい乙女がとりつくことになっているんだ。チャップマンさんがお嬢さんをうちの店で働かせたいといったのを覚えているだろう? ほら、これは今朝、彼からとどいた手紙だよ」

 彼はポケットをさぐって手紙を取り出した。ミセス・ミフリンが読んだのは、つぎのような文面だった。

 親愛なるミフリン

 きみと奥さんが娘を試験的に見習いとして雇うことにこころよく同意してくれたので、わたしは心から喜んでいる。ティタニアはほんとうはとてもかわいい娘で、いわゆる「教養学校」のくだらない考え方を頭から取りのぞいてやれば、立派な女性になるだろう。(これは彼女のせいではなく、わたしに問題があったのだが)彼女はほしいものはなんでも手に入り、気まぐれはすべて許されるという悪い環境のなかで育てあげられてきた、というか、育てさげられてきた。彼女のためにも、また、結婚することがあるなら、未来の夫のためにも、彼女に生計を立てることを多少学んでもらいたいのだ。彼女はもうすぐ十九歳になる。わたしは彼女に、しばらく本屋の仕事をしたなら、そのあとは一年間ヨーロッパ旅行につれていってやると約束した。

 前にも説明したとおり、彼女にはほんとうに自活しているのだと思わせておきたい。もちろん毎日の仕事がきつすぎるというのでは困るが、しかし自力で人生に立ちむかうことの意味をいくらかでも理解させたい。給料は新米あつかいで毎週十ドル、そこから食費を差し引いてくれたら、わたしのほうからは、娘の世話ときみたちのやさしい監督にたいして、こっそり毎週二十ドルを払う。あすの夜、コーンパイプ・クラブに出るから、そのとき最終的な手はずをととのえよう。

 さいわいなことに、娘は本が大好きで、今回の冒険におおいに期待しているようだ。たまたま昨日、娘が友達の一人に、今年の冬は「文学的な仕事」をする、などと言っているのを耳にした。わたしが娘に卒業してもらいたいのは、こういうばかげたものの言い方だ。本屋で働く、と言えるようになったら、彼女の病気は治ったということだ。

親愛なるきみの友   

ジョージ・チャップマン   

 「どうだい?」ミフリン夫人がなにもいわないのでロジャーは尋ねた。「われわれの平穏な暮らしがかかえる諸問題に純真な若い娘がどう反応するか、ちょっと興味ぶかいと思わないか?」

 「ロジャー、あなたってどこまで世間知らずなの!」妻は叫んだ。「ここに十九歳の女の子が来たら、平穏な暮らしどころじゃなくなるわよ。自分をだますことはできるかもしれないけど、わたしはだまされない。十九歳の女の子は『反応』するんじゃないのよ。爆発するの。『反応』がおきるのはボストンと化学実験室だけ。あなたは兵器庫に人間爆弾をつれこもうとしているのよ。わかっている?」

 ロジャーは、そうだろうか、という顔をした。「『ハーミストンのウィア』のなかで女の子のことを『爆発機関』とか書いてあったな。しかしべつに困ることもないだろう。われわれは二人とも砲弾ショックには充分抵抗力がある。考えられる最悪の事態は、わたしの『エリザベス女王時代の炉端談話』が見つかってしまうことだ。どこかに鍵をかけてしまっておくよう、あとで注意してくれないか?」

 マーク・トゥエインの手になるこの秘密の傑作は、店主の宝物の一つだった。ヘレンですら読むのを許されていなかったが、彼女は賢明にも自分が好んで読むような本ではないことを見抜いていた。保管場所はちゃんと知っていたが(生命保険証券、自由公債、チャールズ・スペンサー・チャップリン直筆の手紙、新婚旅行で撮った彼女のスナップ写真などといっしょにしまってあった)、手にとって見ようとしたことは一度もなかった。

 「とにかく」ヘレンはいった。「ティタニアが来ようが来まいが、今晩、コーンパイプ・クラブがチョコレートケーキを食べたいというなら、遊んでるひまはないわ。お願いだからスーツケースを二階に持って行ってちょうだい」

 書店主の集まりは、参加してたのしい衆議所サンヘドリンである。歴史のふるいこの業界の人々には、洋服製造業者やそのほかの業界の人とおなじく、はっきりそれとわかる癖や特徴がある。彼らは、いってみれば、装丁がすり切れかかっているのだ。つまり、世俗的な利益に背をむけ、現金にはめぐまれない高貴な天職に殉じようとする者にふさわしい身なりをしている。彼らは幾分苦虫をかみつぶしたような顔をしているかも知れないが、不可解な天意を前にした人類にしてみれば上出来の表情である。出版社のセールスマンと長くつきあっているため、ごちそうの合間に賞賛される本には疑いの目をむける。出版社のセールスマンが夕食に誘う場合、最後の豆粒が皿の上で追いまわされるころ、会話が文学に流れたとしても驚くことではない。しかしジェリー・グラッドフィストがいうように(彼は三十八番街で店を経営している)、出版社のセールスマンは、長いあいだ満たされなかった、切実な要求を満たしてくれる。彼らは書店主風情には、そういう機会でもないかぎり、ありつけそうもないような食事をときどきおごってくれるのだ。

 「さあさあ、みなさん」ロジャーは客が彼の小部屋に集まったときにいった。「寒い晩になったね。火のそばに寄ってくれ。リンゴジュースはご自由にどうぞ。ケーキはテーブルの上。妻はこれを作るためにわざわざボストンからもどってきたんだ」

 「ミフリン夫人の健康に乾杯!」ミスタ・チャップマンがいった。彼は人の話をよく聞く、しずかな小柄な男である。「わたしたちが騒いでいるあいだ、奥さんにに店番をしてもらっていいのかね?」

 「気にすることはない」ロジャーがいった。「彼女は店番が好きなんだ」

 「ギッシング通りの映画館で『ターザン』を上映しているな」グラッドフィストがいった。「傑作だよ。見たかい?」

 「『ジャングルブック』が読めるあいだは、見るつもりはない」ロジャーがいった。

 「きみの文学談義にはうんざりだ」ジェリーが大声でいった。「本は本だよ、ハロルド・ベル・ライト(註 説教師からベストセラー作家になった人物)が書いたとしても」

 「本は本さ、読んで楽しければ」五番街に大きな書店をかまえるメレディスが訂正した。「ハロルド・ベル・ライトははやっているね。くだらないものがはやるように。不愉快きわまりないが、しかし心は広く持とう」

 「きみの議論には論理的一貫性がまるでないぞ」ジェリーはリンゴジュースに刺激され、いつになく頭が冴えていた。

 「前提から結論までロングパットは決まらなかったな」稀覯本と初版本をあつっているベンソンが笑った。

 「わたしがいいたいのはこういうことだ」ジェリーがいった。「われわれは文芸評論家じゃない。なにがよくて、なにが悪いかなど、知ったことではない。われわれの仕事はただ、大衆がほしがる本を、ほしいと思ったときに与えることだ。どうしてその本がほしくなったかなど、われわれには関係ない」

 「きみのような人間が書籍業をこの世で最低の仕事だといったりするんだ」ロジャーは興奮していった。「そしてきみのような人間が書籍業を最低の仕事にするんだ。きみは本にたいする一般人の食欲をかき立てることなど本屋の関心事ではないというんだろう?」

 「食欲というのはいいすぎだ」ジェリーがいった。「本というのはせいぜい寝ている病人が起き直って、すこしだけ食べる流動食くらいのものさ。食べごたえのあるものは敬遠される。病人の喉にローストビーフを詰め込んだら、死んでしまうよ。一般人のことは放っておけ。そして苦労してかせいだ金を手放しにやってきたら神さまに感謝することだ」

 「ふむ、儲けという最低レベルで考えてもだね」ロジャーはいった。「根拠があるわけじゃないが……」

 「きみの話にはいつも根拠がないな」ジェリーがちゃちゃをいれた。

 「しかしわたしは、ライト牧師の本を全部合わせたより、ブライスの『アメリカ共和国』のほうが、業界に利益をもたらしたと思いたい」

 「それがどうした? 両方とも出版すればいいだろう?」

 この前哨戦的な論争はさらに二人の客が到着したことによって中断した。ロジャーはリンゴジュースのカップを手わたし、ケーキとかごに入ったプレッツェルを指さして、コーンパイプに火をつけた。あらたにやってきたのはクインシーとフリューリングで、前者は巨大な百貨店の書籍部門に勤めている。後者はグランド通りのユダヤ人地区に店をかまえていた。山の手の愛書家にはあまり知られていないが、そこはブルックリンでもっとも在庫のそろった本屋の一つである。

 「さてさて」フリューリングは血色のいい頬と、もじゃもじゃの髭の上の黒くひかる目を輝かせていった。「なにを議論しているんだい?」

 「いつものやつさ」グラッドフィストがにやにや笑っていった。「ミフリンが商品と形而上学とを混同しているんだ」

 ミフリン――とんでもない。わたしはただ、まっとうな商売とは最上のものしか売らないことだといっているだけだ。

 グラッドフィスト――それもちがう。売り物は客に合わせなければならない。ここにいるクインシーに訊いてみろ。百貨店の客がエレナ・ポーターとターザンものをほしがっているときに、メーテルリンクとショーを棚に積み上げてどうする? 田舎の雑貨屋が、五番街のホテルのワインリストにのっているような葉巻を置くか? もちろん置かない。よくさばける、いつもの葉巻を仕入れるものだ。本屋もふつうの商売のやり方に従わなければならない。

 ミフリン――ふつうの商売のやり方とはしゃらくさい! わたしはそういうものがいやで、このギッシング通りに来たんだ。こせこせと意地汚く需要と供給にこだわらなければならないなんて、思っただけでも頭のなかのヒューズが吹っ飛ぶ。わたしに関するかぎり、供給が需要を生むんだ。

 グラッドフィスト――それでも、きみ、生計を立てるためにはこせこせと汚くやらなければならないだろう? だれかがお金を寄付してくれるのでないかぎり。

 ベンソン――うちの商売は、厳密にいえば、もちろん、みんなとおなじとはいえない。しかし稀覯本を売りながらわたしがよく考えることは、みんなにも興味があるんじゃないかな。客の金離れのよさは、たいていの場合、購入したものから期待できる永続的な利益と反比例するんだ。

 メレディス――なんだかちょっとジョン・スチュアート・ミルみたいだな。

 ベンソン――でも、まちがってはいないと思うよ。人は教養よりも娯楽にずっと金を払うものだ。劇場の席を二席取るのにしぶしぶ五ドル払ったり、毎週いつの間にか葉巻に二ドル使っているじゃないか。でも一冊の本に二ドルとか五ドルを使うのは耐えがたい苦痛だ。きみたち小売業の人間がやるまちがいは、顧客にむかって、本は必需品だと信じこませようとすることだ。本は贅沢品だといってみろよ。客は気持ちを引きつけられるから! みんな生きるために苦労して働いているから、必需品はなかなか買おうとしない。スーツなどはすり切れるまで着つづけるものね。それにくらべれば安葉巻にはすぐ手を出す。

 グラッドフィスト――なかなかいいところを突いている。ここにいるミフリンはわたしのことを物欲にとらわれた皮肉屋と呼んでいるが、ところがどっこい、わたしは彼よりもさらに理想主義者だと思っている。わたしはかわいそうななにも知らない顧客をだまして、自分が買わせたいと思っている本をむりやり押しつける宣伝活動家ではない。ほとんどの客は本屋にふらりと入ってきても、自分がなにを読みたいのか、どの本が買うにあたいするのか、すこしもわからず、お手上げのあわれなありさまなんだが、それを見たら彼らの弱みにつけ込もうなんて、とんでもない話だと思う。彼らは完全に店員のいうがまま。教えられたものならなんでも買うよ。しかし名誉を重んじる高潔の士、つまりわたしは、ただ自分が必読書だと思うからといって、彼らに輝かしい名著を押しつけることはしない。でくの坊にまわりをうろつかせて、つかめるものをつかませるんだ。自然選択がはたらくにまかせるんだ。彼らが頼りなげに手さぐりする様子や、奇妙きてれつな本の決め方を観察するのは興味がつきない。本を買う理由というのが、たいていは、表紙が魅力的だとか、値段が一ドル五十セントじゃなくて一ドル二十五セントだからだとか、書評を見たからというんだ。「書評」といっても、よくきくとたいがい広告のことなんだけど。本を買う人のなかで、千人に一人もその区別のわかる人はいないだろう。

 ミフリン――きみの考え方は無慈悲で、さもしくて、誤っている! 治る病気に苦しんでいる人を見て、その苦痛をやわらげてやろうとしない医者を、きみはどう思う?

 グラッドフィスト――きみがいう苦痛など、インテリしか買わないような本を大量に仕入れてしまったときの、わたしの苦痛にくらべればなんでもない。毎日々々、わたしの店の前を通りすぎ、そこに住む高潔な主を飢え死にさせる、いやしい大衆をきみはどう思う?

 ミフリン――きみの病気は自分をただの商人と考えるところにある。わたしがいっているのは、書店主は公僕なのだということだ。政府から年給をもらうべきだよ。この職業が名誉あるものだからこそ、よい作品を広めるために全力をつくそうという気になるんだ。

 クインシー――きみは新刊を中心にあつかっている本屋がどれだけ出版社のいいなりになっているか、忘れているよ。わたしたちは新刊本を仕入れなければならないが、その大部分は決まって駄本だ。なぜ駄本なんか寄こすのかなあ。ほとんどが売れ残るんだからね。

 ミフリン――ああ、それはたしかに不思議だね! しかしそれなりに理由は考えられる。第一に、良書はみんなに行きわたるほど数が多くない。第二に、出版社が無知で、正直なはなし、良書を見わけることができないところが多い。出版しようとする本の選定がまったくいいかげんなのだ。大きな製薬会社とか有名なジャムの製造業者は、薬効成分の化学的検査や分析、ジャムに煮詰める果物の収集選択に大金をかける。ところが出版業でいちばん大切な部門である原稿収集と品質検査は、いちばんなおざりにされていて、いちばん報酬もすくないのだそうだ。わたしはある出版社の原稿閲読者リーダーと知り合いだったが、彼は大学を出たての世間知らずで、本と男子学生友愛会フラターニティのバッジを区別することもできない。ジャム工場が熟練した化学者を雇うのなら、出版社がなぜ本の目利きのプロを雇わないのだ? そういう連中はいることはいるんだ。たとえば『パシフィック・マンスリー』の販売業務を切り盛りしている男だ! 彼はちょいとものを知っているぞ。

 チャップマン――熟練した専門家を過大評価しているんじゃないかな。彼らは得てして口だけの人間であることが多いものだよ。以前、うちの工場にも一人いたんだが、わたしの知るかぎり、赤字を出しているときにかぎって、会社の景気はいいと思っているような男だった。

 ミフリン――わたしが見るところ、世のなかで金儲けくらい簡単なことはない。まっとうな製品、一般の人が必要としているものを送り出せばいいのだ。きみのところにはそれがあり、彼らにはそれが必要だということを宣伝してみろ。彼らはその製品がほしくてたまらなくなり、正面玄関のドアをどんどんたたいて壊してしまうだろう。しかしもしも偽物をわたしはじめたら、もしも正面は総大理石仕上げだが裏手は煉瓦造りといったアパートみたいな本を売りはじめたら、自分で自分の喉をかき切るというか、自分で自分のポケットを切り落とすことになる。

 メレディス――わたしはミフリンの言うことが正しいと思う。みんな、うちの店がどんなところか知っているだろう。正面は板ガラスを張り、大理石の柱が間接照明を受けて満月の夜のかばの木みたいに輝いている典型的な五番街の店だ。うちでは毎日、くだらない本の売り上げが数百ドルにのぼる。それというのもそうしたものへの要求があるからだが、でもね、本心をいえば不本意ながら売っているんだ。うちの店では本を買う一般大衆を軽蔑して、いつもものを知らない木偶の坊などと呼んだりするんだが、しかし彼らは本当は良書を求めているんだ――ところがかわいそうなことに、どうやってそれを手に入れるのかが、わからない。でも、ジェリーのいうことにも一抹の真実があることは認めるよ。ニュートンの「書籍蒐集の愉しみ」を売るほうが、そうだね、ターザンを売るより十倍も満足感がある。しかし自分の個人的な趣味を客に押しつけるのはよくない。せいぜいできることといったら、機を見て如才なく価値のある本をほのめかすくらいなものだ。

 クインシー――そういや、この前、うちの書籍部門でこんなことがあったよ。今時の若い女フラッパーが一人やってきて、タイトルは忘れたけど、僧侶モンクに育てられた若い男の本がほしいっていうんだ。途方に暮れたね。「僧院と炉端」とか「修道院の鐘」とか「修道会の伝説」とか題名を挙げたんだけど、相手はぽかんとしている。そうしたら売り子の女の子がふとわたしたちの会話を耳にして、たちどころにその本をいい当ててしまった。もちろん、「ターザン」さ。(註 ターザンはモンキーに育てられた)

 ミフリン――馬鹿だなあ。マウグリとバンダー・ログを紹介するいい機会だったのに。(註 「ジャングル・ブック」の登場人物)

 クインシー――そうだな。うっかりしていたよ。

 ミフリン――みんなが広告をどう思っているか聞かせてくれないか。この前、ここに広告代理店の若者が来て、新聞に広告を出さないかというんだ。出したらそれに見合う利益はあるのかい?

 フリューリング――利益は必ず出るさ――だれかには。ただ一つの問題は、広告の費用を出した人間に利益が出るかということだ。

 メレディス――どういうことだ?

 フリューリング――わたしは利他的な広告と呼んでいるんだが、そんな問題を考えたことがあるかい? つまり自分よりもライバルにとって好都合な広告ということだ。例をあげよう。六番街にちょっと値がはる、しゃれたデリカテッセンがあるんだ。照明でぴかぴかのショーウインドウに思いつくかぎりの砂糖菓子やオードブルが並んでいる。そのショーウインドウを見たら、思わずよだれが出てくる。なにか食べようという気になる。でもその店で食べるのかというと、とんでもない! 通りをもうすこし先に行ったオートマットとかクリスタル・ランチで食べるんだ。デリカテッセンの主人はあの見事な食べ物の陳列に諸経費を払っているが、その恩恵にあずかっているのはほかの店ということだ。わたしの商売でもおなじことがいえる。わたしがいるところは工場地帯で、そこの人々は最高の本しか買うことができない。メレディスが請合ってくれると思うが、くだらない本を買う余裕があるのは金持ちだけだよ。彼らは新聞雑誌にのっている本の広告を読み、メレディスの店やほかの本屋の広告を見て、それからうちにやってくる。広告は有効だと思うが、その費用は他人に払わせるべきだ。

 ミフリン――それじゃあ、わたしもメレディスの広告に便乗させてもらったほうがいいかな。そんなことは考えたこともなかったよ。しかしいつか新聞のひとつに小さなビラをはさんでみたい。ごく小さな案内状で

 パルナッソスの家

 良書の販売・買取

 当店には幽霊がいます

と書くんだ。どんな反応が返ってくるか楽しみだ。

 クインシー――百貨店の書籍部門はフリューリングのいう利他的広告の恩恵にあずかることはないな。だって、室内装飾の専門家がルイ十八世風の寝室をひきたたせようと、しわ加工した布装のキップリングの海賊版か「内わに足物語」を置くとするね。すると展示スペースの料金はうちの部門に請求されるんだぜ! 今年の夏のことだけど、ポーチ用家具の展示にパンチのきいた仕上げがほしいと、彼から「名前は忘れたが、リングなんとかの本をなにかくれ」って頼まれたんだ。たぶんワグナーの楽劇「ニーベルンゲンの指輪リング」のことだろうと思って、本の山をひっくり返しはじめた。そうしたら彼がいっていたのはリング・ラードナー(註 アメリカの短編作家)のことなのさ。

 グラッドフィスト――そうらね。かねがねいっているが、本の販売は文学愛好家にはむかない仕事さ。本屋が世界の幸福のためになにかまともな貢献をしたことなどあるかね?

 ミフリン――ジョンソン博士の父親は本屋だった。

 グラッドフィスト――そうだ。それで息子のサムの教育費を払えなかった。

 フリューリング――もう一つわたしが関心を抱いているべつのタイプの利他的広告がある。コールズ・フィリップスが描いているある銘柄のシルク・ストッキングの絵を例に取ろう。もちろんその絵はすごい美人のストッキングが強調されるように巧妙に描かれている。でも、かならず絵のなかにべつのもの――自動車とか別荘とかモリス式安楽椅子とかパラソル――があって、そうしたものがストッキングとおなじくらい効果的に宣伝されているんだ。ときどきフィリップスは絵のなかに本を描き込んでいるんだが、そのおかげで五番街の本の売り上げは得をしていると思う。絹の靴下が足首にぴったり合うように、心にしっくりくる本はきっと売れるだろう。

 ミフリン――きみたちはみんな野卑な物質主義者だ。いいかね、本は人間精神の保管場所であり、この世でただ一つ朽ちることのないものなんだ。なんだったかな、シェイクスピアがいったのは――

 王侯の大理石の墓も 金箔を張った記念碑も

 この力ある詩より長くは残らない

ホーエンツォレルン(註 ドイツ帝国の王家)の名にかけて、彼は正しい! ちょっと待ってくれ! カーライルの『クロムウェル伝』になにか書いてあったのを思い出したぞ。

 彼は興奮して部屋を飛び出し、コーンパイプ友愛会のメンバーはたがいに顔を見あわせて笑った。グラッドフィストはパイプから灰を落としてリンゴジュースをかるくそそいだ。「いつものご高説がはじまったぞ」彼はくすくすと笑った。「やつをいじめるのはおもしろくてたまらん」

 「カーライルの『クロムウェル伝』といえば」フリューリングがいった。「あまり注文されることのない本だね。でも先日それを探してうちに来た男がいたよ。残念だが在庫がなかった。その手の本はつねにそろえておくというのが自慢だったんだが。それでブレンターノ書店に電話して一冊手に入らないかと訊いたんだ。するとむこうが持っていた唯一の本がちょうど売れたところだというじゃないか。だれかがトマスの売り上げをあおっているぞ! もしかしたら『ターザン』に引用でも出てくるのかな。そうでなければだれかが映画化権を買ったんだ」

 ミフリンが部屋に入ってきたが、顔には困惑の表情があった。

 「妙なんだよ」と彼はいった。「『クロムウェル伝』が棚にあったのは絶対まちがいないんだ。だって昨日の晩そこにあるのを見たんだから。それがなくなっているんだよ」

 「そんなことか」クインシーがいった。「古本屋に来る連中は気に入った本を見つけても、ちょっと持ち金がたりないなっていうときは、見えないところに隠したり、他人には見つからなくても、お金ができたとき引き出せるよう、べつの棚に移したりするじゃないか。きみの『クロムウェル伝』もおなじ目にあったんだと思うよ」

 「そうかもしれないが、しかしどうかな」ミフリンがいった。「妻の話じゃ、今晩あの本は売ってないらしい。起こして聞いたんだよ。彼女は机に座って編み物をしながらうたた寝していた。旅行の帰りで疲れているんだろう」

 「カーライルの引用が聞けなくて残念だ」ベンソンがいった。「だいたいどういう内容なんだい?」

 「たしかノートに書き留めておいたはずだ」ロジャーはそういって棚を探した。「ああ、ここにあった」彼は読み上げた。

 人間の著作は鳥糞石の山や、胸の悪くなるようなフクロウの糞尿の下に埋められようとも朽ち果てることはないし、朽ち果てることなどあり得ない。人間とその人生のなかに見いだされる勇気ある行動、永遠の光はきめ細かく不変の真実に書き加えられ、森羅万象の新たな神々しい一部分となっていつまでも残るのである。

 「ほら、諸君、本屋は真実を書き足す宇宙的加算機に欠かせない重要な存在の一つなんだ。人間と本の交配を助けるのだからね。本屋が自分の天職に喜びを感じるのにコールズ・フィリップスが描くところの色あざやかな足なんて必要ないのさ」

 「まったく、ロジャー」とグラッドフィストがいった。「きみの純真な情熱はトム・デーリーお得意の小話を思い出させるよ。アイリッシュの牧師さんがウイスキーを飲んだくれる会衆を叱咤する話だ。彼はこういうんだ。『ウイスキーはここに集まる信者にとって災いのもとである。ウイスキー、それがために人は考える力を奪われる。ウイスキー、それがためにあなたがたは地主にむかって銃を撃ち――狙いをそらしてしまうのだ!』まさにこれとおなじだよ、ロジャー、その情熱のためにきみは真実にむかって銃をぶっ放すが、弾はあさってのほうに飛んでいく」

 「ジェリー」ロジャーがいった。「きみはウパスの樹だ。きみの影には毒がある!」

 「さて、みなさん」チャップマン氏がいった。「ミフリン夫人は持ち場をはなれたがっていると思います。早めに散会しようじゃありませんか。みなさんの会話はいつ聞いても愉しいですね。もっとも結論には少々納得できないことがままありますが。わたしの娘は本屋になる予定です。この商売にたいする彼女の意見を聞く日が待ち遠しいですよ」

 来客が店を通って出て行くとき、チャップマン氏はロジャーを脇に引き寄せた。「ティタニアを寄こしても問題はないんだね?」彼は訊いた。

 「もちろんだよ」ロジャーがいった。「彼女はいつ来るつもりだい?」

 「あしたじゃ急かな?」

 「早いほどいい。彼女が使える小部屋が二階に一つ空いている。部屋の備えつけについてはいくつか考えていることがある。明日の午後に来させたらいい」

第三章 ティタニア到着

 朝食後の最初の一服は年季の入った喫煙家にとっていささか重要な儀式である。ロジャーは階段の下にたたずみ、パイプの火皿に火をいれた。強烈な青い煙がもうもうと吹き出され、急いで階段をのぼる彼の背中で渦を巻いた。そのあいだ、彼の頭はもうすぐやってくる雇用人のために小さな空き部屋を準備するという楽しい仕事のことでいっぱいだった。そして階段をのぼりきったとき、彼はパイプの火がすでに消えていることに気がついた。「パイプを詰めたりからにしたり、火をつけたりつけ直したりで、人生の大事な問題にあまり時間をさけないような感じだな。考えてみると、人生というのはどのみち、たばこを吸ったり、お皿を汚して洗ったり、人と話のやりとりをしたりして、その大半が過ぎていく」

 この考え方はなかなかおもしろいと思い、彼はまた一階におりていって、そのことをミフリン夫人に告げた。

 「さっさと部屋の支度をしてしまいなさい」彼女はいった。「こんな朝早くからおかしな説法はやめてちょうだい。朝ご飯が終わったら家庭の主婦は哲学なんかやっている暇はないの」

 ロジャーは新しい助手のために客室を準備するという仕事を存分に楽しんでいた。それは裏に面した二階の小さな寝室で、ドアを開けると狭い通路があり、その通路はべつのドアを隔てて店の回廊部分に繋がっていた。二つある小窓からは、そのあたりのブルックリンのつつましい屋根々々が見えた。その下にはおなじ数だけのたくましい人々と、乳母車と、まずいコーヒーをいれたカップと、チャップマン・プルーンの箱が隠れていた。

 「ところで」彼は一階に呼びかけた。「今晩の夕食にプルーンを用意しておいたほうがいいぞ。ミス・チャップマンに敬意を表して」

 ミフリン夫人はユーモアたっぷりに黙っていた。

 こうしたあたりさわりのない首脳会議のあいだ、ミフリン夫人が手ずから選んでアイロンをかけた、ぱりっとした綿モスリンのカーテンをかけながら、店主はその光る目でニューヨーク湾に浮かぶ巨大なフェリー、スタテン島と文明をつなぐ船の姿をとらえていた。「眺めにほんのすこしロマンがあればいい」と彼は思った。「世間ずれした若い娘に生きることの刺激を思い出させるには、それで充分だろう」

 ヘレン・ミフリンが采配をふるう家だから当然予想されるように、その部屋はどんな住人でも受け入れられるよう万全の用意がととのえられていた。しかしロジャーは間借り人となるべき迷える若者に(彼が考える)好ましい精神的影響を与えることができるよう、みずから一工夫することをかって出たのだ。救いがたい理想主義者である彼は家主として、かつチャップマン氏の令嬢の雇い主として、責任を重く受け止めていた。いかなる部屋のあるオウム貝も、傷つきやすい魂の館を広げるのに、これ以上望ましい機会に恵まれることはないだろう。(註 人間の知性の成長をオウムガイに喩えたオリバー・ウエンデル・ホームズの高名な詩から)

 ベッドの脇には読書灯つきの本棚があった。ロジャーが考え込んでいた問題は、このたった一人の会衆にたいして、どんな本と絵がもっとも優れた説教師になるだろうかということだった。ミセス・ミフリンはひそかにおかしがっていたのだが、彼は以前そこにかけていたサー・ガラハッド(註 アーサー王伝説に出てくる高潔の騎士)の絵をはずしてしまっていた。その絵をかけた理由は(彼がいうには)サー・ガラハッドがいま生きていたなら、本屋になっただろうから、というものだった。「彼女が若いガラハッドにうつつをぬかすようでは困るな」彼は朝食の席でそういった。「その先には早すぎる結婚が待ち受けている。わたしがやりたいのは、彼女の部屋によく撮れた現実の男の写真を一枚か二枚貼ることだ。全盛期には魅力にあふれ、彼女が目にしそうな若者など、どれも生ぬるく欲の皮が張っているようにしか見えなくなる男だ。そうすれば今どきの若者に愛想をつかし、本屋の仕事に本気で打ち込むようになるかもしれない」

 そこで彼は出版社の「宣伝担当」がいつもどさりと置いていく作者の写真と肖像画を入れた蓋つきの大箱をひっくりかえして、しばらく時間を過ごしたのだった。ひとしきり考えたあと、彼はよさそうに思えたハロルド・ベル・ライトとスティーブン・リーコックの銅版画を捨てて、シェリー、アンソニー・トロロープ、ロバート・ルイス・スティーブンソン、そしてロバート・バーンズの写真を選んだ。それからさらに熟慮をかさね、シェリーもバーンズも若い女性の部屋にはいまひとつむいてないと判断し、それらを除外してサミュエル・バトラーの肖像画を採用することにした。このほかに彼がとても気に入って、自分の机の前にかけていた額入りの記事をつけ加えた。以前、ライフ誌から切り抜いたもので、彼はこれを読むとおおいに愉快な気持ちになった。それはこんな内容である。

 友に貸したる

 本のもどりきたりて

 この本が友人の書棚と、そのまた友人の書棚という危地を乗り越え、思った以上によい保存状態で手元にもどってきたことにたいし、わたしは謙虚に心からの感謝を捧げる。

 友人がこの本を幼児のおもちゃにおあつらえむきだと思わなかったことにたいし、あるいは火のついた葉巻の灰皿代わりや、マスチフ犬の輪形おしゃぶりの代わりにしなかったことにたいし、わたしは謙虚に心からの感謝を捧げる。

 この本を貸したとき、わたしはもうなくしたも同然だと思っていた。わたしは長い別れのつらさを受け入れた。そのページを二度と目にすることはないと思った。

 しかしその本がもどってきたのだから、わたしは嬉しくて天にも昇る心持ちだ! やわらかくなめしたモロッコ革を持ってきたまえ。製本しなおし、名誉の棚に飾ってやろう。なぜならこの本は人に貸し出され、ふたたびもどってきたのだから。

 そういうわけだから、わたしが借りた本のうち何冊かはもうじき返してやってもいいだろう。

 「よしよし! これを読めば、書物にたいして守るべきいちばん大事な徳義がわかるはずだ」

 これらの飾りを壁にかけ、彼はベッド脇の書棚に置くべき本を考えた。

 これはごくごく念をいれて検討すべき問題である。ある権威たちは、客室にふさわしい本は苦もなくたちどころに休息へといざなう催眠作用のある本だと考える。この一派が勧めるのは「国富論」、「帝政下のローマ」、「萬国年鑑」、ヘンリー・ジェイムズのある種の小説、そして「ヴィクトリア女王書簡」(全三巻)である。このような本は(夜遅くには)一度に数分しか読むことができず、それでいて有益な知識の断片を与える、というのが彼らのもっともらしい議論である。

 別の一派が勧める就寝前の読み物は短編小説、短い逸話集など、さっと読めて生きがよく、しばらくは目覚めた状態でいさせてくれるが、それだけに最後にはいっそう心地よい眠りをもたらす作品だ。こちらの先生方は幽霊談や痛ましい話さえよかろうと言う。この手の読み物にはオー・ヘンリー、ブレット・ハート、レナード・メリック、アンブローズ・ビアス、W・W・ジェイコブズ、ドーデ、ド・モーパッサン、さらに場合によってはあの鉄道売店の嘆かわしい古典、作者トマス・W・ジャックソン氏が「これは永遠に売れるし、永遠の千年後にも売れるだろう」と語った「アーカンソー横断 普通列車の旅」すらふくまれる。さらにジャックソン氏が人間の知性に攻撃を加えたべつの一冊、「おれの生まれはテキサス 人の指図は受けない」も加えていいだろう。この本は(作者によると)「固ゆで卵みたいなもので、白身と黄身を攪拌しようったって、そうはいかない」というものだそうだ。ジャックソン氏の本はほかにもあって、タイトルは思い出せないが、「これらは悲しみを吹っ飛ばすダイナマイトだ」と彼は話している。ミフリンにとって客がこうした作品を求めてくることくらい腹立たしいことはなかった。彼の義兄で作家のアンドリュー・マギルは以前(単なる嫌がらせから)業界で「鳩色ウーズ」と呼ばれているビロード仕上げの革に金文字をあしらった麗々しい装丁の「アーカンソー横断 普通列車の旅」をクリスマスプレゼントとしてロジャーに贈ったことがある。ロジャーは仕返しにロバート・コルテス・ホリデーが「浮き出し模様のついたヒキガエルの皮」と評する装丁の「偶像破壊主義者ブラン」二巻を(相手のつぎの誕生日に)贈った。しかしこれは物語とは関係のない話だ。

 ロジャーはミス・ティタニアの書棚になにを置こうかと考えながらたのしい朝の時間を過ごした。何度かヘレンが、下におりて店番をしなさいと声をかけたが、彼は床に座ったまま足のしびれも忘れて、最後の間引きのために二階に運びあげた本を眺めまわしていた。「たいへんな特権だよ」と彼はひとりごちた。「若者の心を感化するというのは。妻は、たしかにすばらしい女性だが――わたしが幸運にも彼女に出会ったとき、彼女はどこから見ても分別盛りの年だった。心の成長を適切に監督するなど不可能だった。しかしチャップマンの娘はまったく白紙の状態でうちに来るわけだ。父親の話だと、彼女は上流階級の子女がつどう学校に行っていたらしい。それなら、やわらかい心のまきひげはきっとまだ芽生えていないだろう。ひとつ(彼女に気づかれないように)ここに置く本を使って彼女をためしてみよう。そのどれに反応するかで、今後の方針が立てられる。週に一度は店を閉めて文学について短い話をしてやるのもいいかもしれない。たのしみだな! そう、『トム・ジョーンズ』を手はじめに、イギリス小説の発達に関するミニ講座とか――いや、これはだめだ! しかし、わたしは教師になるのが夢だったし、これはそのいいきっかけになるかもしれない。隣近所に声をかけて週に一度こどもたちを集め、小さな学校をはじめる。実際は『月曜閑談』をするってわけだ! わたしはブルックリンのサント・ブーブと呼ばれるかもしれないぞ」

 新聞記事の一節が彼の頭をよぎった――「この類いまれな文学の徒はその輝かしい才能を古本屋の店主というつつましい外見の下に隠しているが、今や衆目の認めるところ――」

 「ロジャー!」ミセス・ミフリンが階下から呼びかけた。「お店に来てちょうだい! お客さんが『フォウミー・ストーリーズ』のバックナンバーがあるか知りたいんですって」

 邪魔者を追い出してから、ロジャーはまた考え込んだ。「この選定は」と彼は物思いに沈んだ。「もちろん、仮のものでしかない。予備試験的に彼女がどんなものに関心を示すか、調べるためのものだ。まず選ぶべきは、彼女の名前からして当然シェイクスピアとエリザベス朝の文人たちだ。すばらしい名前だな、ティタニア・チャップマンというのは。プルーンには偉大な徳が備わっているにちがいない! 一冊目はクリストファー・マーローにしよう。それからキーツ。若い人はりんとした冬の月夜に『聖アグネス祭前夜』を読んで身震いすべきだ。『ビマートン書店の二階で』も入れなければ。なにしろ本屋の話なんだから。ユージーン・フィールドの『トリビューン初等読本』は彼女のユーモアのセンスをためすのにいい。それからおなじ理由で『アーチー』はぜひ入れなければ。下にいってアーチーのスクラップブックを取ってくるか」

 ロジャーがニューヨーク・イブニング・サンのユーモア作家、ドン・マーキスの熱烈な崇拝者だったことを説明しておくべきだろう。マーキス氏はかつてブルックリンに住んでいたことがあり、店主は彼のことをウォルト・ホイットマン以来、この街に栄誉をもたらしたもっとも傑出した作家であると、倦むことなく語った。アーチーは想像上のゴキブリで、彼を通してマーキス氏はきわめて良質な笑いを表現するのだが、ロジャーはこれをいつも心を躍らせながら読み、アーチーの切り抜きはすべてスクラップブックに保存していた。いまロジャーはこの分厚い本を、とりわけ大切な宝物を保管する机の横の穴から取り出した。彼はそれにぱらぱらと目を通し、ミフリン夫人は彼が甲高い笑い声をあげるのを聞いた。

 「いったいそれはなんなの?」彼女は訊いた。

 「なに、アーチーだよ」彼はそういって、朗読をはじめた。

 都会の下にワイン貯蔵庫があり

 老人ふたりが座って酒を飲んでいる

 服は破れ 髪にも髭にもほこりが混じり

 一人はコートを着ていたが 足は素足にひとしいありさま

 頭の上を電車が走る

 聖誕祭を祝うため 家路を急ぐしあわせな人々を乗せ

 アディロンダックスの山中では猟師たちが鉄砲を撃ち

 半島沖の海を大きな船が航海していた

 小さな女の子がやってきて おじいちゃんにキスをねだった

 まだ小さくてよちよち歩きもままならない

 おじいちゃん キスして ナニーちゃんにキスして

 でもおじいちゃんは彼女の頭にウイスキーの瓶を投げつけた

 外では雪が舞いはじめ

 遙か海上を水夫を乗せた船がゆく

 天使のようなナニーはもう一言もしゃべらない

 祖父は笑ってウイスキーの悪魔に乾杯した

 もう一人の男が口を開いた 彼はやつれてぐったりしていた

 涙が頬をつたっていた 涙のほかはただ青白い顔

 あの子はエリー湖をわたって仕事に通う両親が大好きだった

 兄貴 あの子をぶつのはすこし軽率だったんじゃないかい

 しっかりおめかしして会いに来たんだ

 母親の庭からクリスマス用の花を摘んで

 ハドソン川の下のトンネルをくぐって

 兄貴 血も涙もなくなったのはラム酒のせいかい

 「いったいそれのどこがおもしろいっていうの?」ミセス・ミフリンがいった。「なんてかわいそうな女の子でしょう。そんなのひどいわよ」

 「先があるんだ」ロジャーはそういって朗読をつづけようとした。

 「ありがたいけど、もうたくさん」ヘレンがいった。「『谷間の恋』の韻律をそんなふうに使うなんて罰金ものだわ。わたしは市場に行ってくるから、ベルが鳴ったら出てちょうだい」

 ロジャーはアーチーのスクラップブックをミス・ティタニアの書棚に加え、集めてきた本の吟味をつづけた。

 「『ナーシサス号の黒人』を入れておこう」彼はつぶやいた。「物語は読まないとしても、序文は読むかもしれない。後世に残るという点では、これこそ王侯の大理石の墓や記念碑をしのぐものだ。ディケンズの『クリスマス・ストーリーズ』は下宿のおかみさんのなかのおかみさん、リリパー夫人を紹介するために。出版社の連中は、ストランド街のノーフォーク通りというと、そこに事務所をかまえる著作権代理業者で有名だと思っているが、あそこがリリパー夫人の不滅の下宿があったところだと、どのくらいの人が知っているだろう? サミュエル・バトラーの『ノートブックス』は彼女の知性にほんのちょっぴり刺激を与えるために。『箱ちがい』は英語で書かれた最高のファルスだから。『旅は騾馬をつれて』を読めば、名文とはどういうものかがわかるだろう。『黙示録の四騎士』は人間の悲哀にたいする憐れみの気持ちを教えるはずだ――いや、待てよ。若い女性には分厚すぎるかな。これははずしておいて、ほかのを見よう。モシャー氏の出版カタログ。これがいい! ある愛書家が「書物の喜び」と呼んでいるものの本当の意味がわかるだろう。『杖の随筆集』――そう、今でも優れたエッセイストは活躍している。合本製本した『パブリッシャーズ・ウイークリー』で業界の内情をすこし知ってもらおうか。『ジョーの少年たち』はかるい気ばらしが必要なときのため。『古代ローマ詩』と『オースチン・ドブソン詩集』は名詩に目を開かせるため。いま学校では『古代ローマ詩』を読ませているのかな? サラミスの海戦と一七七六年の残忍な英国軍兵士レッド・コートの話で子供たちを育てているような悪い予感がする(註 米国が独立を宣言したそのすぐあとに、この小説の舞台であるブルックリンでアメリカ軍とイギリス軍が激突している)。さて、おつぎはさりげなくロバート・チェンバーズ(註 スコットランドの著述家)を入れて彼女の気に入るかどうか様子を見てみよう」

 彼は誇らしげに書棚を眺めた。「悪くないぞ」彼はひとり言をいった。「彼女を笑わせるためにレナード・メリックの『女に関する噂』だけつけ加えておこう。題を見たらきっとなんだと思うだろうな。ヘレンは聖書も入れるべきだというだろうが、彼女が読みたがるかどうか、わざと入れずにおこう」

 彼は男性らしい好奇心から整理ダンスの引き出しをあけ、妻がどんな準備をしたのか確かめた。どの引き出しをあけてもラヴェンダーを入れた小さな綿モスリンの袋がほのかな香りを放っているのを見て彼は満足した。「申し分なし」彼は感想をいった。「まったく申し分なし! 足りないものといえば灰皿くらいだ。ミス・ティタニアがときどき見かけるような現代風の女なら、まっさきに要求してくるだろう。それとたぶんエズラ・パウンドの詩集だな。ヘレンがいうようなボルシェビキの雌狐じゃなければいいが」

 その日の午後早く、ギッシング通りとスインバーン通りの角に止まったかがやくリムジンにボルシェビキじみたところはかけらもなかった。緑の制服を着た運転手がドアをあけ、美しい茶色の革のスーツケースを取り出し、藤色の座席の奥からあらわれた見目麗しい乙女にうやうやしく手をさしのべた。

 「鞄はどこにお運びしましょうか、お嬢さま?」

 「つらいけどお別れよ」とミス・ティタニアは答えた。「わたしの居場所を、あなたに知られたくないの、エドワーズ。頭のおかしなわたしの友達が、あなたから聞き出すかも知れないもの。こんなところにまで来て邪魔されたくないわ。わたしは文学でとっても忙しいんだから。あとは歩いていく」

 エドワーズはにこりと笑ってお辞儀をし――彼はこのユニークな若い女相続人を崇拝していた――運転席にもどった。

 「ひとつだけお願いがあるの。お父さんに電話して、わたしが仕事についたって、言っておいて」

 「かしこまりました、お嬢さま」彼女の命令であれば、リムジンを政府の貨物自動車にだって追突させる気のエドワーズがいった。

 ミス・チャップマンは手袋をはめた小さな手を、ハンドバッグのなかに差し込んだ。このちょっと変わったハンドバッグはきらきら光る細い鎖で手首につながれていた。彼女は五セント白銅貨を取り出し――それは彼女に似つかわしい、ピカピカした愛想のいい五セント白銅貨だった――彼女の運転手におごそかに手わたした。おなじようにおごそかに彼はお辞儀をかえした。車は何度か堂々たる弧を描いたあと、たちまちサッカレー大通りをすべるように走り去った。

 ティタニアはエドワーズが見えなくなったことを確かめ、注意深くあたりを見まわしながら、しとやかな足取りでギッシング通りを進んだ。小さな男の子が「ねえ、鞄を持とうか」と叫び、彼女は危うくうなずきかけたが、今や週給二十ドルの身であることを思いだし、手を振って彼を追い払った。わたしがこの若い女性の容貌を説明しなかったら、もちろん読者は不満を覚えるだろう。そこで彼女がギッシング通りにそって数ブロック歩くあいだを、この目的のためにあてようと思う。

 彼女をうしろから観察する者があれば、クレメンス・プレイスに着くまでに、暖かいツイード服が彼女の身体にぴったり合うよう仕立てられていることや、小さな茶色のブーツがペンシルベニア鉄道のプルマンポーターのような淡褐色のスパッツに覆われていることや、からだつきはほっそりしているが元気をみなぎらせていることや、業界用語で「ヌートリア」と呼ばれる、オパールのように白濁した色の高価な襟巻きをしていることに気がつくはずだ。うしろを歩く観察者は思わずチンチラという言葉を思い浮かべるだろう。もしも彼が父親なら、小切手帳に残されたたくさんのサイン入りの控えを思い浮かべるかも知れないけれど。観察者がクレメンス・プレイスで横道にそれていたなら、彼が得た印象は「金がかかっているが、それだけのことはある」という大ざっぱなものにとどまるにちがいない。

 しかしこの驚くべき女性の観察者は、おそらくギッシング通りをさらにすすんでハズリット通りと交わるつぎの交差点まで彼女を追って行くはずだ。そこでうまく舗道の彼女に並び、こっそり横目を使う。抜け目のない男なら、かしいだボンネットが視界をさえぎらない右側を通るだろう。彼は(文句のつけようのない)かわいらしい頬とあご、どんなに曇った日でも一日じゅう太陽の光をたたえている髪の毛を目にするだろう。心おどる境涯にあってやや進みがちなのもいたしかたないプラチナの小型腕時計も、ちらりと垣間見れるかもしれない。灰色がかった毛皮のなかには、野暮な春にはけっして咲かず、十一月と五番街のショーウィンドウのなかにしか見られないスミレの花束を認めるだろう。

 この観察者は自分の用事などにはおかまいなく、ギッシング通りをさらに数間歩きつづける。そして何気ないふうを装いつつ、半ブロック先の、道がワーズワース・アヴェニュー高架鉄道駅へ折れるところで立ち止まり、まるでなにかを思い出し、いかにもどうしようかと迷ったふりをしてうしろを振り返ったはずだ。一見なにも見ていないようだが、彼はこの光り輝く歩行者を一瞥し、彼女の深い青い目につよい衝撃を受けることになる。決意を秘めた小作りな顔は快活なようでいて、青春の熱気がもつ不思議な哀しさをおびていた。頬は興奮と身が引き締まるような空気のなかを急ぎ足で歩いたせいで照り輝いて見えただろう。観察者はきっと野生のヌートリアの毛皮と、むき出しになったなめらかなV字型の喉元の優美な対照に気がついたはずだ。そのとき彼は、この魅力的な女性が立ち止まってあたりを確認し、驚いたことに、どことなく陰気な感じのする古本屋へと踏み段を駆けおりるのを目撃する。観察者はブルックリンが神の格別のご加護のもとにあるのだという驚くべき確信をあらたに抱いて自分の用事を片づけにその場を去るだろう。

 ロジャーはリッツ・カールトン・ホテルのロビーとセントラル・パーク乗馬学校で育ったひねくれ者を予想していたので、この若い娘のさわやかな飾り気のなさに目を見張った。

 「ミスタ・ミフリンですか?」煙がたちこめる部屋の隅からいそいそと出てきた彼にむかって彼女はいった。

 「ミス・チャップマンだね?」彼は鞄を受け取って答えた。「ヘレン! ミス・ティタニアがお出でだ」

 彼女は店の薄暗いアルコーブを見わたした。「雇っていただいて、ほんとうにありがとうございます。父から噂はよく聞いています。父はわたしのことを手に負えない娘だっていうんですよ。これが父のいう文学なんですね。いっぱい勉強したいわ」

 「あら、ボックね!」と彼女は叫んだ。「父が世界で最高の犬だっていっています。ボティチェリかだれかから名前をとったんですってね。わたし、彼にプレゼントを持ってきました。鞄に入れてあるの。いい子ねえ、ボッキー!」

 スパッツに慣れていないボックは彼なりのやり方でそれを調べていた。

 「まあ、お嬢さん」とミセス・ミフリンがいった。「お会いできてうれしいわ。うちが気に入ってくれたらいいけれど、でもどうかしらねえ。ミスタ・ミフリンは気むずかしいから」

 「あら、もちろんですわ!」とティタニアがいった。「いえ、その、きっとここが大好きになります! 父のいうことは一言も信じちゃいけません。わたしは本に目がないんですから。売っちゃうなんて、もったいないわ。このスミレはあなたのために持ってきたんです、ミセス・ミフリン」

 「なんてご親切なこと」すでに彼女の虜になっていたヘレンはいった。「いらっしゃい。さっそく水にさしておきましょう。部屋に案内するわ」

 ロジャーは二人が二階で動きまわる音を聞いた。彼は急に自分の店が、若い娘をおくには、いささか陰気な場所ではないかと思えてきた。「レジの器械を入れておくべきだったな」と彼はぼんやりと考えた。「どうも商売人らしくないと思われそうだ」

 「それじゃ」ティタニアとふたたび下におりてきたときミセス・ミフリンがいった。「わたしはケーキを焼くから、あなたは雇い主におかえしするわね。彼がお店のなかを案内して、本がどこにあるか教えてくれるわ」

 「そのまえに」とティタニアがいった。「ボックにプレゼントをわたすわ」彼女は大きな薄葉紙の包みを見せ、幾層にもなった被いをといて、やっと一本の頑丈な骨を取り出した。「シェリーでお昼を食べたんです。そのとき、ボーイ長に頼んでこれをもらったの。大笑いされちゃったけど」

 「台所に来てあげてちょうだい」とヘレンがいった。「彼はあなたの生涯の友になるでしょう」

 「すてきな犬小屋!」荷箱を改造してつくったボックのねぐらを見たとき、ティタニアが叫んだ。店主の器用な大工仕事の結果、荷箱はカーネギー図書館の模型に変じていた。ドアの上には「閲覧室」と書かれたプレートがかかり、内部には本棚の絵が描きこまれている。

 「しばらくしたらあなたもミスタ・ミフリンに慣れるでしょう」ヘレンが愉快そうにいった。「自分が気に入るまで、まるまる一冬、あの犬小屋に手をかけていたのよ。ボックのかわりに自分が住む気なのかと思ったくらい。なかに描かれている本はみんな犬が出てくる本なの。彼が作ったタイトルもたくさんあるわ」

 ティタニアはぜひなかをのぞきたいといった。ボックはすいと自分のすみかに入ってきた新しい彗星のような女性にこんなふうに注目され、おおいに気をよくした。

 「まあ、すごいわ!」彼女はいった。「『オマル・ケイナインのルバイヤート』ですって。うまいものねえ!」

 「あら、まだまだあるのよ」ヘレンがいった。「『ボーナー・ロー著作集』とか『ボーンの古典選集』とか『教理問答とドグマ』とか、よくまあ思いつくわね。(註 いずれも犬や骨にかけた言葉を織り交ぜている)ロジャーがそんな冗談を考える精力の半分でも仕事にむけてくれたら、わたしたちは今ごろお金持ちになっていたのに。さあ、お店を見ていらっしゃい」

 ティタニアは机に座っている書店主を見つけた。「もどりました、ミスタ・ミフリン」と彼女はいった。「ほら、わたし、売上伝票の記載用にとがった鉛筆を買ってきました。練習したから、いまじゃ髪に挿すのもうまくできるんです。カーボン紙とかいろいろ入った大きな赤い帳簿、あれがあるといいんですけど。ロード・アンド・テイラーズ百貨店で、売り子たちが帳簿に記載しているのを見て、すてきだなって思いました。それからエレベーターの動かし方も教えてください。わたし、エレベーターに興味津々なんです」

 「まいったな」とロジャーがいった。「そのうちわかるだろうが、ここはロード・アンド・テイラーズとは大ちがいだよ! エレベータなどないし、売上伝票もレジの器械もない。頼まれないかぎり、接客することもない。お客さんはここに来て店のなかを見てまわり、欲しいものが見つかったらわたしがいる机までもどってきて金を払うんだ。値段はどの本にも赤い鉛筆で記されている。お金はこの棚の箱のなか。この小さなフックにかかっているのが鍵だ。売り上げは全部この台帳に書き込む。本を売ったら、ここに書き込むんだよ。受取金額といっしょに」

 「でもつけで買う場合はどうします?」

 「つけは認めない。すべて現金払いだ。だれか本を売りに来たら、わたしのところに来るようにいいなさい。ここで何時間も本を読む人を見ても驚いてはいけないよ。この店を一種のクラブみたいに考えている人がたくさんいるんだ。たばこのにおいがいやじゃなければいいがね。というのは、ここに来る人はほとんどみんな店内でたばこを吸うんだ。見てごらん、そのための灰皿が置いてあるだろう」

 「たばこのにおいは大好きです」ティタニアがいった。「うちの父の書斎はこんなにおいがします。でもこれほど強いにおいじゃないけど。それからわたし、虫が見たいわ。ほら、本の虫。父はあなたのところにたくさんいるっていっていました」

 「ちゃんと見られるさ」ロジャーは笑いながらいった。「ここに出たり入ったりしているよ。あしたは仕入れた本がどう配列されているか教えよう。慣れるのにしばらく時間がかかると思う。それまであちこち、なにがあるか見て、暗闇のなかでも特定の本が探せるくらいに棚を覚えなさい。妻とわたしはこのゲームをしてよく遊んだものだ。夜、電気をみんな消して、わたしが本のタイトルをいい、彼女がどれくらいその近くの本を取れるかためすんだ。それからわたしの番。目指す本から六インチ以上離れていたら罰金を払わなければならない。なかなかおもしろいものだよ」

 「すごく楽しそう。油断のならないお店なのね!」

 「これはわたしがおもしろいと思った本の紹介をのせる掲示板だ。これはいまちょうど書いていたカードだよ」

 ロジャーはポケットから四角い厚紙を取り出し、画鋲で掲示板に留めた。ティタニアがそれを読んだ。

 戦争を食い止めたはずの一冊

 戦いが終わった今こそトマス・ハーディーの「覇者たち」を読むべきである。わたしはこの本を売りたいとは思わない。なぜならわたしの最高の宝物の一つだからである。しかし全三巻を熟読玩味すると約束してくれる人には喜んでお貸ししよう。

 思慮あるドイツ人が大勢「覇者たち」を読んでいたら、一九一四年七月からの戦争は起こらなかっただろう。

 講和会議に先だって代表全員にこの本を読ませてやれば、戦争は二度と起きないはずだ。

R・ミフリン   

 「すごいわ」ティタニアがいった。「そんなにいい本なんですか? わたしも読んでみようかしら」

 「あんまり良すぎて、できることならフランスにむかう船のなかで、ミスタ・ウィルソンに読ませたいくらいだ。船に持ち込むことができればいいんだがね。まったくすばらしい本だよ! これを読むと憐れみと恐ろしさで胸がつぶれそうになる。ときどきわたしは夜中に目をさまし、窓の外を見て、ハーディーの笑い声をきいたような気持ちになるんだ。どうも彼と神様がごっちゃになりかけているようだ。しかしハーディーはあなたが読むにはすこしむずかしすぎるだろう」

 ティタニアはわけがわからず、なにもいわなかった。しかし心のなかではいそがしくメモを取っていた。ハーディ、むずしい、胸がつぶれる、ためしに読んでみよう。

 「わたしがあなたの部屋に置いた本をどう思ったかね?」ロジャーがいった。彼は彼女が自発的に感想を述べるまで待とうとみずからに誓っていたのだが、我慢ができなかったのだ。

 「わたしの部屋にですか? あら、ごめんなさい。気がつかなかったわ!」

第四章 消える本

 「なあ、おまえ」その日の晩の食事のあとでロジャーはいった。「ミス・ティタニアにうちの朗読の習慣をご披露したほうがいいと思うんだが」

 「退屈じゃないかしら?」とヘレンがいった。「みんながみんな本を読んでもらうのが好きなわけじゃないから」

 「あら、わたしは大好きです!」とティタニアが叫んだ。「本を読んでもらえるなんて思ってもみなかったわ。子供の時いらいです」

 「あなたに店番を頼んで」ヘレンはロジャーをからかいたい気分になっていった。「わたしはティタニアを連れて映画に行くわ。まだ『ターザン』を上映していると思うの」

 ミス・チャップマンが心中どうしたいと思ったかはともかく、ターザンを見に行けば書店主をがっかりさせることはそのしおれた顔つきからわかった。そこでこの傑作映画への興味をすばやく打ち消した。

 「せっかくですけど、『ターザン』って、ジョン・バローズ(註 米国の自然史家、文筆家。ティタニアはエドガー・ライス・バローズと勘違いしている)の自然の話じゃありません? ミセス・ミフリン、あれはすごくつまらないと思います。ミスタ・ミフリンに本を読んでもらいましょうよ。わたし、編み物かごを持ってきます」

 「邪魔がはいっても気にしないでね」とヘレンがいった。「だれかがベルを鳴らしたら、ロジャーは急いで店に出なければならないから」

 「わたしに行かせてくださいな」ティタニアがいった。「その、お給料を稼ぎたいんです」

 「わかったわ。ロジャー、ミス・チャップマンを居間にお連れして、わたしたちがお皿を洗うあいだ、本でも見ててもらいましょう」

 しかしロジャーは朗読をはじめたくてうずうずしていた。「皿洗いはあとまわしにしよう。せっかくの機会なんだから」

 「お手伝いさせてください」ティタニアがいいはった。「皿洗いってすごくおもしろそう」

 「だめ、だめ。うちで過ごす最初の晩なのに」ヘレンがいった。「ミスタ・ミフリンとわたしがあっという間にかたづけてしまうから」

 そういうわけでロジャーは居間の石炭の火をかき回し、椅子をととのえ、読み物用にティタニアに「衣服哲学」を手わたした。彼が妻と台所に消えると、そちらの方から洗い桶のなかで瀬戸物がかちゃかちゃと鳴るにぎやかな音や、お湯が飛び散る音が聞こえてきた。「皿洗いのいちばんいいところは」ロジャーの話し声が聞こえた。「手がとてもきれいになることだな。古本屋をやっているとなかなか味わえない感覚だ」

 彼女は「衣服哲学」にちらりと「一瞥をくれた」だけで見むきもせず、テーブルの上にまだ読んでいないタイムズの朝刊をみつけ、取り上げた。彼女は

「なくしもの 1アゲートラインにつき50セント」

という見出しのついた欄に視線を落とした。最近、小さな真珠のブローチをなくしたばかりだったので、彼女はその欄にさっと目を通した。こんな投稿を読んで彼女はくすくすと笑った。

 なくしもの――インペリアル・ホテルの化粧室にて入れ歯を紛失。43丁目西134番地スチールまで連絡を請う。無条件にて謝礼進呈。

それからつぎのような投稿を見つけた。

 なくしもの――トマス・カーライルの「オリバー・クロムウェル伝」をギッシング通りとオクタゴン・ホテルのあいだで紛失。見つけられた方は十二月三日火曜日深夜までにオクタゴン・ホテルのアシスタント・シェフまでお返しください。

 「あら」と彼女は声をあげた。「ギッシング通りって――ここのことだわ! それにアシスタント・シェフが読むにしてはへんな本ね。このごろ、あそこのランチの味が落ちたのも当然だわ!」

 ロジャーとヘレンが数分後、居間にもどってきたとき、彼女は書店主にその広告を見せた。彼はひどく興奮した。

 「おかしなことがあるものだ」と彼はいった。「あの本にはなんだか妙なところがある。おまえに話したかな? この前の火曜日――ギルバートという若者がここに来た晩なので覚えているんだが――髭の男があの本を買いに来たんだ。しかし棚にはなかった。つぎの日、水曜日の晩、わたしはずいぶん遅くまで書き物をしているうちに、机の上で居眠りをしてしまった。正面のドアを開けたままにしていたのだろう、すきま風で目を覚まして、ドアを閉めに行ったら、その本がほかの本からすこし突き出た格好で、いつもの場所に収まっているのを見たんだ。それから昨日の晩、コーンパイプ・クラブのメンバーがここにいるとき、その本から引用しようと見に行ったら、またなくなっていた」

 「もしかしてアシスタント・シェフが盗んだのかしら?」ティタニアがいった。

 「しかし、そうだとしたら、なぜそのことを広告にだしたりするのだ?」ロジャーが訊ねた。

 「彼が盗んだのなら」ヘレンがいった。「せいぜい楽しんで読んでほしいわ。あなたがあんまりあの本の話をするから、一度わたしも読もうとしたけど、つまらなくってあくびが出たわ」

 「本当に盗んだのなら」と書店主がいった。「こんなにうれしいことはない。わたしの主張の正しさが証明されたんだからね。つまり人々は本気で良書を求めているんだよ。アシスタント・シェフが盗みをはたらくくらい良書が大好きなら、この世界の民主主義も安泰だ。盗まれやすいのはたいてい愚劣きわまりない本ばかりだ。ダグラス・フェアバンクスの『人生を価値あるものに』とかマザー・シプトンの『神託の書』とか。いい本が盗まれるのなら、本泥棒なんか気にならないね」

 「この商売がどんなにすごい原則に支配されているかわかったでしょう」ヘレンがティタニアにいった。彼らは火のそばに座って、本が棚にもどってきてはいないかと、店主が確認しに行っているあいだ、編み物をしていた。

 「あった?」もどってきたときヘレンはいった。

 「いいや」ロジャーはそういって、もう一度広告を取り上げた。「どうして火曜日の真夜中までに取りもどしたいのかな?」

 「寝床で読みたいからじゃないかしら」とヘレンがいった。「不眠症に悩んでいるのかもね」

 「読むまえになくしてしまうとはなんとも残念な話だ。彼に感想を聞いてみたい。ぜひとも訪ねていきたいものだ」

 「損益勘定につけて忘れなさいな」ヘレンがいった。「ほらほら、朗読はどうするの?」

 ロジャーは個人蔵書の棚に目を走らせ、手あかのついた一冊を引っ張り出した。

 「感謝祭は過ぎたから、気分はもうクリスマスだ。そしてクリスマスといえばチャールズ・ディケンズだな。おまえ、いつもの『クリスマス・ストーリーズ』じゃ、うんざりかい?」

 ミセス・ミフリンは両手をさしあげ落胆の仕草をした。「彼はこの時期になると毎年あの本を読むの」彼女はティタニアにいった。「でも、それだけの価値はあるわね。気さくなミセス・リリパーとはおおかたの友達よりお付き合いが深いんですもの」

 「それ、なんですか?『クリスマス・キャロル』?」とティタニアがいった。「それなら学校で読まされたけど」

 「いいや」とロジャーがいった。「べつの話で、それよりはるかに出来がいいものだよ。みんな『キャロル』はいやというほど聞かされるけど、ほかの話はこのごろ読まないようだね。わたしとしては、毎年この話を読まないとクリスマスが来た気がしない。これを読むと古きよき時代の本物の宿屋や、本物のビーフステーキ、そして白目のマグにそそがれた本物のエールが恋しくてたまらなくなる。お二人さん、わたしはディケンズを読んでいると、ときどき血のしたたるサーロインを思い浮かべる。ほかほかに茹でたじゃがいもに、わさび大根のおろしたやつをたっぷり添え、下にはぴかぴかのテーブルクロスを敷き、そばには真っ赤に燃えるイギリス製の石炭ストーブ――」

 「どうしよもない夢想家ね」とミフリン夫人がいった。「彼の話を聞いていると、ディケンズが死んでからこのかた、だれもまともな食事をしていないみたいに思えてきちゃう。下宿のおかみさんもリリパー夫人とともに死に絶えたんじゃないかと思えてくるわ」

 「それはひどすぎます」とティタニアがいった。「わたしがブルックリンで食べたじゃがいもくらいおいしいじゃがいもはきっとないでしょうし、ここで会ったおかみさんくらい優しいおかみさんはいないと思うわ」

 「そうだね」とロジャーがいった。「もちろん、そのとおりだ。しかしそれでもヴィクトリア朝のイギリスが消えたとき、なにかが世界からなくなったんだよ。二度ともどってこないなにかがね。たとえば乗合馬車の御者だ。じつにはつらつとした、人間味のある連中だった! 彼らに比較できるような人間が今いるだろうか? 地下鉄のドアの開閉係? タクシーの運転手? 深夜営業の軽食堂をいろいろうろついて運転手たちの話に耳を傾けてきたが、彼らはあまりにもせわしなく動きまわるため、ディケンズが類型化したようには彼らの姿をとらえることはできない。ほら、そうしたものはスナップ写真では写し撮ることができないんだ。タイム露出による写真でなければならない。でも軽食堂の食べ物が非常にうまいことは請け合うよ。最高の食事にありつける場所は、例外なく運転手がたむろする店のカウンター席だ。彼らは寒いなかを運転してものすごく腹を空かせているから、食事のときはあったかくてうまい物をほしがる。ブロードウエイ七十七番街の近くにフランクスという小さな店があるが、そこのハムエッグとフレンチフライはピックウイック氏が食べたのに負けないくらいおいしいよ」

 「わたし、ぜったいエドワードにそこに連れて行ってもらいます」とティタニアがいった。「エドワードはうちの運転手なんです。アンソニアにお茶を飲みに行ったことがあるの。あそこから近いわね」

 「やめたほうがいいわ」とヘレンがいった。「ロジャーがそういう店に行って帰ってくると、タマネギのにおいがぷんぷんして涙が出るくらい」

 「アシスタント・シェフの話をしていたんだったな」とロジャーがいった。「それなら『だれかの手荷物』を読むとしよう。これは給仕長の話だからね。わたしは、いまどきそんな給仕長が実際にいるのかどうか知りたくて、よく給仕か給仕の手伝いになりたいと思ったものさ。人間の本質にたいする知識をひろげ、人生が文学にあらわれているのとおなじくらいいいものかどうか調べるためにも、ありとあらゆる職業についてみたいのだ。ウエイターにもなりたいし、床屋、売り場監督――」

 「ロジャーったら。朗読をはじめたら?」

 ロジャーはパイプの灰を落として、ボックを椅子から追い払い、腰をおろすと、かぎりない喜びを味わいながら、居酒屋好きならだれもが愛する給仕長、クリストファーの印象深い人物描写を読み出した。「『このつたない書き物は給仕の手になるものであり』」彼ははじめた。編み棒はせっせと動き、炉格子のそばの犬は寝そべって、仲のよい友達に囲まれた犬のみが知る、贅沢な忘我の境地にひたっていた。ロジャーはことのほか上機嫌で、とりわけ聞き手がもらす小さな笑い声に気をよくしていたのだが、第一章をあと十ページもすすめば、興趣尽きないあの喫茶室の請求項目に至るというとき――最近のホテルの請求書がこのように書かれていないのはなんとも残念なことだ――店のベルがからんと鳴った。パイプとマッチ箱を取り上げ、「いつもこうなんだ」とぼやくと、彼は急いで部屋を出た。

 訪問者が例の宣伝マン、オーブリー・ギルバートであることを知って、彼はうれしい驚きを味わった。

 「やあ、きみか!」と彼はいった。「きみのためにとっておいたものがある。ジョゼフ・コンラッドの引用でね、宣伝に関するものだ」

 「おもしろそうですね」とオーブリーがいった。「わたしも持ってきたものがあります。この前の晩、ご馳走していただいたので、勝手ではあるんですが、たばこをお持ちしました。ほら、ブルー・アイド混合たばこの缶です。わたしの大好きなやつで、気に入っていただけるといいんですが」

 「こいつはいい。こんなに親切にしていただいたからには、コンラッドの引用は免除してさしあげるべきだろうな」

 「ちっともかまいませんよ。どうやら広告を酷評しているみたいですね。聞かせてください!」書店主は机に引き返すと、散らかったなかから、ようやく彼が書いた紙片を見つけた。

しかし私とても、人類同胞に対する愛情がないわけではないので、現代の宣伝方式をいささか嘆きたくなることがある。たしかに現代の宣伝方式は、個人個人の経営の才、創意工夫、厚かましさ、敏腕などの特質を遺憾なく証明しているのかも知れないが、私の眼には、人間精神の堕落の一形式である騙されやすさガリビリティが、広く蔓延している証拠としか思えない。

ジョゼフ・コンラッド   

 「どう思うかね?」とロジャーがいった。「これは『無政府主義者』という話に出てくるんだが」

 「わたしはなんとも思いませんよ」とオーブリーがいった。「あなたのお友達、ドン・マーキスが先日、夕刊でいっていたように、思想を信じる人がなにをしようと、かならずしも思想それじたいにその責めがあるわけじゃないですからね。コンラッド氏はいかがわしい広告をいくつかご覧になったんでしょう。それだけのことです。いんちきな広告があるからといって、宣伝の原則が悪いとはいえません。でもそんなことより、わたしがここに来たほんとうの理由はこれを見せたかったからなんです。今朝のタイムズに出ていました」

 彼はポケットから「なくしもの」の欄の切り抜きを取り出したが、それはすでにロジャーが注目したものだった。

 「ああ、それはちょうど見たところだ」とロジャーはいった。「棚からその本がなくなっていたが、きっとだれかが盗んだのだろう」

 「そのことでお話ししたいことがあるんです」とオーブリーがいった。「今晩、わたしはオクタゴン・ホテルでチャップマン氏と夕食をともにしました」

 「そうだったのかい? 知ってるだろうが、お嬢さんが今ここに来ているよ」

 「そうおっしゃってました。なんだかおもしろい巡り合わせですね。先日、ミス・チャップマンがお宅で働くことになっていると聞いて、アイデアが浮かんだんです。それなら彼女のお父さんはブルックリンに格別の興味を抱いているだろうから、ここブルックリンでデインティビッツ製品の展示キャンペーンをはるのはどうだろうと思ったんです。あの会社の販売促進キャンペーンはうちが一手に引き受けているんです。もちろん、お嬢さんがここに来ることになっていることなど、わたしは知らないふりをしてましたが、でも話の最中にご自分でそのことをもらしたんです。さて、ここからが本題です。わたしたちは十四階のチェコスロバキア・グリルで夕食を取ることになっていたのですが、エレベーターであがっていくとき、シェフの制服を着た男が本を持っているのを見たんです。わたしはなんの本だろうと思って彼の肩越しにのぞきました。当然、料理の本だろうと思っていました。そうしたら『オリバー・クロムウェル伝』だったんです」

 「すると彼は本を取りもどしたんだね? 彼と話をしに行かなければならないな。カーライルのファンなら、お見知りおき願いたいものだ」

 「待ってください。わたしは今朝の新聞で『なくしもの』の広告を見ていました。あの欄はいつも目を通すんです。宣伝企画のヒントをつかむことがしばしばありますから。人が心から取りもどしたいと思うものを調べれば、彼らがほんとうに大切にしているものがわかります。大切にしているものがわかれば、どんな製品の宣伝をもっと拡大すべきか、情報をつかむことができます。なくしもの欄に本が出てきたのはわたしの知るかぎりはじめてでした。だからわたしは『書籍業が浮上してきたぞ』と思いました。それで例の本を手にしたシェフを見たとき、わたしは冗談のように『本が見つかったんだね』といったんです。彼は外国人のような風貌の髭もじゃの男でした。シェフにしては変わっていますね。スープに浸かってしまいそうですもの。彼はまるでわたしが肉切りナイフを突き立てようとしているみたいに見返してきました。その様子はこっちが怖くなるくらいでした。『うん、そうなんだ』と彼はいい、本を脇の下にはさんで見えなくしてしまいました。なかば怒ったような、なかばおびえたような感じでした。それで、もしかしたら客用のエレベーターには乗ってはいけないことになっていて、支配人に言いつけられるのを恐れているのではないかと思いました。ちょうど十四階に着こうとしたとき、わたしは彼に小声でいってやりました。『大丈夫、だれにも言いやしないよ』って。そのときの彼のおびえかたといったらありませんでしたよ。真っ青になったんです。わたしは十四階でおり、そのあとから彼もおりてきました。話しかけてくるのかなと思ったんですけど、チャップマン氏がロビーにいて、その機会がありませんでした。でも彼はわたしが最後の救いのチャンスででもあるかのように、グリルに入るのを見ていたんです」

 「可哀想にその男は本を盗んだかどで警察に訴えられると震えてたんじゃないかな。なに、気にしなくてもいい、本は彼にやるさ」

 「彼が盗んだんですか?」

 「わからない。しかしだれかが盗んだんだろう。ここから消えたんだから」

 「いやいや、待ってください。ここからおかしなことになるんです。わたしは、新聞の広告を見たあと、彼に会うなんて妙な偶然だなと思っただけで、そのことは忘れてしまいました。チャップマン氏と長いこと話をし、プルーンとポテトチップスのキャンペーン・プランを議論しました。わたしが参考までに用意したキャッチコピーも見せたんです。それからお嬢さんのことをお話になって、わたしはあなたと知り合いであることを打ち明けました。わたしはオクタゴンを八時ごろ出ました。そして地下鉄でここにかけつけ、あなたになくしものの広告を見せ、たばこをわたそうと思ったんです。そしたらアトランティック・アヴェニューで地下鉄をおりたとき、なんと、あのシェフをまた見かけたんです。おなじ列車をおりたんですよ。そのときはもちろん私服を着ていたんですが、白い制服とパンケーキ・ベレーを脱いだその姿を見たら、すぐある男のことを思い出しました。だれを思い出したと思います?」

 「想像もつかない」ロジャーはすっかり話しに引き込まれていた。

 「ほら、わたしがここに来た最初の晩、あの本を探しに来た教授みたいな格好の男ですよ」

 「ほう! そいつはきっとカーライルに夢中なんだ。あの晩、本があるかと聞かれてわたしが見つけられなかったとき、ひどく失望していたからね。かならずあるはずだといい張るので、わたしは変なところに置かれていないかと歴史の棚をしらみつぶしに探したことを覚えている。彼は友達からここにあるのを見たと聞いて、わざわざ買いにきたのだそうだ。市立図書館に行けばきっと一冊手にはいるといったんだが、それじゃだめだというんだ」

 「あいつは頭がおかしいですよ。だって地下鉄を出てから通りをずっとつけてきたんですよ。絶対まちがいない。マッチを買おうと角の薬局に立ち寄ったんですが、そこを出たとき、彼は街灯の下に立っていたんです」

 「カーライルじゃなくて現代の作家だったら、世間の注目をひこうと出版社がうしろで糸を引いているとも考えられる。あの連中は作者の名前を印刷物に載せるためならどんなことでもやるからね。しかしカーライルの著作権はとっくに切れているから、そんなことをしても意味がないんだがな」

 「サミュエル・バトラー風卵のレシピを盗もうとして監視しているんじゃないでしょうか」そうオーブリーはいい、二人は声をあげて笑った。

 「なかに入って妻とミス・チャップマンに会っていきなさい」ロジャーはいった。若者は弱々しく遠慮したのだが、書店主には彼がミス・チャップマンと知り合いになれる機会を、胸を高鳴らせて待っているのが手に取るようにわかった。

 「こちらはわたしの友人だよ」ロジャーがオーブリーを小部屋に案内すると、ヘレンとティタニアはあいかわらず暖炉のそばに座っていた。「おまえ、オーブリー・ギルバートさんだよ。ミス・チャップマン、こちらはギルバートさん」

 オーブリーの意識には本の列や、燃えさかる石炭や、ふくよかな女主人、そして人なつこいテリヤがぼんやりと映っていた。しかし聡明な若者の心はひたすら一点に焦点を合わせ、こうしたものはすべてにこやかな見習い店員の添え物に過ぎなかった。若者の感覚はどれほどすばやく真に重要なデータをかき集め吸収してしまうことか! そちらの方に視線をむけた様子もないのに、彼は人間に可能なもっとも驚くべき電光石火の計算をやってのけたのだった。彼は知り合いの若い女性をすべて足し算し、その総計が目の前の娘に及ばないことを知った。太陽系と広告商売を含めて、自分が知る宇宙からこの新しい驚異を引き算すると、残りがマイナスの数字になることに彼は気がついた。自分の知性の内容に、いつまでも変わることがないと彼が勝手に決めつけた、ティタニアの美という定数を乗じると(わたしの思い違いでなければ、教師はこのことを「掛け合わす」といっていた)、そこから玉のような赤ちゃんが生まれてきたので一驚した。そして自分の経歴を、左手の肘掛け椅子のなかの存在で割ってみると、まったく商が立たないのだった。ロジャーが椅子をもう一つ持ち出すあいだに、彼はこうした計算をすべてやってのけたのだ。

 育ちのよい若者が持つべき礼儀正しさで、オーブリーがまず本能的に考えたことは、女主人との挨拶をきちんとすませなければならない、ということだった。彼は青い眼、絹のシャツウエスト、そしてすてきな形のあごを断固として心の目から追い出した。

 「お招きいただいてありがとうございます」彼はミセス・ミフリンにいった。「先だっての晩にこちらにお邪魔しまして、ミスタ・ミフリンに夕食をご馳走していただきました」

 「お会いできてうれしいわ」ヘレンがいった。「あなたのことはロジャーから伺ってます。夫の変な料理で食中毒なんか起こさなかったでしょうね。ハロルド・ベル・ライト風桃のブランデー漬けを見たらびっくりすると思うわ」

 オーブリーは愛想よく大丈夫でしたといいながらも、視線をあるべき場所(と彼が感じていたところ)から必死になってそらそうとしていた。

 「ミスタ・ギルバートはついさっきおかしな体験をしてね」とロジャーがいった。「その話をしてくれないか」

 オーブリーははなはだむこう見ずにも、好奇心に満ちた青い稲妻にわざと身を投げ出し、その直撃を受けて身体の自由がきかなくなってしまった。「オクタゴンであなたのお父さんと夕食をごいっしょしていたんです」

 その青く輝く高圧電流は「楽しき我が家オーム・スイート・オーム」(註 電気抵抗の単位オームとホームをかけて)のように感じられたが、いっぺんに当たりすぎるのは、さすがにヒューズが飛ぶのではないかと心配になって、彼はあわててミセス・ミフリンのほうにむきなおった。「じつはですね」彼は説明した。「わたしはミスタ・チャップマンの広告をたくさん作っていて、仕事の相談をするため会う約束をしたんです。いまプルーンの一大キャンペーンを計画しているところなんです」

 「お父さんは働き過ぎだわ。そう思いません?」ティタニアがいった。

 オーブリーはミス・チャップマンの家庭事情という庭園にいたる好都合な話題だと思って歓迎したのだが、ロジャーはシェフとクロムウェル伝の話をしてくれと強くうながした。

 「その人、ここまであなたをつけてきたの?」ティタニアが大声を出した。「なんておもしろいんでしょう! 本のお仕事がこんなに刺激的だなんて知らなかったわ」

 「今晩はドアに鍵をかけたほうがいいわ、ロジャー」とミセス・ミフリンがいった。「さもないと『大英百科事典』を丸ごと持って行かれるかもしれない」

 「なにをいっているんだ、おまえ」とロジャーがいった。「わたしはすばらしいニュースだと思う。つつましい職業の男がよい本ほしさのあまり本屋を見張って本をくすねる機会をうかがっている。これほど心強いことは聞いたことがない。『パブリシャーズ・ウイークリー』に投稿しなければならん」

 「あのう」とオーブリーがいった。「みなさんのささやかなパーティのお邪魔になるでしょうから、わたしはこれで」

 「邪魔なんかしておらんよ」とロジャーがいった。「わたしたちは朗読をしていただけだ。ディケンズの『クリスマス・ストーリーズ』は知っているかね?」

 「残念ながら」

 「朗読をつづけようか?」

 「お願いします」

 「ええ、ぜひ」とティタニアがいった。「ミスタ・ミフリンはロンドンの焼き肉レストランに勤めるすてきなボーイ長の話を読んでいたのよ」

 オーブリーはパイプを吸う許可を請い、ロジャーは本を取り上げた。「しかし喫茶室の勘定書を読み上げるまえに、軽く飲み物でもいただいたほうがいいだろう。この一節はなにかやりながらでないと読むことができない。おまえ、みなさんにシェリーを一杯さしあげるのはどうだい?」

 「お恥ずかしい話なんですけど」とミセス・ミフリンがティタニアにいった。「夫はなにか飲みながらでないとディケンズが読めないの。禁酒法が施行されたらディケンズの売れ行きはがくんと落ちるんじゃないかしら」

 「わたしは一度ディケンズの作品のなかでどのくらい酒が飲まれているか一覧表を作ったことがある」ロジャーがいった。「その総計たるや驚くべきものだよ。たしか大樽で七千個分なんだ。そういう計算はじつに楽しい。わたしはロバート・ルイス・スティーブンソンの物語に出てくる暴風雨について短い随筆を書こうといつも思っている。ほら、R・L・Sはスコットランド人だから雨にくわしいんだよ。ちょっと失礼して地下室から瓶を取ってくる」

 ロジャーは部屋を出、残りの者は地下室へおりていく彼の足音を聞いていた。ボックは犬の習性にしたがって彼のあとについて行った。地下室のにおいは犬にとってはすばらしいご馳走である。独特の風味を持つ古いブルックリンの地下室はとりわけそうだった。かまどから暖かい光がさし、ロジャーが焚きつけ用に使っている、荷箱を割って作った薪がうずたかく積まれた幽霊書店の地下室は、ボックにとってはうっとりするような場所だった。ざくざくと石炭をすくうシャベルの音と、その石炭のかたまりを鉄のシャベルから火のなかへ放り込むしゅっという心地よい音が下から聞こえてきた。ちょうどその時、店のベルが鳴った。

 「わたしに行かせて」ティタニアが飛び上がっていった。

 「わたしが行きましょうか?」とオーブリーがいった。

 「とんでもない!」ミセス・ミフリンは編み物を下に置きながらいった。「二人とも在庫のことはなにも知らないでしょう。座って楽になさってて。すぐもどりますから」

 オーブリーとティタニアはもじもじしながらたがいを見つめた。

 「お父様から、よ……よろしく伝えてくれとのことでした」とオーブリーがいった。それは彼がいおうとしていたことではなかったのだが、しかしどういうわけか彼にはその言葉を発することができなかった。「いっぺんに全部の本を読もうとしてはいけないよ、といっていました」

 ティタニアが笑った。「ここにいらっしゃるまえに父に会うなんておかしな偶然ね。お父さんてかわいいところがあると思わない?」

 「じつはビジネス上のおつきあいしかなくて。でも確かにすばらしい方です。広告の力も信じていらっしゃる」

 「あなたは本がお好き?」

 「いえいえ、本とはあまり縁がありませんでした。きっとものを知らない人間だとお思いになるんじゃないかな――」

 「そんなことない。わたしはうれしいわ、世のなかにある本をみんな読んでないことが罪じゃないと思える人に会えて」

 「ここは変わったお店ですね」

 「そうね。幽霊書店なんて名前もおかしいわ。どういう意味なのかしら」

 「ミスタ・ミフリンがいうには、偉大な文学の霊にとりつかれているっていうことらしいです。連中があなたに迷惑をかけなければいいんですが。トマス・カーライルの霊はとても活動的なようですね」

 「幽霊なんて怖くないわ」ティタニアがいった。

 オーブリーは火を見つめた。彼は、自分も事情があってこの店にちょいととりつこうと思っている、といいたかったのだが、どうすれば警戒されずに打ち明けられるかが、わからなかった。そのとき、ロジャーがシェリー酒の瓶を持って地下室からもどってきた。彼がコルクを抜いているとき、店のドアの閉まる音が聞こえ、それからミセス・ミフリンが部屋に入ってきた。

 「あのね、ロジャー」と彼女はいった。「クロムウェルがそんなに大事なら、この部屋にしまっておいたほうがいいわよ。ほら、見て」彼女はその本をテーブルに置いた。

 「これは驚いた!」ロジャーが叫んだ。「だれがこれをもどしてくれたんだ?」

 「あなたのお友達のアシスタント・シェフだと思うわ。ともかく彼はクリスマス・ツリーみたいな髭を生やしていた。とても礼儀正しかったわ。自分はとてもうかつだった、先日、ここで本を見ていたんだけど、うっかりこいつを持って店を出てしまったっていうの。迷惑をかけた分、お金を払うといったんだけど、もちろんわたしは断ったわ。あなたを呼んできましょうかって訊いたんだけど、急いでいるからって」

 「それはなんだかがっかりだな。わたしは本物の愛書家を見つけたと思ったんだが。さて、それではミスタ・トマス・カーライルの健康に乾杯しよう」

 みんなは乾杯をし、椅子に座った。

 「それからあたらしい従業員にも乾杯」とヘレンがいった。これもあっという間に杯が乾された。オーブリーは勢いよくグラスをからにし、ミス・チャップマンの明敏な目はそれを見逃さなかった。ロジャーはディケンズに手を伸ばしかけた。しかしまず最初に彼の愛すべきクロムウェルを取り上げた。彼は注意ぶかくそれを眺めていたが、ふと本を明かりの近くにかざした。

 「謎はまだ解明されたわけじゃないぞ。これは製本しなおしてある。もともとの装丁じゃない」

 「まちがいない?」とヘレンは驚いていった。「おなじに見えるけど」

 「装丁はうまく似せてあるが、わたしはだまされないよ。だいいち、上の角がすり切れていて、見返しにインクの染みがあったんだ」

 「染みならまだついてますよ」オーブリーは肩越しにのぞき込んでいった。

 「ああ、しかしおなじ染みじゃない。長いこと手元にあったからすっかり覚えているんだ。いったいあの変人はなんのために製本しなおしたんだ?」

 「まったくもう」とヘレンはいった。「さっさとしまって忘れてしまいなさい。用心しないとみんなの夢のなかにまでカーライルが出てくるわ」

第五章 オーブリーは途中まで歩き――残りは車で家に帰る

 その晩、ミスタ・オーブリー・ギルバートが幽霊書店を辞し、歩いて家路についたとき、夜の空気は冷たく冴えわたっていた。とくに理由があったわけではないが、地下鉄の轟音に黙想をさまたげられるよりは歩いてマンハッタンに帰ったほうが、なんとなくいいような気がした。

 書店主が朗読した「だれかの手荷物」について試験されていたらオーブリーはひどい落第点を取っていただろう。彼の心は、堰を抜かれ、嬉々として斜面を流れ落ちる急流のように乱れた。オー・ヘンリーがそのもっともみごとな短編の一つで書いているように、「見かけはしゃんとしてまともだったが、中身はもう尋常ではなくなって、なにをやらかすやらわかったもんじゃなかった」。彼がミス・チャップマンのことを考えていたといえば、彼にはずば抜けた論理的思考能力と抽象的緻密さのあることを意味するだろう。彼は考えていたのではない。考えられていたのである。彼の心はあまく誘いかける月の引力に否応なく引っ張られ、いつも通る知性の道筋から潮が引くように撤退した。彼の意志は迷えるはだかの泳ぎ手となって、衝動という名のきらきら光る河口を必死にさかのぼろうとするのだが、はるか風下に押し流され、海に吐き出されるのもやむなしという、絶望的な状況におちいっていた。

 彼はギッシング通りとワーズワース・アヴェニューの交差点の角にあるワイントラウブの薬局にしばらく立ち寄り、かき乱れる胸に慰安をもたらす特効薬、たばこを買った。

 それはブルックリンのそのあたりではよく見かける古いたたずまいの薬屋だった。赤や緑や青の液体をいれた背の高いガラスの容器がウインドウに飾られ、舗道に色つきの光を投げかけていた。ウインドウには白いチャイナグラフで「H・ワイ トラウブ、ド ツ 薬局」と記されている。なかに入ると、ラベルつきの広口瓶や葉巻入りのガラスケース、医薬品、化粧道具が並んだおなじみの棚があり、店の片隅にははるか昔タバード・イン・ライブラリー(註 会員制の図書貸し出しシステムで、薬局などに回転書棚が設置され、毎週本が取り替えられた)が置いていった古い回転式の書棚があった。店にはだれもいなかったが、彼がドアをあけると呼び鈴がするどく鳴った。奥の部屋から声が聞こえた。薬屋があらわれるのをのんびりと待ちながら、オーブリーは回転書棚に収まる埃まみれの本をゆっくりと眺めた。例によってハロルド・マグラスの「御者台の男」や「リンバロストの乙女」、それに「三途の川の屋形船」があった。手あかのついた「神の火」がジョー・チャプルの「ときめき」に寄りかかっていた。僻地の薬局で見かけるタバード・インの書棚にくわしい人は、もう何年も商品が交換されていないことを知っている。それよりもオーブリーが驚いたのは、書棚をまわすうちに、本文がはぎ取られた空の表紙が見つかったことだった。背表紙の文字を見るとこう書いてある。

 カーライル著「オリバー・クロムウェル伝――その手紙と演説」

 ふと衝動にかられて、彼は上着のポケットにその表紙をすべりこませた。

 ミスタ・ワイントラウブが店のなかに入ってきた。がっしりしたドイツ人で、目の下のたるみは染みで変色し、その顔は禁酒法を支持する有力な論拠を提示していた。しかし彼は腰を低くし、客のご機嫌を取ろうと一生懸命だった。オーブリーは自分が望むたばこの銘柄をいった。彼自身がその広告用キャッチフレーズをひねり出したので――「味はマイルド、気分は爽快」――一種の忠誠心をもって、いつもこの銘柄を吸うことにしていた。薬屋はたばこの箱をさし出し、オーブリーはその指が濃い黄色に染まっていることに気がついた。

 「きみもたばこを吸うんだね」オーブリーは快活にそういうと、箱を開け、カウンターに置いてある青いガラスのアルコールランプで紙巻きたばこに火をつけた。

 「わたしですか? わたしはたばこはやりません」ミスタ・ワイントラウブは無愛想な顔にどことなく似合わないほほえみを浮かべていった。「この商売には落ち着きが必要です。たばこを吸う薬剤師は、処方がいい加減になります」

 「それじゃあ、その手の染みはどうしたんだい?」

 ミスタ・ワイントラウブはカウンターから手を引っ込めた。

 「薬品ですよ」彼はうなるようにいった。「薬の処方とか――そんなもののせいです」

 「まあ、喫煙はよくない習慣だね。ぼくも吸い過ぎなんだけど」彼はだれかが彼らの話に聞き耳を立てているような気がしてしかたがなかった。店の奥に通じる入り口には数珠と竹の細い節に糸をとおした仕切りカーテンがかかっていた。彼は一瞬それが横に引っ張られたかのように、かちゃかちゃと鳴る音を聞いた。店を出ようとドアを開けながら振り返ったとき、その竹のカーテンが揺れているのが見えた。

 「じゃ、おやすみ」彼はそういって通りに足を踏み出した。

 ワーズワース・アヴェニューに沿って、高架鉄道の雷鳴の下を抜け、明かりの灯る軽食堂やらカキ料理店やら質屋の前を通るうちに、彼の頭はふたたびミス・チャップマンに占領されてしまった。彼の心はその晩の経験をめぐってすばらしい勢いでぐるぐると旋回した。本でいっぱいのミフリン夫妻の小さな居間、火の粉を散らす暖炉、朗読する書店主の陽気な声――そして馬の毛の詰め物がはみ出しかけた、古い安楽椅子に座る青い目の気どらない娘! 幸運にも彼の座った位置からは気づかれることなく彼女をじっくり観察することができた。暖炉の火影が踊る彼女のくるぶしの形は、コールズ・フィリップスをも恥じ入らせる、と彼は断言できた。こういう乙女がその耐えがたいまでの美しさでどれほどわれわれを悩ますことだろう! 黒ずんだ本の装丁を背景に、彼女の頭は黄金色のやわらかなもやを帯びて光った。純粋で、しゃくにさわるくらい独立心を感じさせる彼女の顔には、魅惑という余計なものまで備わっていて、それが彼にはいまいましかった。説明のできない情熱の嵐が、彼に凍てついた通りを足早に進ませた。「ちくしょう」彼は叫んだ。「いったいなんの権利があってあんなに可愛らしいんだろう? ああ、しゃくにさわる、おしおきしてやりたいくらいだ!」彼はそうつぶやき、自分でも驚いてしまった。「いったいどんな権利があってあんなに無邪気ですてきな顔をしているんだ?」

 道をわたるときはかろうじて身の安全をはかる程度にしか目や耳を使わず、ワーズワース・アヴェニューをぐんぐん進みながら、怒りと崇拝のあいだを逡巡する哀れなオーブリーのあとをつけるのは趣味がよいとはいえないだろう。吸いかけのまま捨てられたたばこが彼の通ったあとに点々と光った。そのたくましい胸の内では支離滅裂な言葉がこだました。ブルックリン橋につながるフルトン通りのいっそう暗い道筋で彼は荒々しく叫んだ。「くそっ、この世界もそう悪いものじゃないな」風が吹き抜ける大きな坂をあがりながら、燦めく星空に黒いこびとのような姿を浮かべ、彼は広告の仕事で大手柄を立てることはできないものかと真剣に思案した。それができればデインティビッツ株式会社社長にむかって、いかなる美の生みの親もまさか聞くとは思ってなかった質問を発しても、笑いものになることはないだろうと考えたのである。

校正中のメモ この言い回しは無意識のうちにロバート・ルイス・スティーブンソンから借用したものに相違ない。しかしもとの表現はどこに出てくるのだろうか? C.D.M.

 橋のちょうどまんなかまでくると、気持ちが落ち着いてきた。立ち止まって、欄干にもたれ、壮麗な景色に目をむけた。夜は更けていたが――もうじき真夜中になろうとしていた――マンハッタンの高くて黒い絶壁のような建築群のあちらこちらに光が輝き、その奇妙で不規則な模様は――「ミルクで育てた七面鳥を当ててみませんか」――といいながら東インドのエレベーター・ボーイがハロウィンのころアパートの住人にさし出す、まばらにくじ券の抜けたラッフルくじのボードのようだった。黄金色の明かりのもやが、山の手のにぎわいを覆うように渦巻いていた。メトロポリタン・タワーの赤い信号灯が三方にむかって合図を放っているのが見えた。広々とした橋桁の下をタグボートが煙を噴き上げながら通った。左舷と右舷のランプの光が潮路に赤と緑の糸を引いた。スタテンアイランド船隊の一隻である大型船が、ぎらぎらと輝く電飾に目をしばたたかせる劇場帰りの疲れてはてた乗客を乗せ、やわらかな光のローブをまとう自由の女神のそばを通り、セント・ジョージの方向にしずしずと進んでいった。見あげると夜空は、すみ切った寒気に星を散らした壮麗な天蓋だった。路面電車が橋の上をがたがたと走るとき、青い火花が架線にからみつくように飛び散った。

 オーブリーはこのすばらしい光景を見るともなく見つめていた。彼は冷静に考えるたちで、ミス・ティタニアの圧倒的なあでやかさにうろたえてしまった自分を、こんなふうに慰めようとしていた。つまり、彼女も結局は彼が崇拝するわざ――広告――の所産であり成果ではないか、と。彼女が発する香気、まなざしが持つやわらかな強制力、心惑わす手首のひだ飾りすら、彼がほれこんだわざの功績に帰せられるのではないか? グレイー・マター社のオフィスの一角で人知れず「視線を釘づけにする」コピー、レイアウト、活字の字面に思いをめぐらしていた彼は、この無自覚な受益者の勝ち誇ったような華やかさとしとやかさの形成に一役買っていたのではないか? 愛らしいイメージではげしく彼を苦しめる彼女は、まさしく広告という神秘的でとらえがたい力の象徴のように思えた。ここまで彼女を作り上げたもの――はにかみ屋で、おどけた小男、ミスタ・チャップマンが娘に文明の粋をまとわせることを可能にしたもの――地上を照らす明けの明星となるまでに、彼女を大切に育て上げることを可能にしたもの――それこそまさに広告だったのだ! 広告が彼女の身をつつみ、広告が彼女を養い、しつけ、屋根を与え、守ってきたのだ。ある意味で彼女は父親の経歴を宣伝する最上の広告であり、その無邪気な完璧さはタイムズスクエアの群衆の頭上に輝く「チャップマン・プルーンズ」という電飾文字とおなじように彼の心をもてあそんだ。自分自身の良心的な仕事が、この娘を近づくこともできないような位置に押しあげたのだと思うと、彼はうめき声をあげた。

 もしも彼が強い思いにかられ、知らず知らず橋の欄干をぐいと怒ったようにつかまなかったら、どんな口実をもってしても彼女に二度と近づくことはできなかっただろう。というのは、その瞬間、後ろから彼の頭に麻袋がかぶせられ、何者かが乱暴に足を抱えて、あきらかに彼を欄干から突き落とそうとしたのである。はからずも手すりに手をかけていた彼は、かろうじてこの襲撃に抵抗することができた。いきり立つ暴漢に足をすくわれたが、欄干に身体を押しあてて横に倒れ、幸運にも敵の足をつかむことができた。袋をかぶせられていたので、大声を出してもむだだった。しかし彼はつかんだ足に必死になってしがみつき、彼と暴漢は歩道をいっしょに転がった。オーブリーも腕っ節は強かったから、虚をつかれたとはいえ、相手をねじ伏せることはできたかも知れない。ところが死にものぐるいで争い、袋を脱ごうとしているとき、彼は頭にすさまじい一撃をくらい、なかば気絶状態に陥ってしまったのである。一瞬、彼はのびてしまって、抵抗することもできなかった。しかし意識はまだ残っていて、少々奇妙なことだが、これから空中に放り出されて、凍てつくようなイーストリバーに落ちていく、目のくらむような感覚を期待して待っていた。腕が伸びて彼をつかんだ――そのとき無抵抗な彼は、叫び声やら、厚板の上を駆ける足音やら、全速力で逃げていく別の足音を聞いた。とたんに袋が頭から取りのけられ、親切そうな通りがかりの男が彼のそばに膝をついた。

 「おい、大丈夫か?」その男が心配そうに言った。「まったく危ないところだったな」

 オーブリーは気が遠くなりそうでしばらく口をきくこともできなかった。頭はしびれ、きっと数インチはへこんだにちがいないと思った。弱々しく手をあげてみると、驚いたことに頭蓋骨の輪郭はいつもとまったく変わらなかった。見知らぬ男は膝に彼の身体をもたれさせ、したたり落ちる血をハンカチでぬぐった。

 「きみ、おだぶつじゃないかと思ったぜ」彼は思いやりのこもった声でいった。「あいつらがきみに飛びかかるのを見たんだ。残念だが逃げられたな。ほんとうに汚いことをしやがる」

 オーブリーは夜の空気を大きく吸い込み、上体を起こした。橋が彼の足下で揺れていた。星降る夜空に浮かび上がるウールワース百貨店の輪郭は、大風にあおられるポプラのように折れ曲がりふらついていた。彼はひどい吐き気がした。

 「とても助かりました」彼はどもりながらいった。「こんなのすぐに治りますよ」

 「救急車を呼ぼうか?」彼を助けた男が言った。

 「いや、結構」とオーブリーがいった。「なんでもないです」彼はよろよろと立ち上がって、欄干にしがみつき、気持ちを落ち着かせようとした。頭のなかで一つの文句が忌々しいほど何度も繰り返された――「味はマイルド、気分は爽快!」

 「どこに行くんだい?」彼を支えながら男がいった。

 「マディソン・アヴェニューと三十二丁目の――」

 「タクシーを呼んでやろうか。おおい」彼はべつの市民が近づいてくるのを見て叫んだ。「手を貸してくれ。頭を棍棒で殴られたんだ。おれはタクシーをひろってくる」

 そこにあらわれた男はさっそく厚意の手をさしのべ、オーブリーのハンカチを、大量に出血している頭のまわりに巻いた。しばらくして最初のサマリア人が、ブルックリンから走ってきたほろつき自動車をつかまえた。運転手は気持ちよくオーブリーを家まで送ることに同意し、他の二人は彼が車に乗り込むのを手伝った。彼は頭部をひどく切っていたが、ほかに傷はなかった。

 「夜中にロングアイランドをうろつくなら鉄かぶとが必要だね」運転手がやさしく話しかけた。「この前の晩、ロックヴィルセンターからこっちに走ってくるとき、二人組の男にピストルを突きつけられそうになったよ。もしかしたらあんたを襲ったのもおなじ二人組かも知れない。奴らの顔を見たかい?」

 「いいや」オーブリーがいった。「あの袋があれば手がかりになったかもしれないが、取ってくるのを忘れた」

 「もどろうか?」

 「その必要はないよ」オーブリーはいった。「思い当たるふしがあるんだ」

 「正体を知っている? おいおい、陰謀に巻き込まれているのか?」

 車は暗いバワリー街を飛ぶように走り抜け、四番街から三十二丁目に入り、オーブリーを下宿の前で降ろした。彼は送ってもらったことを心から感謝し、それ以上の手助けを断った。何度か差し込みそこねてようやく表の戸の鍵をあけると、きしむ階段を四つあがり、よろよろしながら部屋のなかに入った。手探りして洗面台を探し、うずく頭を洗い、タオルを巻きつけるとベッドに倒れ込んだ。

第六章 ティタニア、仕事を覚える

 ロジャー・ミフリンは夜更かしするくせがあったが、朝起きるのも早かった。朝寝をぬくぬくと楽しむのは年若い者だけである。五十代に近づく人間は人生のはかなさを敏感に感じ取り、毛布にくるまってそれを浪費する趣味を持たない。

 書店主の朝はいつもきびきびと一定の手順を踏んだ。彼はたいてい七時半ころ、階段下のコイル・バネ仕掛けの鐘に起こされる。この鐘の音は毎朝その日の客の出入りに備えて店内と床の清掃をする、掃除婦のベッキー婆さんが来たことを知らせるものだ。ロジャーは着古した朱色のフランネルの部屋着をはおり、気ぜわしく一階に下りて彼女をなかに入れ、同時にミルク瓶とパン屋が置いていったロールパンの紙袋を取り上げる。ベッキーが正面ドアを開け放ってつっかい棒をし、明かり取りの窓を押しあけ、埃とたばこの煙に戦いを挑みはじめると、ロジャーはミルクとロールパンを台所に運び、ボックに朝の挨拶をした。ボックは文学的な犬小屋から出てくると、愛想よく服従の念をあらわし前足を突き出した。これは礼儀を示すという意味もいくらかあるが、幾分は一晩じゅう丸めていた背中をのばすという意味もあった。それからロジャーは彼を裏庭に連れ出してひと走りさせ、自分自身は台所の上がり段に立って朝の輝かしい新鮮な空気を吸い込んだ。

 その土曜の朝は澄み切った、身の引き締まるような朝だった。ホイッティアー通り沿いの質素な家がその裏側を自由詩の行末のようにでこぼこと並べていたが、ロジャーにはそれがさまざまな愛すべき人間模様をあらわしているように思われた。家々の煙突からほそい煙の糸があがり、パン屋の荷馬車がいつもよりおそく裏通りを走っていった。寝室の張り出し窓にはシーツや枕がもうすでに乾かされている。家族が憩い、朝ご飯をたっぷりいただくすてきなブルックリンの町は、元気よく、にこやかな気持ちで朝の時間を迎えるのだ。ボックは(隅から隅まで知りぬいている)小さな裏庭の土のなかに、まだなにか新しい魅惑的な匂いが隠れているかのように、鼻を鳴らして嗅ぎまわった。ロジャーはそれを見ながらしあわせな犬にたいして人がいつも感じる楽しさと優しさの入り混じった親近感を抱いた――それはドイツの神様がさわがしいホーエンツォレルン家を見まもりながら感じた、寛容な父親的温情とおなじ気分であったかもしれない。

 刺すように冷たい空気が部屋着にしみてくると、ロジャーは小さな生き生きした顔にやる気をみなぎらせ台所にもどった。調理用レンジの通気口をあけ、湯わかし用のやかんを載せてから、かまどの火をよみがえらせるために下におりていった。シャワーを浴びようと上にもどってきたとき、糊のきいた朝のエプロンをつけ、はつらつとして上機嫌のミセス・ミフリンがおりてきた。ロジャーは寝室の床に落ちていたヘアピンをつまみあげ、女が男よりも整頓上手だと考えられているのはなぜだろう、と不思議に思った。

 ティタニアの起床は早かった。彼女はサミュエル・バトラーの謎めいた肖像にほほえみかけ、ベッドの上に並ぶ本の列を見やり、いそいで服を着た。本屋の修行をはじめたくて気がはやっていた彼女は、いきおいよく階段を駆けおりた。初めて幽霊書店を見たとき、あまりのみすぼらしさにあきれてしまったので、ミセス・ミフリンが塩入れをテーブルに置くこと以外、どうしても朝食の支度を手伝わせてくれないことがわかると、彼女はギッシング通りに出て、昨日の午後目にした小さな花屋にむかった。そこですくなくとも一週間分の給金を出して、菊の花と白いヒースの大きな鉢植えを買った。彼女がそれを店のまわりに飾っているとき、ロジャーがあらわれた。

 「いったいどういうことかね!」と彼はいった。「こんなことをして、どうやってお給料で暮らしていくつもりだい? 支払日は今度の金曜日なんだよ!」

 「一回だけ贅沢をさせてください」彼女はほがらかにいった。「お店をちょっぴり明るくするのもたのしいかな、と思ったんです。売り場監督が来たとき、とってもよろこびますわ」

 「いやはや。まさか古本屋に売り場監督がいるなんて本気で思ってはいないだろうね」

 朝食のあと、彼は新米従業員に店の日常業務を手ほどきした。棚の並びを説明しながらあちらこちらを歩きまわり、必要に応じて解説を加えた。

 「もちろん本屋が知っておくべきいろいろな知識はだんだんとしか身につかない。フィロ・ガブとフィリップ・ギブズのちがいとか、ミセス・ウィルソン・ウッドロウとミセス・ウッドロウ・ウィルソンのちがいといった書籍業特有の知識はね。『鐘と翼』とかいう本が鳴り物入りで宣伝されているが、なんのことはない、そんな本を買いに来る客なんてどこにもいやしないのさ。それがミスタ・ギルバートに広告を信じないといった理由の一つなんだ。『最高をつかみとる』の作者はだれかと聞かれたときは、それがルーズヴェルト大佐ではなく、ミスタ・ラルフ・ウォルド・トラインだということは知っておかなければならないよ。本屋のいいところは、文芸評論家になる必要がない点だ。つまり本を楽しみさえすればいいのだ。文芸評論家はワーズワースの『幸福な戦士』が八十五行の詩であり、二十六行と五十六行の二つの文からなると教えてくれるような人間だ。それが偉大な詩でありさえすれば、ワーズワースがウォルト・ホイットマンやミスタ・ウィル・H・ヘイズとおなじくらい長い文を書いたとしてもなんの関係があるだろう? 文芸評論家というのはおかしな連中だよ。たとえばイェールにはフェルプスという教授がいる。彼は一九一八年に『二十世紀における英詩の発展』という本を出版した。わたしが思うに、そんな題の本は二〇一八年まで出版されるべきではないな。それからタイプライターについての詩の本がほしいなどといってくる客がいる。そのうちわかってくるが、じつはスティーブンソンの『下生えアンダーウッド』のことなんだ。(註 アンダーウッドはタイプライターの商標でもある)まさに、ややこしい人生だ。客を説得しようなんて考えちゃいけないよ。ただ彼らが読むべき本を与えるんだ。それが必要だということを彼らが知らないとしてもね」

 二人は正面ドアから外に出て、ロジャーはパイプに火をつけた。窓の前のわずかな空間に架台が並べられ、その上に大きな空き箱が載っていた。「わたしがいつも最初にすることは――」と彼はいいかけた。

 「お二人とも最初にすることは風邪をひいて死ぬことよ」ヘレンが彼の肩越しにいった。「ティタニア、急いで毛皮を取ってらっしゃい。ロジャー、あなたは帽子を取ってきなさい。そんなにはげているんだから、もうすこし気をつけたらどうなの!」

 彼らが正面ドアにもどってきたとき、ティタニアの青い目はやわらかな毛皮の上で燦めいていた。

 「毛皮の趣味がいいね」とロジャーがいった。「まさしくたばこの煙色だ」彼は色が似ていることを証明しようと毛皮にむかって煙を一吹きしてみせた。彼はひどくおしゃべりになっていた。若い娘がティタニアのようにすばらしく聞き上手であるとき、年かさの男はたいがいそんな気分になるものである。

 「こじんまりしたすてきな場所だわ」ティタニアは通りより一段低い、舗装された店の私有地を見まわしていった。「夏になったらここにテーブルを出してお茶をいただくこともできますね」

 「毎朝いちばんにやるのは」とロジャーが話をつづけた。「この箱に入った十セント均一本を外に出すことだ。夜のあいだはこの箱に入れて店のなかに保管するんだ。雨が降るときは、雨よけの庇をかける。これがじつに商売の役に立つ。だれかがかならず雨宿りに来て、本を見ていくからね。本降りの雨はたいてい五十セントか六十セントの価値がある。店頭本は週に一度入れ替える。今週ここに出しているのはほとんど小説ばかりだ。この手のものはいくらでも入ってくる。大多数はくだらないものだが、それなりに役に立つ」

 「なんだか汚れているような気がするんですけど」ほこりが何世代も堆積した青い小型のロロの本(註 ジェイコブ・アボットの児童文学)を見てティタニアはためらうようにいった。「ちり払いしてもかまいません?」

 「古本業では前代未聞といっていいだろうが」とロジャーがいった。「しかし見てくれはよくなるかもしれないな」

 ティタニアは店のなかへ駆け込み、ヘレンからはたきを借りると、汚い箱を掃除しはじめた。そのあいだロジャーは機嫌よくおしゃべりをつづけた。すでに新体制への変化に気がついていたボックは、会話にくわわっているかのように戸口の上がり段にうずくまっていた。朝のギッシング通りを歩く人々は本屋の愛くるしい助手はいったいだれなのだろうといぶかった。「あんなメイドさんがいたらいいわねえ」ブルックリンのある裕福な主婦は市場に行く道すがらそう考えた。「そのうち電話してお給料がいくらなのか聞いてみましょう」

 ロジャーはティタニアがほこりをはたいているあいだに両腕いっぱいの本を持ち出してきた。

 「きみが手伝いに来てくれて非常にありがたい。その理由の一つは外出の機会がふえるからだよ。今までは店に縛りつけられて本探しに出かけたり、蔵書を買いあげたり、競売に出されたコレクションに入札したり、そんなことをするひまがなかった。今在庫がすこし減ってきている。売りに来るのを待っているだけではほんとうにいい本はあまり入らないんだ」

 ティタニアは「故ナル夫人」のほこりをぬぐっていた。「こんなにたくさんの本が読めたらきっとすてきでしょうね。わたしはあんまり本は読まないんだけど、すくなくとも父から良書を大切にすることは教わりました。父は、遊びにきたわたしの友達に、どんな本を読んでいるかと聞いて、『いとしいメイブルへ』しか知らない様子だと、ものすごく怒りだすの」

 ロジャーは静かに笑った。「客がまじめな顔をしてこういったことがある。『イーリアス』も『アーゴジー』もどっちも好きだって。わたしのこともそんなただの知ったかぶりと思わないでくださいよ。わたしが一つだけ我慢できないのは要りもせぬのにわざとバニラの味つけをした文学だ。お菓子の味はじきにうんざりする。それがマルクス・アウレリウスであろうがクレイン博士であろうが関係ない。ときどき不思議に思うんだが、クレイン博士のいうことは、正しさの点でベーコン卿のいうことにこれっぽっちも引けを取らない。なのにどうして博士の文章は一節を読んだだけで眠くなり、卿のエッセイなら一晩じゅう起きていられるのだろう?」

 ティタニアはいずれの哲学者にもなじみがなかったため、自分がくわしく知っている話題に固執するという女性特有の話し方にしたがった。鈍い男はこうした習癖を見て女には筋の通った話ができないといったりするが、それはまちがっている。女性的な知性はバッタのように飛躍するのであり、男性のそれは蟻のようにこつこつと進むのである。

 「新しいメイブルの本が出るんですって。『おれらしいよな、メイブル』っていう題で、オクタゴンの新聞売り場の人は千冊売れるだろうっていっているわ」

 「ふむ、そうしたことにはなにかしら意味があるな」とロジャーがいった。「人は娯楽を求めるし、そのことじたいはけっして非難されるべきではないと思う。わたしは残念ながら『いとしいメイブルへ』を読んだことがないが、ほんとうに愉快なものなら、人々がそれを読むことは喜ばしいことだ。だがあまりたいした本ではないのじゃないかな。フィラデルフィアの女学生が『いとしいビルへ』という返事の手紙を書いて、それが原作に劣らない出来だというからね。フィラデルフィアのフラッパーがベーコンの『随想集』にたいして印象深い姉妹編が書けるとは到底思えないが。しかしそんなことはどうでもいい。作品がおもしろいなら、それなりの価値があるということだ。考えてみれば、罪のない気晴らしを求める人間の欲望というのは悲しいものだ。人生がかくも絶望的で不快なものになったということを示しているのだから。わたしが知るいちばん魅力的なものの一つは、土曜日のマチネーの劇場を包む期待と敬愛に満ちた、息をのむような静けさだよ。劇場内は暗くなり、フットライトが幕の裾を燃え立つように照らし、遅れてきた人たちが座っている人の足をまたいで自分の席にもぐり込む――」

 「すてきな一瞬だわ!」ティタニアが叫んだ。

 「その通り。しかし悲しいことだが、熱心な、期待に胸をふくらませている観客にさしだされるのは、たいていの場合、くだらない演し物なのだ。観衆はみんなわくわくさせられる準備をし、心揺さぶられることを待ち望んでいる。芸術家の手中にある粘土のように、なにをされてもそれを受け入れる、あの輝かしい希有な心がまえでいるときに――なんということだろう! 喜びと悲しみのかわりにどれほどみすぼらしい演し物を与えられることか! 来る日も来る日も人々は劇場や映画館に押し寄せる。いつも行き当たりばったりに入っていって、満ち足りた思いになったつもりだが、じつは子供だましの駄作を与えられているだけだ。悲しいことに、駄作に満足した気でいると、中身のある本物を味わう食欲を失ってしまうのだよ」

 ティタニアは自分が駄作に満足した気でいたのでは、とかすかにうろたえた。彼女は数日前の晩、ドロシー・ギッシュの映画をおおいに楽しんで観たことを思い出した。「だけども」と彼女は思いきっていった。「さっき人は娯楽を求めているとおっしゃったわ。笑い声をあげてしあわせそうにしていたら、楽しんでいるってことじゃないかしら?」

 「楽しいと思っているだけなんだよ!」ミフリンが強くいった。「本当の楽しさがわからないから、楽しい気がしているのさ。笑いと祈りは人間の気高い二つの習性だ。それこそが人間を獣から区別する。安っぽい冗談を聞いて笑うのは、安っぽい神に祈りを捧げることくらいあさましい。ファッティ・アーバックルを観て笑うなんざ、人間精神を堕落させることだよ」

 ティタニアは話がなんだか難しくなってきたような気がしたが、彼女には健康的な若い女性のたくましい考え方があった。彼女はいった。

 「でも安っぽく思える冗談でも、笑っている人には安っぽくないのかもしれませんわ。そうでなければ笑わないでしょうから」

 彼女は新しい考え方が心のなかにあふれてきて、顔を輝かせた。

 「野蛮人が祈りをささげる木の彫像は安っぽく思えるかもしれないけど、野蛮人にとっては最高の神様で、だからそれに祈りをささげるのは当然なんじゃないかしら」

 「おそれいったな」とロジャーがいった。「まったくその通りだ。しかしわたしが考えていたことから話がそれてしまった。人類は今まで以上に真実や美、慰めとなり、人生に価値を与えるものを渇望している。わたしの周囲では毎日そのことが感じられる。恐ろしい試練をへて、心ある人間はみな、どうすれば断片と化したものを拾いあげ、世界を望ましい姿につくり直すことができるだろうかと自問している。ほら、この前、ジョン・メイスフィールドの劇の序文にこんな言葉を見つけたんだ。『人間の真実と歓喜は神聖なものであって、軽々しくあざわらうべきものではない。人生と美をぞんざいにする者はいつの世をみても暴食家、不精者、死の道を歩む愚者である』じつは、わたしは身の毛もよだつ過去数年間、店のなかに座りこみながら真剣に考えていた。ウォルト・ホイットマンは南北戦争の時期に短い詩を書いている。『戦きよろめいた年よ』とウォルトは呼びかける。『わたしは挫けた者の冷たい挽歌と、陰鬱な敗北の聖歌が歌えるすべを学びとらねばならないのか』――わたしは夜中にこの店のなかに座りこんで棚を見わたし、男と女の希望、優しさ、そして夢を詰め込んだすばらしい本を眺め、もしかするとこの本はすべてまちがっていて、信用にあたいしない敗北者ではないかと思った。世界はいまだに狂乱の渦巻く場に過ぎないのではないかと思った。わたしはウォルト・ホイットマンがいなかったら気が狂っていただろうと思う。ブリトリング氏じゃないが――ウォルトは『本質を見抜いていた』男だ。(註 H・G・ウエルズは「ブリトリング氏、本質を見抜く」という小説を書いている)

 『いつの世をみても暴食家、不精者、死の道を歩む愚者』――うむ、まさに死の道だな。ドイツの軍人は不精者じゃなかったが、暴食家で愚かさをN乗した痴れ者だった。彼らが歩んだ死の道を見てごらん! それから他の人々が歩んだ死の道も。貧民窟に刑務所に精神病院をみてごらん――

 そんな恐ろしい時に、ここでのうのうと生きている自分の存在をどうやったら正当化できるだろうか、とわたしはよく考えた。多くの人が自分のせいでもないのに苦しみ死んでいくときに、いったいどんな権利があってわたしは静かな本屋のなかにこっそり逃れているのか。わたしは医療部隊に参加しようとしたが、医学的な訓練は受けてないし、熟練した医者でもないかぎりわたしのような年の男はいらないそうだ」

 「お気持ちはわかります」ティタニアは驚くほどの理解を示していった。「なんのお手伝いもできない女の子のなかにだって、ただサムブラウン・ベルトつきのかわいい制服を着ていることに飽き飽きしている人が大勢いるって考えたことはありません?」

 「そうだな」とロジャーがいった。「時代が悪かったのだ。戦争がわたしの目指していたものに異議を唱え否定したのだ。わたしの気持はとても言葉にはできないよ。自分でもよくわからないのだから。あの気高いお人好し、ヘンリー・フォードが和平交渉の船旅を組織したことがあったね。たぶんあの時、彼が感じたものとおなじものを感じながら、わたしもときどき思ったものだ――戦争を止めさせるためならどんなに愚かなことでもやってやるぞ、とね。冷笑的で、残忍で、抜け目のない人間ばかりの世界に、ヘンリーのようなとことん単純で希望を持っている人間がいるとは驚くべきことだ。お人好しだとみんなはいう。だが、わたしはお人好し万歳といいたい。あえていえば、十二使徒だってほとんどみんなお人好しだった――もしかしたら彼らは自分たちのことをボルシェヴィキと呼んでいたかもしれない」

 ティタニアはボルシェヴィキのことを漠然としか知らなかったが、新聞の漫画はすくなからず見ていた。

 「ユダはボルシェヴィキだったと思うわ」彼女は無邪気にいった。

 「ああ、それにジョージ三世もベンジャミン・フランクリンをボルシェヴィキと呼んだだろう」ロジャーは切り返した。「やっかいなことに真実と嘘は白黒はっきり分かれて差し出されるわけじゃない――真実とフン真実(註 ドイツ兵のことをフンといった。フン真実は同時に反真実のしゃれになっている)と戦時中に冗談めかしていったものだ。わたしには真実が地上から消えてしまったのではないかと思えることがときどきある」彼は苦々しくいった。「ほかのものとおなじように、それも政府からの配給品だったのだ。わたしは新聞に書いてあることの半分は信じないようにした。世界は激高してみずからをずたずたに引き裂こうとしているように思えた。残忍でばかばかしい現実をありのままに直視し、それを描く勇気のある者はほとんど一人もいなかった。暴食家、不精者、愚者が拍手喝采し、勇敢で素朴な人々が地獄の恐怖のなかを歩んでいった。家にこもっているだけの詩人たちは、それを栄光と犠牲のきれいな叙情詩に変えてしまった。彼らのなかで真実を語ったのはおそらく片手で数えられる程度だろう。サスーンは読んだことがあるかね? あるいはラツコーの『戦争のなかの人間』は? あまりにも真実を描きすぎて政府が発禁処分にした本だよ。ふん! 真実まで配給品扱いするとはな!」

 彼はパイプをかかとにこつこつと打ちつけて灰を出した。青い目はいわばいちずな真剣さに輝いていた。

 「だが、わたしが思うに、世界はもうすぐ戦争の真実を知るだろう。わたしたちはこの狂気に終止符を打つんだ。それは容易なことじゃない。今は、ドイツが崩壊したことに酔いしれて、だれもが新たなしあわせを感じ、歓喜している。だがね、ほんとうの平和が来るのは、これからずっと先のことだ。文明という織物を切れ切れに引き裂いてしまったのだもの、それを元通りに縫い直すには時間がかかる。ほら、学校にむかって通りを歩くあの子供たちを見てごらん。平和は彼らの手のうちにある。彼らが学校で戦争こそ人類が逃れることができないもっとも忌むべき疫病であり、人間精神の美しい活動をことごとく汚し、冒涜するということを学べば、そのときは未来にいくばくかの希望がもてるかもしれない。しかし賭けてもいいが、彼らが教えこまれるのは、戦争が栄光に満ちた、崇高な犠牲であるという考え方だよ。

 塹壕を飛び出して突撃する神々しい狂気について詩を書く人は、たいてい塹壕の泥だらけの踏み板からはるかに遠い場所でペンをインクに浸している。わたしたちがどれほど現実直視をいやがるか、それはもうおかしくて笑いたくなるくらいだ。以前、わたしの知り合いに毎日八時十三分の列車で町に行く通勤者がいた。でも彼はそれを七時三十七分の列車だというのだ。そのほうが勤勉な人間になった感じがするからだそうだ」

 遅刻しそうな腕白小僧が急いで学校に行くのをロジャーが眺めているあいだ沈黙がつづいた。

 「将来、戦争が二度と起きないように、目覚めているあいだにあらゆる努力をおこたらないと誓わない人は、人類にたいする裏切り者だといえるだろう」

 「それに反対する人はだれもいないと思います」とティタニアはいった。「でもわたしは思うんです、今度の戦争には心底ぞっとさせられたけれど、同時にそれはとても名誉に満ちたものだったって。わたしも出征した人をたくさん知っています。みんな、戦地でなにとむきあうことになるのか、よくわかっていました。でも正しい大義のためだと信じ、よろこんで謙虚に出かけていったんです」

 「それほど正しい大義なら何百万もの犠牲者を必要とはしない」とロジャーは重々しくいった。「そこに恐るべき崇高さがあることはわたしにもわからないことはないんだよ。しかし哀れな人間にそんな犠牲を払ってまで崇高であることを要求するのはおかしい。そこがいちばん痛々しい悲劇だな。ドイツ人たちも、戦争をはじめ、世界にこの不幸を押しつけはじめたとき、崇高な大義にむかって進んでいるのだと考えていたんじゃないのかね? 彼らは一世代のあいだ、そう信じるように教育されたんだ。それが戦争の恐ろしい催眠状態、凶暴な群衆的衝動、思い上がった国民精神、自分の所有するものをほかのなによりも崇めさせる人間の本能的な愚かさなのだ。わたしもみんなとおなじように愛国的な誇りに身を震わせ、叫び声をあげたりした。音楽や旗や足並み合わせて行進する兵士にみんなが魅了されたように、わたしも魅了された。しかしそれから家に帰って、わたしは自分の魂からこの悪の本能を根絶やしにしようと誓ったのだ。神よ、わたしたちを助けたまえ――世界を愛し、人類を愛しよう――自分の国を愛するだけでなく! だからわたしは講和会議でわが国が担う役割に非常に関心を持っているのだ。そこでわが国が標榜する立場は『アメリカはいちばん最後』だ! アメリカ万歳、とわたしは叫ぶよ。アメリカは『利己的な目的をなに一つ持たない』ノー・アックス・トゥ・グラインド唯一の国家だろうからね。あるのは『平和の時代を築こう』パックス・トゥ・グラインドという気持ちだけだ!」

 その議論はティタニアのおおらかな心にも納得のいくもので、あわれな書店主の苦悩にみちた熱弁に失望したり、おびえたりすることはなかった。彼女は相手が人にはいえない剣呑な思いを胸からはき出しているのだと賢く推察した。不思議なことだが、彼女は精神が持ちうる最高の、そしてもっともたぐいまれな資質――寛容を学んでいたのだ。

 「自分の国を愛さずにはいられないわ」と彼女はいった。

 「なかに入ろう」彼はそれに応えていった。「ここじゃ風邪をひいてしまう。戦争の本を集めたアルコーヴを見せてあげるよ」

 「もちろん自分の国は愛さずにはいられない」と彼はつけ加えた。「わたしは祖国を愛しているからこそ、この国に新しい時代を切り開く先達となってほしいのだ。わが国は戦争で犠牲を払うことがもっともすくなかった。だから平和のために最大の犠牲を払うことをいやがってはいけない。わたしとしては」と彼は笑いながらいった。「共和党の連中全員を犠牲に祭りあげたい気分だ」

 「どうして戦争がばかげているとおっしゃるのかしら」とティタニアがいった。「わたしたちはドイツを負かさなければならなかったんです。さもないと文明はどうなっていたでしょう?」

 「ドイツを負かさなければならなかったというのは、その通り。しかしそのためにわたしたちは自分自身を負かさなければならなかった。その点がばかばかしいのだ。講和会議が軌道に乗ったらまっさきに気がつくと思うが、ドイツを法にかなったやり方で罰するには、まずドイツが立ち直れるよう手を貸さなければならない。わたしたちはドイツに食料を与え、商売をするのを認めてやらなければ、ドイツは賠償金を払うことができない――わたしたちがドイツの都市の治安を維持してやらなければ、革命が全土を燃やしつくすだろう――とどのつまり人間が史上最悪の戦争をたたかい、名状しがたい恐怖にたえたのは、敵を元気になるまで看病するという特権のためだったのさ。それがばかばかしくなくてなんだというのだ? ドイツのような偉大な国家が正気を失うとこんなことが起きる。

 さて、われわれはひどく込み入った問題にぶつかっている。わたしにとっての唯一の気休めは、世界の正気を再建するにあたり、本屋がだれにも負けないくらい有用だということだ。わたしにどんな貢献ができるだろうと悩んでいるとき、大好きな詩人の作品のなかにこんな二行を見つけて励まされたよ。昔の詩人ジョージ・ハーバートがこういっている。

 謙虚と綯い交ぜられた ほんの僅かの誇りは、

 熱狂をも 無気力をも ともに癒してくれる。

 確かに古本屋はごくごく卑しい職業だが、すくなくともわたしの想像力のなかではそこに一抹の栄光が綯い交ぜられている。いいかい、本には人間の思いや夢、希望や努力など朽ちることのないあらゆる要素が詰まっている。人は人生がすばらしく価値あるものであることを、たいてい本を読んで知るのだ。わたしはミルトンの『アレオパジティカ』を読むまで人間精神の偉大さ、屈服することなき魂の威厳に気がつかなかった。烈々火を吐く怒りを読むと、ミルトンと同類であるというだけで凡夫の気持ちも高揚する。書物は人類が残した不滅の足跡、いつくしむべき価値あるほとんどのものの父であり母なのだ。よい本を行きわたらせ、肥沃な精神の土壌にその種を植え、理解しあうことと、人生や美を大切にすることを教えひろめる、これは人間にとって充分すぎるくらい立派な使命ではないかね? 本屋こそ正真正銘の奉真勇夫(註 「天路歴程」中の人物)なのだ。

 「ここが戦争のアルコーヴだよ」と彼はつづけた。「先の大戦から生まれたほんとうにいい本がここに積み上げられている。人間がこれらの本を心して読むくらい分別があるなら、二度と今回のような混乱に陥ることはないだろう。印刷屋のインクはここ何年ものあいだ火薬とつばぜり合いを演じてきた。インクはある意味では不利な条件を背負っている。火薬は人間を吹き飛ばすのに一秒の半分もあればいいが、本の場合は二十年かかるかも知れないからね。しかし火薬は犠牲者とともに自分も消滅するが、本は何世紀も爆発しつづける。たとえばハーディーの『覇者たち』だ。あの本を読むと精神を吹き飛ばされるような気がするだろう。息が止まり、不快さに吐き気を催す――真に純粋な知性が頭のなかに沁み通って来るというのは、まったくもって心地のよいものではないな! それは痛みをともなうものだ! あの本には地上から戦争を一掃してしまうくらいの炸薬が詰まっている。しかし燃えるのがおそい導火線がくっついているのだ。あれはまだほんとうに爆発はしていない。おそらくあと五十年たっても爆発しないだろう。

 今回の戦争で、本がどんな役割を果たしたか考えてごらん。どこの政府も最初にはじめたことは――本を出すことだ! 青書、黄書、白書、赤書――黒書をのぞいてあらゆる色の本が出た。ベルリンには黒書こそふさわしかっただろうに。ともかく政府は、鉄砲や軍隊といったものは、本を味方につけてはじめて有効だということを知っていたのだ。本はアメリカに参戦をうながすにあたって、ほかのなにものにも負けないくらい力があった。ドイツで出た本のいくつかは皇帝を退位に追いやった――『われ、告発す』、ミュロン博士の格調高い怒りの書『ヨーロッパの破壊者』、そしてリヒノウスキー(註 イギリスに駐在していたドイツの外交官)の個人的なメモはただ真実を述べているというだけでドイツを根本から揺すぶった。ほら、『戦争のなかの人間』がある。たしか作者はハンガリーの士官で、この本に『友と敵へ』という気高い献辞を添えている。こっちにはフランスの本が何冊かある――あの民族の明晰で情熱的な知性が残酷なアイロニーとともに火のように燃えている。ロマン・ロランがスイスに亡命しているときに書いた『戦いを超えて』。バルビュスの恐るべき『砲火』。デュアメルの苦渋に満ちた『文明』。ブールジェの奇妙に魅力的な『死の意味』。さらにイギリスから生まれた崇高な作品もある。『武器を取る学徒』、『天上の樹』、バートランド・ラッセルの『人間はなぜ戦うか』――わたしはいつか彼に『人間はなぜ監禁されるのか』を書いてほしいと思っている。知っているだろうが、彼は反戦を唱えて投獄されているからね。それから群を抜いて感動的な作品の一つ――西部戦線で殺された温和で感受性のするどいオックスフォード大学の若いチューターが書いた『アーサー・ヒースの手紙』だ。あれは読まなければいけないよ。あれを読むとイギリス側にまったく敵意がなかったことがわかるんだ。ヒースと友達は入隊する前夜を彼らが愛するドイツの歌を歌って明かしたんだ。いはば古き、友好的な、喜びに満ちた人生への決別として。そう、戦争というのはそういうことをする――アーサー・ヒースのような立派な人間を消してしまうんだ。あれは読んでほしいな。そのあとはフィリップ・ギブズやローズ・ディッキンソンや若い詩人をみんな読まずにはいられなくなるだろう。もちろんウェルズはとっくに読んでいるね。読んでない人はいないだろうが」

 「アメリカ人はどうなんです? 戦争について価値のあることを書いていませんか?」

 「この本にはみっちり肉がついていて、哲学的なすじが入っている」ロジャーはパイプに火をつけ直しながらいった。彼は「ラティマー教授の巡礼」を棚から引き出した。「この本の一節に印をつけておいたんだが――ええと、どんな内容だったかな?――ああ、ここにあったぞ!

 『新聞編集者に聞き取り調査をすれば、大多数が戦争は悪であると考えていることがきっとわかるだろう。しかし大都会のしゃれた教会に勤める牧師を調査すると……』

 「いや、まさしくその通りだ! ほとんどの良識ある人々にとって教会は自殺したも同然だよ――『ラティマー教授』にはもう一つ、皿洗いの哲学的価値を指摘したすてきな一節がある。ラティマー教授の話を聞くと意見の一致するところが多くて、いつかこの店に立ち寄ってもらいたいものだと思っているくらいなんだよ。ぜひ会ってみたいものだ。アメリカの詩人について言えば、エドウィン・ロビンソンは読まなければいけない――」

 書店主の独白はいつ果てるとも知れなかったが、ちょうどそのときヘレンが台所からあらわれた。

 「ロジャーったら!」彼女は大声を出した。「ずっと聞いていたけど、あなたのおしゃべり、いつまでつづくのかしら。お嬢さんに文化講演会でも開いているの? 震えあがらせて本の仕事を辞めさせたがっているみたいよ」

 ロジャーはいささかばつが悪そうだった。「いや、なに、書籍業の原則をいくつか説明していただけだよ――」

 「とてもおもしろかったわ、ほんとうに」ティタニアは明るくいった。青いチェックのエプロンを着て、まるまるとした腕を肘まで粉まみれにしたミセス・ミフリンは彼女にむかって片目をつぶって見せた――あるいは女性にできるもっとも目くばせに近いものをやって見せた(目くばせを受けた男に聞いてみるとよい)。

 「ミスタ・ミフリンは商売のことですごく落ち込むことがあるとね」と彼女はいった。「いつもこんな理想高い考え方にすがりつくの。牧師のつぎに割りの悪い職業についたと思っているくせに、それを自分から隠そうとして一所懸命なのよ」

 「ミス・ティタニアの前でばらすのはまずいと思うがなあ」ロジャーが笑いながらいったので、ティタニアはこれが夫婦間の冗談に過ぎないことがわかった。

 「でも嘘じゃないんですよ」と彼女は訴えた。「ほんとうにお話は楽しいわ。『ヨーロッパの和解者』を書いたラティマー教授のこととか、いろいろなことを教えてもらっていたんです。お客さんが来て中断したらいやだなって思っていたんです」

 「それなら心配におよばないわ」とヘレンがいった。「朝早くに客が来ることはめったにないから」彼女は台所にもどった。

 「さて、ミス・ティタニア」ロジャーが話を再開した。「わたしの言いたいことはおわかりだろう。わたしは人々に本屋にたいするまったく新しい考え方を与えたいのだ。熱狂と無気力をともに癒してくれるほんの僅かの誇り、それこそが発電所のように真実と美を放つ場所、つまり本屋の命じゃないかと、わたしは思う。書物はけっして死物ではない。伝説の竜の歯のように命をおびていて、土に植えれば兵士を生み出す可能性だってある。ベルンハルディがそうじゃないかね? (註 ドイツの軍人フリードリヒ・フォン・ベルンハルディは当時の政権を批判した「現代戦争論」を書いた)コーンパイプ・クラブの友人のなかには、本は単なる商品だという人がいる。たわけたことをショー!」

 「バーナード・ショーはあまり読んでいませんわ」とティタニアがいった。

 「本が人を追いかけ、結局その人を捕まえてしまうことに気がついたことがあるかね? 本はフランシス・トンプソンの詩に出てくる猟犬みたいに追いかけてくる。本は獲物のことを知りつくしているんだ! 『ヘンリー・アダムズの教育』を見てごらん! あの本が今年の冬、どれほど思慮深い人々を追いつめただろう。それから『黙示録の四騎士』――あれが読書人のあいだを駆けめぐっているのはきみも知っているね。実際、本がものすごい勢いで人を追いまわすさまは、わたしが知るかぎりもっとも奇怪な現象の一つだな――どこまでも追跡し、隅に追い込んで、無理矢理自分を読ませてしまう。わたしも古い妙な本に今まで何年も追いかけられているんだ。『ジョン・バンクル氏の生活と意見』という本でね、さんざん逃げまわってきたのだが、あいつは折を見てひょいと頭をもたげる。いつか捕まえられ、読まされることになるだろう。『年収一万ポンド』もおなじようにわたしをつけてきて、とうとう降参させられた。ある種の本のずるがしこさは言葉では表現できないね。追跡を振り切ったと思ったら、ある日客が何気ない様子でひょっこりやってきて話をはじめる。するとその客が知らず知らずのうちに本という名の運命の仲介人を演じていることがわかるのだ。ここにときどきやってくる年のいった船長がいる。まさにマリアット船長の小説から飛び出したような人物だ。わたしは彼に一種の呪いをかけられてしまったよ。きっと死ぬまでに『ピーター・シンプル』を読むことになるだろう。なにせ老船長酷愛の書だからね。そんなこんなでこの店は『幽霊書店』というのさ。わたしが読んでいない本の幽霊にとりつかれているという意味でね。かわいそうな精霊たちがそわそわとわたしのまわりをうろついている。霊をしずめる方法は一つしかない。つまりそれを読んでやることだ」

 「よくわかりますわ」ティタニアがいった。「わたしはバーナード・ショーをあまり読んでないけど、いつか読まなければならないような気がします。どこに行っても待ちかまえていて、わたしをいじめるの。それからH・G・ウエルズにひたすらおびえている人もたくさん知っています。あの作家の本て、しょっちゅう出版されるけど、そのたびに彼らは本を読みおわるまで気が狂ったようになるんです」

 ロジャーは笑った。「なかにはそのために『ニュー・リパブリック』を予約購読した人もいるよ」(註 「ニュー・リパブリック」はウエルズが寄稿していたアメリカの雑誌)

 「でも幽霊書店といえば、どうしてあのオリバー・クロムウェルの本に格別な関心をお持ちなんです?」

 「そうそう、思い出させてくれてありがとう。あれは棚にもどしておかなければならないな」彼は本を取りに居間に駆けこんだのだが、ちょうどそのとき、ドアのベルが鳴った。客が入ってきて、一方的なおしゃべりは当分中断することになった。

第七章 オーブリー、間借りする

 ミスタ・オーブリー・ギルバートがこの作品の主人公としてけっして理想的な青年でないことは作者も承知している。この時期、主役の青年が左の袖になぜ金の山形袖章をつけていないのか。これには少々説明が必要だろう。じつを言えば、われらがグレイ・マター広告代理店の若き社員は偏平足フラット・フィートを理由に徴兵局と徴兵委員会から入隊を拒否されていたのである。しかし作者はこの処分に異議を唱えなければならない。足が扁平だからといって彼の見かけに問題があるわけではないし、素直な青年にできることならなんでもこなす体力もあるのだ。軍が、彼がいうように「にべもなくフラット入隊を拒否した」とき、彼は広報委員会に入って、一年以上謎めいた活動に従事し、それがユナイテッド・プレスによる休戦協定締結までつづいた。今はもうだれも覚えてないちょっとした判断ミスが彼の側にもあったのだが、なにしろ惜しむらくはドイツの外交使節が浮かれすぎた特派員に調子を合わせず、ぐずぐずしていたものだから、戦争最後の三日間は彼の積極的な貢献をともなうことなく過ぎ去った。(註 ユナイテッド・プレスは休戦協定締結を誤ってその四日前に報じた)十一月十二日は当然英気を養い、そのあとはふたたびグレイ・マター広告代理店に吸収された。同社とは数年にわたって関係があり、彼の堅実で陽気な性格は高く評価されていたのである。いつもの行動範囲をはるかに逸脱してロジャー・ミフリンを訪れたのは、戦後のビジネスを盛り上げる活動の真っ最中のことだった。こうしたことはもっと早くに説明しておいたほうがよかったかもしれない。

 ともかくオーブリーは土曜日の朝、ティタニアが店頭本の箱からほこりを払いはじめたころ、世界征服達成とはおよそ正反対の気分で目を覚ました。半ドンの日だったので、事務所に行かなくても一向に気はとがめなかった。母親のようにかいがいしい宿のおかみさんはコーヒーとスクランブルエッグを持ってきて、医者を呼び、傷の手当てを受けるよういいはった。数針縫ったあと、彼は昼寝をした。午後起きたとき、頭痛は相変わらずひどかったが、気分はましになっていた。部屋着を身につけ、椅子に腰掛けた。家財道具といえばパイプ立てと灰皿とオー・ヘンリーの小説一そろいくらいしかない質素な部屋のなかで、彼は気を紛らせようとお気に入りの一冊を取り上げた。ミスタ・ギルバートがいわゆる「文学青年」でないことはすでに話した。彼が読むのはほとんどが新聞売り場に置いてあるような本と、広告業者むけの幼稚な雑誌「プリンターズ・インク」だった。彼の大好きな気晴らしは広告クラブで昼食をとり、そこで魅入られたように広告用パンフレットやポスター、「あなたの話をボールド体で」(註 「ずうずうしく語れ」という意味とかけてある)などといったタイトルの小冊子を読みあさることである。彼はふだん「ラルフ・ウォルド・エマソンよりパッカードのコピーを書いたやつのほうがてんで上だよ」などと話していた。しかしそれもこの青年がオー・ヘンリーを愛読することに免じて大目に見てやらなければならない。彼は、ほかの大勢のしあわせな人々が気づいたように、オー・ヘンリーが時代をこえた、類まれな天才ストーリー・テラーの一人であることを知っていた。どれほど疲れていても、どれほど気が滅入っていても、どれほど意気消沈していても、このキャバラビアン・ナイト(註 キャバラビアンとはタクシーのキャブ、キャバレー、アラビアンをかけた造語)の名手はいつも喜びを与えてくれる。「ディケンズの『クリスマス・ストーリーズ』なんてくそくらえだ」オーブリーはブルックリンでの冒険を思い出していった。「オー・ヘンリーの『賢者の贈り物』のほうがディックのどの作品よりずっといい。彼が『ローリング・ストーンズ』(註 オー・ヘンリーの最後の短編集)のクリスマス・ストーリーを完成させないで死んだのは残念なことだ! アーヴィン・コブとかエドナ・ファーバーとか大物作家が結末を書いてくれたらいいのに。自分が編集者だったら、だれかを雇ってあの話を完成させるんだがな。あんなにいい物語を中途半端なままで投げ出しておくなんて犯罪だよ」

 彼がたばこの煙にやわらかく包まれて座っていたとき、宿のおかみさんが朝刊を持って入ってきた。

 「タイムズが読みたいんじゃないかと思ったんだよ、ミスタ・ギルバート」と彼女はいった。「その身体じゃ、外に買いに出るわけにもいかないしね。どうやら大統領は水曜日に船に乗るようだよ」

 オーブリーはおもしろいものを見わける熟練した眼で記事を読んでいった。それから、つい習慣で、広告ページを注意深く見わたした。求人広告欄のひとつの記事が彼の目に飛び込んできた。

 求む――オクタゴン・ホテルはシェフ三名、経験豊かなコック五名、ウエイター二十名を臨時募集する。申し込み受付はシェフの事務所にて火曜日午後十一時まで。

 「ははあ」と彼は思った。「たぶんミスタ・ウィルソンの料理人がジョージ・ワシントン号に乗っていってしまうので、そのかわりを探しているんだな。大統領の船旅に厨房のメンバーが選ばれたとは、オクタゴンも鼻高々だな。なんだってまた、本格的に紙面を使ってそのことを強調しないんだろう? ぼくがそのコピーをつくって載せてやってもいいんだが」

 急に彼はあることを思い出し、昨日の晩、外套を放り投げた椅子のほうに歩み寄った。ポケットから表紙だけになったカーライルの『クロムウェル伝』を取り出し、じっと見つめた。

 「いったいこの本にどういう呪いがかかっているんだろう? 昨日の晩、あの男がぼくをつけてきたのもおかしな話だが――そのあと薬屋でこいつを見つけ、頭をがつんとやられたのも訳がわからない。あの近所は女の子が働く場所として安全なところなんだろうか?」

 彼は頭の痛さも忘れて部屋のなかを行ったり来たりした。

 「警察に知らせたほうがいいだろうか。悪い予感がする。でも自分で解決してみたい気もするな。あの娘を危険から救ってやったら、チャップマン老人がぐんと好意的になるだろう――人さらいの一味のことも聞いたことがあるし――うん、どうもこの成行きは気に入らない。なにしろあの本屋は半分いかれている。広告を信じていないだなんて! チャップマンが娘をあんなところに預けるとは、考えただけで――」

 広告の委託業務よりもっと個人的でロマンチックなもののために、中世の遍歴の騎士を演じるという思いつきは、たまらなく魅力的だった。「今晩暗くなったらすぐにブルックリンに忍び込もう。あの通りのどこかに部屋を借りることができるはずだ。そこから本屋をこっそり観察して、あの店にとりついているものの正体をつきとめるんだ。キャンプでよく使った二十二口径の古い銃があったな。あれを持っていくとしよう。それにワイントラウブの店のことももっと知りたい。ヘア・ワイントラウブの顔ときたら、まったくいけ好かないや。それにしても、正直な話、カーライルみたいなむかしの作家がこんなにおもしろいことに関係しているとは思ってもいなかった」

 彼は手提げかばんに荷物をつめながら冒険に胸が躍った。パジャマ、ヘアブラシ、歯ブラシ、練り歯磨き――(「チャイニーズ・ペースト社がこの冒険に彼らの歯磨きチューブを持っていくことを知ったら、大喜びするんじゃないかな!」)――二十二口径の回転式連発銃、リス撃ちによく使われる小さな緑の弾薬の箱、オー・ヘンリーの本、安全かみそりと付属品、そして便箋一冊。すくなくとも六つは全国的に宣伝されている製品だぞ、とかばんの中身を数えあげながら思った。かばんに鍵をかけ、身支度して昼ごはんを食べに下におりた。昼ごはんのあとは、依然として頭痛がひどかったので横になってひと休みをした。しかし眠ることはできなかった。ティタニア・チャップマンの青い目と物怖じしない小柄な姿が、彼と眠りの間に割って入ってきたからである。彼女の身の上に危険が迫っているという確信は振り払うことができなかった。彼は何度も何度も時計を見ては、歩みののろい夕闇を非難した。四時半に彼は地下鉄にむかった。三十三丁目の通りを半分ほど歩いたとき、はっと思いついたことがあった。彼は自分の部屋にもどり、トランクからオペラグラスを取り出し、かばんのなかに入れた。

 ギッシング通りに着いたとき、あたりは青くたそがれていた。ワーズワース・アヴェニューとハズリット通りにはさまれたこの区画には奇妙な特徴がある。一方の側――幽霊書店がある側――の古い褐色砂岩の住居はほとんどが明るい、にぎやかな小店舗になっていた。ワーズワース・アヴェニューが尽きて、高架鉄道がはるか頭上を轟々とうなりながらカーブしてくるところにワイントラウブの薬局がたっていて、そこを発端に西側にはショーウィンドウが並び、夜のあいだもかがり火のように輝いている。デリカテッセンには調理肉や塩漬け肉、乾燥果実、チーズ、色鮮やかなジャムの瓶など、食欲をそそる雑多な品が並び、小さな婦人服の店には髪飾りをつけた蝋細工の豊満な半身像が飾られ、軽食堂の窓の外にはその日のメニューが印刷されて貼ってあった。フランス式焼肉料理店では焼き串にさされた鶏肉がシュッシュッと音をたてながら、石炭がばら色に燃える大きなオーブンの前で回転していた。花屋、たばこ屋、果物屋。ギリシャ菓子の店もあり、縞大理石のピカピカ光る大きなソーダ水売り場や、色つきガラスランプや、ココアを入れた銅の容器が並んでいた。文房具店は冬のバーゲンに備えてクリスマスカード、おもちゃ、カレンダーを所狭しと陳列し、クリスマスが近づくと毎年あらわれるスエード張りのキプリング、サーヴィス、オスカー・ワイルド、オマル・ハイヤームの小型本もどっさりあった――そうした質素だが楽しい商品のおかげでギッシング通りの西の歩道は、明かりがともるころ、にぎわいだ場所になるのである。どの店もクリスマス・セールにむけて飾りが施されていた。雑誌のクリスマス特別号がちょうど出たところで、その燃え立つような表紙が新聞雑誌の売店を輝かせていた。ブルックリンのこの区画は奇妙にフランス的な雰囲気を漂わせている。パリの小市民がつどう小さめの通りにいるような気になるのである。この人を引きつける活気にあふれた区画のまんなかに幽霊書店があった。オーブリーは明かりのともった本屋の窓と、店内の棚にずらりと並ぶ大量の本を見た。彼はなかに入りたいという強い誘惑を感じたが、なんだか気恥ずかしくもあり、それがいっそう秘密裡に行動する気持ちを強くした。本屋をこっそりと監視するという計画にはひそかに胸をときめかすものがあり、彼はいまだ知られざる新たな冒険に乗り出したような気がした。

 彼は通りの反対側を歩きつづけた。そちらは北の端、ワイントラウブの店の反対にある映画館を除いて、今も静かな茶色い正面が途切れることなくつづいている。こちら側の地階は、ほとんどが普通の住居のままで、そこにちらほらと仕立て屋、クリーニング屋、レースカーテン専門の洗濯屋(ブルックリンの人々は今でもレースのカーテンに固執している)などの小さな店が混じっている。かばんを運びながらオーブリーは映画館のまぶしい光の輪を通り抜けた。「ターザンの帰還」を予告するポスターには「創世記」第三章の場面でイヴに運動着を着せたような絵が描かれていた。「シドニー・ドルー夫妻の作品を同時上映」とも書いてあった。

 その区画のやや先の応接間の窓に「空き部屋あり」という掲示がかかっているのが見えた。その建物はほぼ本屋の反対側に位置していた。さっそく高い踏み段をあがって正面ドアのベルを鳴らした。

 ほどなく淡い黄褐色の肌をした、よく「アディ」などと呼ばれるような黒人の女の子があらわれた。「部屋を借りられるかい?」と彼は尋ねた。「知らないわ。ミセス・シラーに聞きなさいよ」彼女はそういったが、いやな顔はしていなかった。しつけの悪いお手伝いにありがちな中途半端な応対で、彼を招き入れはしなかったものの、うとましく思っているわけでもないようで、ドアを閉ざさずそのままむこうへ行ってしまった。

 オーブリーは玄関に入り、ドアを閉めた。巨大な鏡に、薄いチーズ色をしたガス灯の炎が、離れたところからちらちらと映りこんでいた。壁には大きな方形石をデザインした灰色の壁紙が貼られ、ランドシア(註 イギリスの画家)の銅板画がかかっている。例によって電話のメモが、例のごとくミセス・J・F・スミスに宛てて(彼女はどこの下宿屋にも住んでいる)鏡の縁に差し込んであった。「ミセス・スミス、ストックトン6771に連絡してください」と書いてある。絨毯敷きの階段には、古い立派なマホガニーの手すりがついていて、登った先は薄闇に包まれていた。下宿暮らしにすっかり慣れているオーブリーは本能的に階段の四番目、九番目、十番目、そして十四番目の段がきしるだろうと思った。ほんのりと麝香のような匂いが暖かい、よどんだ空気を甘くしていた。だれかがガス灯でマシュマロをあぶっているのだと彼は推測した。この家の浴槽の上には「湯船はあなたが使いたいと思う状態にして出てください」と書かれた張り紙があるだろうということもちゃんとわかっていた。ロジャー・ミフリンなら玄関をじっくり見まわしたあと、この家のだれかがきっとラビ・タゴールの詩を読んでいる、といったかもしれないが、オーブリーはそんな揶揄嘲弄を口にするタイプではなかった。

 ミセス・シラーは小さなパグを従えて地階から階段をのぼってきた。彼女はやさしそうな太った女で、腋の下がはちきれそうにふくらんでいた。彼女は愛想がよかった。パグはオーブリーの膝にじゃれついた。

 「やめなさい、トレジャー!」とミセス・シラーはいった。

 「部屋を借りられますか?」オーブリーはごく丁寧にたずねた。

 「三階の正面にひと部屋だけ空いているわ。寝たばこはしないでしょうね? この前いた若い人ったら、三枚もうちのシーツに穴をあけて――」

 オーブリーは彼女を安心させた。

 「食事は出ないわよ」

 「それはかまいません」とオーブリーはいった。「結構です」

 「一週間五ドル」

 「部屋を見てもいいですか?」

 ミセス・シラーはガスの炎を大きくし、先にたって階段をのぼりはじめた。トレジャーは彼女の横を飛び跳ねるようにして一段一段をのぼった。六本の足が同時に動いて階段をのぼる様子はオーブリーをおかしがらせた。四番目、九番目、十番目、十四番目の段は予想通りきしんだ。二階にあがるとドアがあり、その上の小さな窓からオレンジ色の光があふれていた。通路のガス灯の火を大きくしなくてすんだことを、ミセス・シラーは心のなかで喜んだ。その小さな窓の下、ドアの後ろから、だれかがお風呂に入っていて、水をはね散らかす大きな音が聞こえた。彼はそれがミセス・J・F・スミスではないかと失敬なことを考えた。ともかくそれは下宿生活に慣れた人で、風呂に入る時間はほかの住人が夕ご飯の支度をしたり、帰宅後のシャワーを浴びて温水ボイラーが空になる前の、午後五時半くらいが最適であることを知っている人だと彼は確信した。

 彼らは階段をもうひとのぼりした。部屋は小さく、三階正面側の半分を占めているにすぎない。大きな窓が通りに面し、その反対側の本屋とほかの家々がすぐ見わたせた。化粧台が大きな棚のなかにひっそりとつくりつけられていた。炉棚の上にはよく見かける絵――通常は四階の奥の部屋に置いてあるものだが――若い女性が下品な男の子に靴を磨いてもらっている写真がかかっていた。

 オーブリーは喜んだ。「これなら文句ありません。一週間分の家賃を先払いします」

 ミセス・シラーは契約成立の早さに面食らったようだった。彼女は新しい下宿人の受け入れをもうちょっといろいろな話――天候のこととか、お手伝いさんがなかなか見つからないこととか、お茶の葉を洗面台に流して捨てる若い女の下宿人のこととか――をして厳粛なものにしたかった。こうした世間話は一見漫然と交わされるようだが、じつはとても大切な役目がある。それによって身を守るすべのない下宿のおかみさんは、彼女にたかろうとする見知らぬ人物の品定めができるのだ。彼女はまだこの紳士をよく見ていなかったし、名前さえ知らなかった。それなのに彼は一週間分の家賃を払い、もう部屋に落ち着いてしまったのである。

 オーブリーは彼女が躊躇している理由を察し、名刺をわたした。

 「結構ですわ、ミスタ・ギルバート。お手伝いの女の子にきれいなタオルと鍵を持たせますから」

 オーブリーは窓辺のゆり椅子に腰掛け、モスリンのカーテンを一方に寄せて留め、照明の輝くギッシング通りを眺めた。住まいを変えたことで彼の心は浮き立っていたが、愛らしいティタニアのすぐそばにいるというロマンチックな満足感は、無意味なことをしているのではないかという一抹の思いによって台無しにされていた。それは若者にとって負傷や死よりも恐ろしいものなのだ。幽霊書店の明るい窓がはっきりと見えたが、そこへ行く適当な理由がなにも思いつかなかった。しかもミス・チャップマンのそばにいることは、予想とはうらはらに、なんら心の慰めにならないことを彼は思い知った。彼女に会いたいという強い思いが彼を襲った。ガス灯を消し、パイプに火をつけてから窓をあけ、本屋の入り口にオペラグラスの焦点を合わせた。店がもどかしいほど間近に見えた。店の正面には平台、電球の下にはロジャーの掲示板が見え、そして一人か二人、特徴のない客が棚を丁寧にのぞいてまわっている。そのとき、なにかがシャツの第三ボタンの下で激しく飛び跳ねた。彼女がいる! 明るい虹色の小さなレンズのなかにティタニアの姿があった。白いVネックのブラウスに茶色のスカートをはいた天使のような存在は本を読んでいた。彼女が腕を伸ばすと腕時計がきらりと輝くのが見えた。彼女のまぶしい無心な顔、横から見た楽しげな頬と顎、それが拡大鏡で見たときのように驚くほどくっきりと見えた――「あんな娘が古本屋で働いているなんて!」彼は叫んだ。「まったく神を冒涜するようなものだ! チャップマンは気が狂ったにちがいない」

 彼はパジャマを取り出し、ベッドの上に投げ出した。歯ブラシとかみそりは化粧台の上におき、ヘアブラシとオー・ヘンリーは整理だんすの上に載せた。なかば真剣な、なかばふざけた気分で、彼は小さなリボルバーに弾を込めて尻ポケットに入れた。六時になったとき時計のねじを巻いた。これからなにをするのか、いまひとつはっきりしなかった。オペラグラスを握って窓辺で監視をつづけるのか、それとも通りに出てもっと近くで本屋を見張るべきか。冒険の興奮のせいで頭の傷のことはすっかり忘れ、身体に元気がみなぎっていた。マディソン・アヴェニューを離れるとき、彼はこの非常識な遠出の言い訳を考えた。ブルックリンで静かな週末を過ごせば、月曜日にボスに提出することになっているデインティビッツの広告コピーの原案を書きあげることができるだろう、と。しかしいざここに来てみると、とうていそんな退屈な仕事をやる気にはなれなかった。「デインティビッツ・タピオカ」や「みんな大好きチャップマン・チップス」の「視線を釘づけにする」レイアウトなど落ち着いて考えている場合じゃない。この世でいちばん麗しいデインティエスト人がほんの数ヤード先にいるのだから。彼は世界の合法的な商業活動さえ止めてしまう若い女性の驚くべき力を、生まれてはじめてまざまざと感じた。彼は実際、便箋を取り出し、こう書きつけるところまではいったのだ。

 みんな大好きチャップマン・チップス

 秘密の製法で作られたこのおいしいチップスは、独特のぴりっとした味わいと香りのなかに、成長を助けるあらゆる栄養を詰めこんでいる。なにしろポテトは野菜の王様――

 しかしミス・ティタニアの顔が彼の手と頭のあいだに割り込んでくるのだ。この世界をチャップマン・チップスであふれさせたとしても、あの娘に危害が及ぶようなことがあればなんの意味があるだろう? 「この顔か、一千のチップスを戦いにおもむかせたのは?」(註 クリストファー・マーロー「ファウスト博士」の一節「この顔か、一千艘のシップスを戦いにおもむかせたのは」をもじって)そう彼はつぶやき、一瞬、オー・ヘンリーのかわりにオックスフォード版詞華集を持ってくればよかったと思った。

 ドアをノックする音がして、ミセス・シラーがあらわれた。「電話ですよ、ミスタ・ギルバート」

 「ぼくにですか?」オーブリーはあっけにとられていった。自分に電話が来るはずがない、と彼は思った。だれもここにいることを知らないのだから。

 「半時間ほど前にきた紳士と話がしたいというので、きっとあなたのことだろうと思ったんですけど」

 「名前を名乗りましたか?」

 「いいえ」

 オーブリーはつかの間、電話に出ないでやろうかと考えた。しかしそれではミセス・シラーに怪しまれると思い直した。彼は階段を駆けおり、電話のある所へむかった。それは正面玄関の階段の下だった。

 「もしもし」と彼はいった。

 「あんたが新しい下宿人かい?」声が――深い、がらがらした声がいった。

 「そうですが」

 「半時間前にかばん一つでやってきた紳士だね?」

 「そうだよ。あなたはだれなんですか?」

 「友人だよ。あんたのしあわせを願うものだ」

 「お初にお目にかかります、友人にしてしあわせを祈ってくれる方」オーブリーはにこやかにいった。

 「警告したかっただけだ。ギッシング通りにいると危ない目にあうぜ」

 「そうなのか?」オーブリーは鋭くいった。「きみはだれだ?」

 「友人さ」受話器が低くうなった。その声にはオーブリーの鼓膜に不愉快な振動を与える、ざらつくような低音の響きがあった。オーブリーは怒りがこみあげてきた。

 「いいか、友人ヘア・フロイント」彼はいった。「あんたが昨日の晩、橋の上で僕のしあわせを祈ってくれたやつなら、気をつけろ。お前の企みなどお見通しなんだ」

 沈黙が訪れた。それから相手は重々しく繰り返した。「わたしは友人だ。ギッシング通りにいると危ないぜ」ガチャッと音がして、相手は電話を切った。

 オーブリーはひどく困惑した。彼は部屋にもどると、電気もつけず窓際に座って、本屋を見ながらパイプをくゆらし考えた。

 なにやら得体の知れないことが起きつつあることは疑いの余地がなかった。彼はそれまで数日間の出来事を振り返った。

 本好きの友達がギッシング通りの本屋のことをはじめて教えてくれたのは月曜日のことだった。火曜日に彼はわざわざその本屋を訪れ、ミスタ・ミフリンと夕食をともにした。水曜日と木曜日は事務所でいそがしく働き、ブルックリンでデインティビッツの集中キャンペーンをひらくアイデアを思いついた。金曜日はミスタ・チャップマンと食事をし、それから一連の奇妙な出来事を経験した。彼はそれを箇条書きにした。

 (1)金曜日のタイムズ朝刊に載った「なくしもの」の広告。

 (2)エレベータのなかでなくしたはずの本を持っていたシェフ――そいつは火曜日の晩にオーブリーが本屋で見た男と同一人物だった。

 (3)ギッシング通りでふたたびシェフを見かける。

 (4)本屋に本がもどされる。

 (5)ミフリンは本は盗まれたといった。それならなぜ広告を出したり、また返却したりするのか?

 (6)本の表紙がつけかえられていた。

 (7)本来の表紙をワイントラウブの薬局で見つける。

 (8)橋の上での出来事。

 (9)「友人」からの電話――明らかにドイツ訛りがあった。

 エレベーターのなかでオクタゴンのシェフに話しかけたとき、相手が見せた怒りと恐れの表情を思い出した。先ほどの奇妙な脅迫電話が来るまで、橋の上での襲撃はたまたま物取りにやられたものと説明することができたが、今では本屋を訪ねたこととなにかしら関係があると結論せざるを得なかった。彼はまた、はっきりとはわからないが、ワイントラウブの薬局が事件に関わっているような気がした。本の表紙を薬局から持ち逃げしなければ襲われることはなかったのではないか? 彼はかばんから表紙を取り出して、もう一度調べた。無地の青い布張りで、背中には金文字で題名が刻印され、下のほうには「ロンドン チャップマン・アンド・ホール出版社」という文字が書かれている。背表紙の大きさから見て、あきらかに大部の本であるらしい。表紙の内側を見ると60という数字が赤鉛筆で記されている――これはロジャー・ミフリンが書き込んだ値段だろうと彼は思った。裏表紙の内側にはつぎのような符号が並んでいた――

 Vol.3 -- 166, 174, 210, 329, 349

 329 ff. cf. W. W.

 この記号は黒インクで、小さく丁寧に書かれていた。その下にはまったく筆跡の違う薄いすみれ色のインクで

 153 (3) 1, 2

と書かれていた。

 「どうやら本のページのようだな」とオーブリーは思った。「あの本を調べておいたほうがよさそうだ」

 彼は表紙をポケットにしまい、夕食を食べに外に出た。「この謎には三つの側面があるぞ」彼はみしみしとなる階段をおりながら思った。「本屋、オクタゴン、ワイントラウブの店。しかしあの本がすべてを解く鍵になりそうだ」

第八章 オーブリーは映画に行き、もっとドイツ語ができればと思う

 本屋からいくらも離れていないところに偉大な都市ミルウォーキーの名をいただいた小さなカフェテリアがあった。カウンターで食べ物を買い、平たい肘掛のついた椅子に座って食べる気持ちよい食堂のひとつである。オーブリーはスープ、コーヒー、ビーフ・シチュー、ブラン・マフィンを受け取り、窓際のあいた席に持って行った。彼は注意を半分通りにむけながら食事をした。通りの角にあたるその場所からはミフリンの店の前の舗道が見わたせた。シチューを半分ほどたいらげたころ、ロジャーが舗道に出てきて箱から本を片づけはじめた。

 夕ご飯のあとは「味はマイルド、気分は爽快」なたばこに火をつけ、椅子に座りながら、そばの放熱器の暖かさを心地よく感じていた。大きな黒猫が隣の椅子に寝そべっていた。ときどき客がやってきて注文をするたびに、サービスカウンターの上で丈夫な瀬戸物が陽気にカチャカチャと音を立てた。オーブリーは血管を通してくつろいだ気分が身体に広がりだすのを感じた。ギッシング通りは煌々と輝き、落ち着いたなかにも土曜日の夕方の活気がみなぎっていた。ブルックリンの古本屋にメロドラマじみた事件が起きようとしているなど、想像することじたいまったくばかげているような気がした。尻ポケットの銃はやたらにごつごつして感触が悪い。ささやかながらあたたかい夕食を食べたあとは、なんと事態が一変して見えることだろう! どんなに意志の固い理想主義者も冷酷な暗殺者も、詩を書いたり非道な計画を練るなら、夕ご飯の前にするがいい。食事という麻酔のあと、精神は安らぎのなかに沈み込み、ひたすら安逸を求めるようになる。ミルトンですら夕ご飯のすぐあとに「楽園喪失」の執筆に取りかかるという非人間的な精神力は持っていなかっただろう。オーブリーは自分の憂慮が思い過ごしに過ぎないのではないかと考えはじめた。彼は本屋に立ち寄って、ティタニアを映画に誘うことができたらどんなにすてきだろうと思った。

 人間の思いには不思議な力があるものだ! 心のなかにそんな考えがひらめいたとたん、ティタニアとミセス・ミフリンが本屋からあらわれ、食堂の前をさっそうと通り過ぎたのである。彼らは楽しげにおしゃべりをしながら笑っていた。ティタニアの顔は若さと生命力に輝き、彼が今までに見たどんな十ポイント・カスロン書体の組版より「視線を釘づけにする」ように思われた。彼はこよなく愛する広告技術の観点から彼女の顔のレイアウトに感嘆した。「空白のとり方が絶妙だ」と彼は思った。「あれでこそ中心的主題である目を引き立たせる。彼女の顔の造作は現代的な、ボールド体のべた組じゃない」彼は活版印刷に喩えながら考えた。「ほんのちょっとインテルを詰めた、フレンチ・オールド・スタイルのイタリック体に近い。22ポイントのボディに鋳込まれているんだろうな。チャップマン老人はなかなか腕のいい活字鋳造工だ。それは認めよう」

 彼はこの奇抜な比喩ににっこりとし、帽子と外套をつかむとカフェテリアを飛び出した。

 ミセス・ミフリンとティタニアはすぐ先のところで立ち止り、ショーウィンドウのしゃれた小型ボンネットを見ていた。オーブリーは通りをわたってつぎの角まで走り、ふたたび通りをわたると東側の歩道をもどりはじめた。地下鉄から出てきたふりをして彼らに会おうとしたのである。彼はベルギーのアルベール王がブリュッセルにふたたび舞いもどってきたときよりも興奮していた(註 アルベール王は1914年にドイツに占領された祖国を四年後奪還した)。外出してはしゃいでいる、はなやいだ様子の二人がおしゃべりをしながら彼のほうに近づいてきた。ヘレンは彼女といっしょにいると、ずっと若く見えた。「やなぎ色のタフタの裏地に、刺繍のついたスリッポンね」彼女はそういっていた。

 オーブリーは巧みに驚いたふりをしながら彼らのほうに進んでいった。

 「あら、どうしましょう!」ミセス・ミフリンがいった。「ミスタ・ギルバートがいらっしゃるわ。ロジャーに会いにいらしたの?」彼女はそうつけ加え、若者をいじめて楽しんだ。

 ティタニアは真心のこもった手を差し伸べた。オーブリーは校正係の必死のまなざしでオールド・スタイルのイタリック体をのぞき込んだが、こんなに早く彼に再会したことを苦々しく思っている容子はなかった。

 「そういうわけじゃないです」彼は苦しい言い訳をした。「みなさんに会いに来たんですよ。その――どうしていらっしゃるかと思って」

 ミセス・ミフリンは彼がかわいそうになった。「わたしたちはミスタ・ミフリンに店番をまかせて出てきたの。彼はなじみのお客さんとおしゃべりに忙しいところよ。いっしょに映画に行くのはどう?」

 「ええ、そうなさって」とティタニアがいった。「シドニー・ドルー夫妻の作品よ。あの二人、わたし大好きなの!」

 オーブリーが一も二もなく同意したのはいうまでもない。彼は一行のうちでいちばん街路側を歩かなければならなかったが、そこはティタニアの横であり、つまり喜びと義務が一致したのだった。

 「あのう、本屋の仕事はどうですか?」と彼は訊いた。

 「すごく楽しい!」と彼女は叫んだ。「でも本の名前をぜんぶ覚えるには、まだまだうんと時間がかかるわ。お客さんたらむずかしい質問をするんですもの! 今日の午後、女の人が来て、『無関心な話ブラーゼイ・テイル』はないかって言うの。それが『しるべのある山道ブレイズド・トレイル』のことだなんてわかるわけがないわ」

 「そのうち慣れるわよ」とミセス・ミフリンがいった。「みんな、ちょっと待って。薬局に寄るから」

 彼らはワイントラウブの薬局に入った。ミス・チャップマンがそばにいるので彼はすっかり有頂天だったが、薬屋がなんとなく奇妙な目つきで彼を見つめることには気がついていた。もともと観察力の鋭いたちなので、ミセス・ミフリンが買おうとした明礬の粉末の箱のラベルにワイントラウブが薄いすみれ色のインクで字を書いたのも見逃さなかった。

 劇場前のガラス張りの入場券売り場でオーブリーは自分に券を買わせてくれといって譲らなかった。

 「夕ご飯のあとすぐ出てきたの」ティタニアはなかに入りながらいった。「混雑する前に入っちゃおうと思って」

 しかしブルックリンの映画ファンを出し抜くのはそう簡単なことではない。彼らは怖い顔をした若者が入場待ちの群衆をベルベットのロープで堰き止めているあいだ、すし詰め状態のロビーに数分間立っていなければならなかった。もみくちゃにされないようティタニアを守りながら、オーブリーの保護本能は喜びにふるえた。彼は彼女に悟られないよう、背中の後ろに鉄棒のような腕を伸ばし、押し寄せる熱心な群衆の圧力を吸収していたのである。偉大なターザン映画のオープニングが銀幕にひらめくと、声にならないため息が熱心なファンのあいだを駆け抜けた。出だしを見損なったことに気がついたからだ。三人はやっと仕切りを越えて、最前列に近い端のところに空席を三つ見つけた。その角度からだと次々と移り変わる画面が奇妙に歪んで見えるのだが、オーブリーは気にもとめなかった。

 「わたし、ちょうどいいときに来たと思っているの」とティタニアがささやいた。「さっきミスタ・ミフリンにフィラデルフィアから電話があって、売却予定の蔵書があるから、見積もりを出しに月曜日に来てほしいんですって。それで留守のあいだ、わたしがお店の番をするのよ」

 「そうなんですか。じつは、わたしも仕事の都合で月曜日はブルックリンにいなければならないんです。ミセス・ミフリンのお許しがあれば、お店に行って、あなたから本を買いたいのですが」

 「お客さんはいつでも歓迎よ」ミセス・ミフリンがいった。

 「あのクロムウェルの本が気に入ってしまいましてね。ミスタ・ミフリンはいくらなら売ってくれるでしょう?」

 「あの本は大切なものにちがいないわ」とティタニアがいった。「今日の午後、だれかが買いに来たんだけど、ミスタ・ミフリンは手放そうとしなかったの。お気に入りの一冊なんですって。まあ、なんて変な映画なんでしょう!」

 ターザンの途方もなくばかばかしい物語が観客を興ざめさせながら、銀幕の上で展開していった。しかしオーブリーは厚かましくもジャングルの強者が自分にそっくりだと思っていた。僕も――と、彼はたあいもなく考えた――広告というジャングルのあわれなターザンではないだろうか。商売という名の象やらワニのなかに迷い込み、己の熱いまなざしに飛び込んできた、手の届かぬ美しい女性に胸を焦がしているあわれなターザン! 彼は危険をおかして彼女の横顔をこっそりのぞいた。銀幕の光のゆらめきが彼女の目のなかにいくつもの踊る小さな点となって映し出されていた。彼はすっかりのぼせて、相手が自分の視線に気がついていることもわからなかった。そのとき明かりがついた。

 「ひどい映画だったと思いません?」とティタニアがいった。「終わってよかった! 象がスクリーンから飛び出して来て、わたしたちを踏みつけるんじゃないかと怖くてたまらなかったの」

 「どうして名作を映画化しないのかしら」とヘレンがいった。「納得がいかないわ――フランク・ストックトンの作品なんか、とっても楽しいでしょうに。ドルー夫妻が『ラダー・グランジ』を演じるなんてどう?」

 「まあ、うれしい!」とティタニアがいった。「本のお仕事についてから、わたしが読んだ本の名前が出たのははじめてだわ。ええ、そう思います――ポモナとジョナスが新婚旅行で精神病院を訪れたときのことを覚えています? じつはね、あなたとミスタ・ミフリンを見ているとドルー夫妻を思い出してしまうんですよ」

 ヘレンとオーブリーはこの無邪気な連想に吹き出してしまった。そのとき、オルガンが「ああ、朝起きるのは大きらい」を弾きはじめ、いつ見ても楽しいドルー夫妻がスクリーンにあらわれ、ホームコメディのひとつを演じはじめた。この型破りな無言劇俳優がアーク灯とレンズのためにその健康的で人間的な才能を発揮しはじめたとき、映画は新時代の幕を開けたのだと、映画愛好者が考えるのももっともである。オーブリーはティタニアの横で彼らの演技を見ながらおだやかなくつろいだ喜びを感じた。目の前に繰り広げられる朝食の場面が、納屋のような映画撮影スタジオに木摺り板でつくられた間に合わせにすぎないことはわかっていたが、舞い上がる彼の想像力のなかでは、彼とティタニアが恵みぶかい運命の采配によっていっしょに住むことになる、牧歌的な郊外の家のように思えるのだった。若者は開拓者のような想像力を持っている。若きオーランドーがロザリンドの隣にいるとき、彼女との結婚を夢見ないでいられるとは思えない。たとえこの世の煩わしさを脱するまでに千回死ぬほどの苦しみがつづこうとも、きっと若者は市役所で許可証をもらう前に千回婚約を交わすだろう。

 オーブリーはオペラグラスがまだポケットのなかに入っていたことを思い出して取り出した。三人は面白がってシドニー・ドルーの顔を双眼鏡でのぞいた。しかしそれはがっかりするような結果に終わった。というのは映像を拡大してみると細かなひび割れが画面を蜘蛛の巣状に覆っているのがわかってしまったからである。ミスタ・ドルーの鼻は映画史上もっとも滑稽な顔の造作なのだが、拡大してみるとそのおかしさが失われてしまった。

 「あら、まあ」とティタニアが声を上げた。「これで見ると彼のすてきな鼻がフロリダの地図みたいに見えるわ」

 「どうしてこんなものをポケットに入れていたの?」ミセス・ミフリンがオペラグラスを返しながら訊いた。

 オーブリーは急いでもっともらしい嘘をつかなければならなかったが、広告マンというのは機転がきく。

 「それはですね。ときどき夜中に持ち出して屋上広告を研究するんですよ。ちょっと近視なものですから。ネオンサインの研究は仕事の一部なんです」

 ニュース映画をいくつか流したあと、上映プログラムは最初にもどり、彼らは劇場を出た。「うちに寄っていっしょにココアでも飲みませんか?」本屋の入り口まで来たときヘレンがいった。オーブリーは招待に応じたくて仕方なかったが、図に乗りすぎるのは禁物と思った。「申し訳ないのですが、止めておきましょう。今晩、仕事があるんです。月曜日はミスタ・ミフリンがいらっしゃらないそうですが、かまどに石炭をくべるとか、なにかお手伝いをしにお邪魔してもいいですか?」

 ミセス・ミフリンは笑った。「そうね!」彼女はいった。「いつでも歓迎しますわ」彼らがドアを閉めると、オーブリーは深い憂鬱に沈んだ。神々しい美文のようなティタニアの目を奪われたギッシング通りは、気が抜けてどんよりしていた。

 まだ遅い時間ではなかったし――十時をまわっていなかった――オーブリーはふと、この近所を見張るのなら細かい地理を頭にたたき込んでおくのも悪くないと思った。ハズリット通りは本屋から南に進んだつぎの通りである。人通りのすくない静かな細い道で、質素な住居の明かりに豊かに照らし出されていた。ハズリット通りをすこし進むと、丸石を敷いた狭い路地があった。両側を裏庭にはさまれた小径で、ギッシング通りとホイッティアー通りのなかほどを、ワーズワース・アヴェニューまで延びていた。路地は真っ暗だったが、家の数を正確にかぞえることでオーブリーは本屋の裏口を突き止めた。庭の門にそっと手をかけると、鍵はかかっていない。なかをちらりと見るとココアでも温めているのだろうか、台所に灯がともっていた。そのとき二階の窓が明るくなり、ランプの光に輝くティタニアの姿を見て彼の胸は震えた。彼女は窓辺にやってきてブラインドをおろした。彼女の頭と肩の影がつかの間カーテンに映って見えたが、つぎの瞬間、明かりが消えた。

 オーブリーはしばらく突っ立ったままロマンチックなことを考えていた。毛布が二枚ありさえすればロジャーの裏庭に野宿して一夜をあかすのだが、と彼は思った。あの観音開きの窓の下で、僕が監視をしているかぎりけっして彼女に危険はない! この思いつきは突拍子もないだけにかえって彼を魅了した。そのときだった。開いた門口に立っている彼の耳に、遠くからこちらにむかって路地を進んでくる足音と、低くうなるような複数の声が聞こえた。たぶん警官が二人組で見まわりに来たのだろう、と彼は思った。夜のこんな時間に裏口でこそこそしているのを見つかったらまずい。彼は忍び込むようになかに入り、門をそっと閉め、用心のためにかんぬきをかけた。

 荒い砂利道を踏みしだき、足音が暗闇のなかを近づいてきた。彼は裏門の柵に寄りかかってじっと立っていた。驚いたことに男たちはミフリンの門の前で止まり、掛け金を静かにはずそうとした。

 「だめだ」と声がいった――「かんぬきがかかっている。別のやり方を考えなきゃならんぜ、相棒マイ・フレンド

 オーブリーは最後の単語に、巻き舌のしわがれた「r」が使われたことに気づき、身体がぞくぞくした。まちがいない――これは「友人にしてしあわせを祈ってくれる」電話の男の声だ。

 もう一人の男がしゃがれたドイツ語でなにごとかをささやいた。オーブリーは大学でドイツ語を勉強したが、二つの言葉しか聞き取れなかった――「トュル」と「シュルッセル」で、それが「ドア」と「鍵」を意味することは知っていた。

 「わかった」最初の声がいった。「そいつは大丈夫だが、この仕事は今晩じゅうにやっちまわないとな。例のものはなんとしても明日完成させる。貴様が間抜けなものだから――」

 がらがらしたドイツ語がふたたび聞こえてきたが、早口の小声でオーブリーの耳はついていくことができなかった。路地に面した門の掛け金がもう一度かちりとなり、彼は拳銃に手をかけた。しかしすぐさま二人は路地のむこうへ歩いていってしまった。

 若き宣伝マンは柵に寄りかかったまま、恐ろしさのあまりものもいえず、心臓をどきどきさせていた。手はじっとりと汗ばみ、足は膨れあがって根をおろしたかのようだった。いったいなにを企んでいるんだ? 灼けつくような怒りの波が、身体を駆け抜けた。あのやさしそうな、口のうまい、話し好きの書店主、あいつはあの娘を誘拐し、父親が汗水流して稼いだ金を脅し取ろうとしているのか? しかもドイツ人なんかと手を組みやがって、あの悪党! 無防備な娘をブルックリンの荒野に送り出すとはチャップマンもおろかなことをしたものだ――さしあたり、自分はなにをしたらいいだろう? 裏庭を一晩じゅう偵察するか? いや、友人にしてしあわせを願ってくれる男は「別のやり方を考えなきゃならん」といっていた。それにオーブリーは年老いたテリヤが台所で寝ていることを思い出した。ボックなら夜中にドイツ人が侵入したとき、きっと大騒ぎを起こすにちがいない。たぶんいちばんいいのは店の正面を見張ることだ。みじめに混乱する頭を抱えながら、彼は数分のあいだ自分の足音を聞きつけられないよう、二人のドイツ人が遠くに離れるのを待った。それから門のかんぬきをはずし、彼らとは反対のほうにむかって路地を忍び足で進んだ。路地はワイントラウブの薬局のちょうど裏側でワーズワース・アヴェニューにつながっていた。そこには高架鉄道の駅を支える大梁と構脚がそびえていて、いわばスイスの山小屋が竹馬に載って通りをまたいでいるような格好をしていた。彼は遠まわりしたほうが賢明だと考え、ワーズワース・アヴェニューを東にむかってホイッティアー通りまで歩き、それからつけられていないことを油断なく確認しながらホイッティアー通りを一ブロック南にくだった。ブルックリンは夜になって明かりを消しはじめ、すべてが静まりかえっていた。彼はハズリット通りに入り、それからギッシング通りにもどったのだが、そのとき幽霊書店の明かりが消えていることに気がついた。もうすぐ十一時だ。映画館から最後の客がぞろぞろと出てきた。二人の従業員がはしごにのぼり、早くもターザンの電光看板をおろして、つぎの呼び物のイルミネーション文字を設置していた。

 彼はしばらくあれこれ考えたあと、ミセス・シラーの下宿にもどるのがいちばんだと判断した。自分の部屋からなら本屋の正面ドアをしっかり監視することができる。うまい具合にミフリンの家のほぼ真ん前に街灯が立っていて、ドアの前のくぼんだあたりにも充分な光があたっていた。オペラグラスを使えば、寝室からそこの様子は手に取るように見えた。通りをわたりながら、彼はミセス・シラーの下宿の正面を見あげた。四階の二つの窓に明かりがともっていて、一階の玄関にはガスの火が小さく燃えていた。そのほかは暗闇に包まれている。ふと自分の部屋の窓を見た。カーテンは今も窓ガラスの後ろに留められたままだ。しかし奇妙なことに、窓のそばで小さなバラ色の光が強くひかり、それが小さくなったかと思うと、また強く光った。だれかが彼の部屋でたばこを吸っている。

 オーブリーはなにごともなかったかのように足取りを乱さず歩きつづけた。通り沿いに下宿のむかいまで来ると、最初に見たものがまちがいでないことを確かめた。光の点は依然としてそこにあり、たばこを吸っているのは例の友人にしてしあわせを願う男か、その一味だと考えるのがまず妥当と思われた。路地にいたもう一人の男はワイントラウブのような気がしたが、確信はなかった。薬局の窓から気をつけてなかをのぞくとワイントラウブが調剤台にむかっている。オーブリーは彼を待つしわがれ声の、もちろん好意などチリほども持っていない紳士に、しっぺ返しをしてやろうと決意した。彼はミセス・シラーの下宿を出るとき、本の表紙を外套のポケットに突っ込んだ幸運に感謝した。理由はわからないが、だれかがそれをひどく手に入れたがっていることはあきらかだった。

 ちょうど閉店の準備をしていた小さな花屋を通り過ぎるとき、ある考えが浮かんだ。彼は店に入り、白いカーネーションの花を十本ばかり買い、まるで思い出したように「針金はあるかい?」と訊いた。

 花屋は細くて丈夫な一巻きの針金を差し出した。花屋はそれで高価なバラのつぼみをしめつけ、開花を遅らせることがある。

 「八フィートほどくれないか。今晩いるんだが、金物屋はみんな閉まっているだろうから」

 彼はそれを持って、上の窓から姿を見られないよう、慎重に建物伝いに歩いてミセス・シラーの下宿にもどった。階段をのぼり、息を凝らしてドアの掛け金をはずす。時間は十一時半、彼はしあわせを願う男がおりて来るまでどれぐらい待たなければならないだろうと思った。

 彼は用意をととのえながら、大学時代にこれよりもはるかにふざけた目的で似たようなことをやった経験を思い出し、おもわずくすりと笑ってしまった。まず靴を脱ぎ、またすぐ見つけられるようにそっと片隅に寄せておいた。そして床から六フィートほどの高さの手すりを選び、その根本に針金の一方の端をきつく巻きつけ、踏み段を二段にわたって広がる大きな輪を作った。針金の残りは手すりのあいだを通して外に出し、小さな輪にして引っ張りやすいようにした。それから玄関のガス灯を消し、暗がりのなかでことが起きるのを座って待った。

 パグがこっそりやってきて彼を見つけるのではないかという、一抹の不安をかんじながら長い時間座っていた。部屋着を着た女性――おそらくミセス・J・F・スミスだろう――が一階の部屋からあらわれ、暗闇にひそんでいる彼のすぐそばを通って、ぶつぶつ言いながら上にあがっていったときは肝をつぶした。彼は輪っかを引っ張ってかろうじて彼女の足に引っ掛からないようにした。しかし間もなく彼の忍耐は報われた。上のほうでドアがきしり、だれかがゆっくりと階段をおりはじめた。階段はうめくような音をたてた。彼はわなを置きなおし、にやりと笑いながら待った。建物のどこかで時計が十二時を打ったとき、男は暗闇のなかを手探りしながら最後の一つづきの階段をおりてきた。オーブリーは男が低く悪態をつくのを聞いた。

 その瞬間、犠牲者の両足が輪のなかに入り、オーブリーは針金を思い切り引っ張った。男は金庫のように倒れ、手すりに激突し、床の上にのびてしまった。すさまじい落下が家を揺らした。彼はうめき声をあげ、呪いの言葉を吐いて倒れていた。

 笑いたいのをなんとかこらえながら、オーブリーはマッチを擦って大の字に横たわる男の上にかざした。男は横にむけた顔を、伸ばした一方の腕に押しつけていたが、あの髭に見まちがいはなかった。またしても例のアシスタント・シェフだ。彼は意識を失いかけているように見えた。「髭を燃やすといい気つけになるんだ」オーブリーはそういってマッチの火をもじゃもじゃの髭につけた。二三インチ髭を焦がすのはひどく小気味よかった。それから動かない男の頭にカーネーションの花を置いた。地階からごそごそと音が聞こえてきたので、彼は針金をはずし、靴を拾い、上の階に逃げた。彼はしてやったりと胸のなかで大笑いしながら部屋にたどり着いた。しかし部屋に入るときは、罠がしかけられていないかと用心した。強いたばこのにおいをのぞいてなにも異常はないようだった。ドアのところで耳を澄ましていると、ミセス・シラーが玄関で金切り声をあげ、それにパグがきゃんきゃんと唱和するのが聞こえた。上の階のドアが開き、問いが発せられた。髭男がしわがれたうめき声をあげながら、階段から落ちたことをののしり、憤るのが聞こえてきた。パグは狂ったように興奮して吠えた。女性の声――おそらくミセス・J・F・スミスだろう――が叫んだ。「この焦げくさいにおいはなに?」ほかのだれかがいった。「気つけに彼の鼻の下で羽を燃やしているんだ」

 「そう、ドイツ野郎の羽をね」オーブリーは一人で満足そうに笑った。彼はドアに鍵をかけ、オペラグラスを手に窓のそばに座った。

第九章 ふたたび物語の進行は遅れる

 ロジャーは店のなかで静かな晩を過ごしていた。頭の上に霧のようなたばこの煙をうかべながら、机にむかって書籍業に関する偉大な著作の第十二章の執筆にいそしんだ。この章は(残念なことに最初から最後まで夢想に過ぎなかったが)「一流大学名誉文学博士号授与記念講演」として発表されるべきものであり、これを書いているとさまざまに魅惑的な可能性が頭に浮かんできて、ロジャーの心はいつも紙を離れて空想の世界に遊んでしまうのである。彼は書籍業がついに学問的職業の一つとして正式に認められ、それを祝う晴れの式典の快心の場面を事細かに思い描くのが大好きだった。大講堂は教養ある人々でいっぱいである。エマソンのような横顔の殿方、次第書をひらひらさせて口を覆いながらささやき交わすご婦人方。大学儀官ビードルなのか学生監プラクターなのか学部長ディーンなのか(ロジャーにはなんだかよくわからなかったが)、とにかくだれかがおごそかな紹介の言葉を述べている――

 公共の福利のために絶えず個人的利益を度外視し、プロメテウスにも似た情熱的犠牲の精神をもって、数え切れない多くの人に、優れた文学への愛を教えた人物。何事も泡沫のように消えていく世間に広く文学的趣味を浸透させたのは、主に彼とその同業者の功績と言っていい。彼を讃えることでわたしたちは、彼によって代表される気高く、慎み深いなりわいを讃えようとするものである――

 謙虚な書店主は手に汗をかき、フードつきのアカデミックガウンをまとったまま途方に暮れ、そわそわと角帽をいじり回していたのだが、案内役に引っ張られて赤くなりながら総長チャンセラーだか学寮長プロボウストだか学長プレジデントだか(なんだかわからない人)の前に出ると、その人から学位証書がわたされるのである。それから(ロジャーの空想のなかでは)花輪をいただいた書店主は待ちわびている聴衆のほうを振りむき、舞台の上で垂れ下がったガウンをご婦人方がするように器用に後ろ足で蹴り、ためらうことも気後れすることもなく、品のよい冗談を適度にさしはさみながら彼がしばしば夢見ていた書物の喜びについての、学識に満ちた、すこしもしゃちほこばったところのない講演をするのだ。そのあとは引きつづいて祝賀会。高名な碩学たちが彼を取り囲む。マカロンの皿に、口をつけてないお茶のカップ。ご婦人たちのさえずるようなおしゃべり。「お尋ねしたいことがありますのよ――将軍、提督、牧師、政治家、科学者、芸術家、作家、こういう人たちの銅像はたくさんあるけど、どうして書店主の銅像はないのかしら?」

 こんなはなやかな場面を想像するとロジャーはいつもめくるめくような夢の世界に誘い込まれる。数年前に太った白馬に幌つき荷馬車をひかせ、田舎道で本を売っていたときから、いつかパルナッソス巡回書店株式会社を立ち上げ、十台の荷馬車隊を擁し、本屋を知らない田舎の間道へ行商に繰り出すという、ひそかな夢を胸に抱いていたのである。彼は好んで大きなニューヨーク州の地図を思い浮かべた。そこには旅回りに出ているパルナッソスの毎日の位置を示す色つきのピンが刺さっている。彼は夢のなかで巨大な中央古本倉庫に陣取り、軍司令官さながらに地図を眺め、荷馬車の在庫を補充するため文学的弾薬箱を送りつけるのだ。外交員はおもに、報われない仕事にいや気がさし、機会さえあれば旅に出たいと思っている大学教授、牧師、新聞記者で編成しようと思っていた。彼はミスタ・チャップマンがこの卓越した計画に興味を抱くことを期待し、またパルナッソス巡回書店株式会社の株が大きな配当金を生み、真剣な投資家たちを惹きつける日を夢見ていた。

 そうこう考えていると義理の兄、田舎暮らしの喜びを描いた魅力的な本の作者であるアンドリュー・マギルのことが頭に浮かんできた。彼は緑のコネチカット渓谷が肘のように曲がったあたりのサビーニ農場に住んでいる。初代パルナッソスはロジャーが結婚前にそのなかで生活し、田舎を何千マイルも旅して本を売った、風変わりな古くて青い荷馬車なのだが、今はアンドリューの納屋に収まっている。でっぷりと太った白馬のペグもそこにいた。ロジャーはふとアンドリューに手紙を書かなければならないことを思いだし、書店主の大学講演草稿を脇に寄せて、こう書きはじめた。

 幽霊書店

 ブルックリン、ギッシング通り163

 一九一八年十一月三十日

 親愛なるアンドリュー

 もっと早くにお礼を申し上げるべきでした。今年もリンゴジュースの樽を送っていただきありがとうございます。夫婦ですこぶるおいしくいただいています。今年の秋はひどくいろいろなことを考えさせられ、手紙がまったく書けませんでした。ほかの人とおなじように、わたしも常に僥倖のように訪れたこの新しい平和のことを考えています。この機会を人類の福利に転じることができる政治家が将来きっとあらわれることでしょう。わたしは書店主の世界的平和会議があったらいいのにと思っています。というのは(お笑いになるでしょうが)世界の未来の幸福はすくなからず彼らと図書館員の肩にかかっていると信じるからです。ドイツの書店主はいったいどんな人間なのでしょう?

 今「ヘンリー・アダムズの教育」を読んでいるのですが、彼が長生きをして、戦争をどう思うか、意見を聞かせてほしかったと思います。きっとあっけにとられるでしょうね。こんなものは「感受性の鋭い、おずおずとした人間が身震いすることなく見守ることができる」世界ではないと思ったことでしょう。彼はわたしたちが目撃した四年にわたるいとわしい流血に関してなんと言うでしょうか?

 覚えていらっしゃるでしょうが、わたしの愛唱する詩――ジョージ・ハーバートの「教会のポーチ」の一編――にこうあります。

 ぜひとも ときどき独りになる習慣をつけなさい

  自分に向かって挨拶し 自分の魂の装いを確かめるのです

 恐れることなく胸の内をのぞきなさい それはあなたのものなのだから

  そしてそこに見つけたものを いろいろひっくり返してごらんなさい

というわけで、わたしは自分の考えを大いにひっくり返してみているわけです。憂鬱というやつは知識階級にかけられた呪いであると思いますが、しかしわたしの魂はこのごろ恐ろしく落ち着きを失っているのです。人間世界で突然起きた驚くべき変化は歴史上類を見ない劇的なものなのに、もうすでに当然のことのように受け止められているようです。わたしが大いに恐れているのは、人類がむごたらしい戦争の惨禍を忘れてしまうことです。それはまだ語られてもいない。フィリップ・ギブズのような人たちが、現実に目の当たりにしたことを、わたしたちに伝えてくれることを期待し祈っています。

 あなたはわたしがいおうとしていることに賛成はしないでしょうね。頑固な共和党員でいらっしゃるから。しかしわたしはウィルソンが講和会議に出席することを運命の神に感謝します。わたしは愛読書のひとつ「クロムウェル伝」――それを横に置きながらこの手紙を書いているのですが――についてずっと考えてきました。これはカーライルによって編集され、カーライルが「注解」と称する妙なものがつけ加えられています。(カーライルの注解はどれもよくわかりません!)わたしはどこかでこれがウィルソンの愛読書の一つであると聞きました。たしかに彼にはクロムウェル的なところが多々あります。刀剣をその手に握らざるを得なくなったとき、なんという断固たる誓約者の意気込みでその武器をつかんだでしょう! 彼が講和会議でいうこともオリバーが一六五七年と一六五八年に議会でよく発言していたこと――「虫の食っていない平和が手に入れば、正義と公正の土台を作ることができる」――と非常によく似ているのではないかと思っています。ウィルソンが思慮のない人々にとってじれったく感じられるのは、彼が情熱ではなく、あくまで理性にもとづいて行動するからです。キプリングの有名な詩、あれはたいていの人間にあてはまるのですが、彼はその正反対です――

 事実を真っ向からとらえ とことん論理的に押し詰めて

 その結論を確固たる行為に結実させることなど めったにありはしない

今回は理性が勝利すると思います。世界全体がその方向にむかっていると感じられるのです。

 ウッドロウはいはばクロムウェルとワーズワースの掛け合わせのような男で、そんな人間が砲弾痕の残る場所で外交のためにひと肌脱ごうなどというのは考えてみればおかしなことです。わたしが待っているのは彼が公職を退き、彼の私生活について本を書くときです。こういってよければ、それこそ身も心もぐったり疲れ果てて当然の人間にうってつけの仕事です。その本が出版されたら、わたしはそれを売って余生を過ごします。それ以上のものは要りません! ワーズワースといえば、わたしはよくウッドロウが日記のどこかにこっそり詩を書いているのではないかと思います。ひそかな詩作にふけっている姿をいつも想像するのです。ところで、わたしがジョージ・ハーバートに入れ込んでいることをおからかいになる必要はありませんよ。自分でも判っていますからね。英語でもっともなじみ深い二つの引用が彼のペンから生まれていることを知っていますか? つまり

 ケーキを口にして しかもそれを持っていたいと願うのか

これと

 おそれずに真実を語れ どんな場合も嘘はいらない

 過ちが切実に嘘を必要とするとき 罪は二倍に膨れあがる

です。

 このつまらない説教をお許しください! わたしの心はこの秋あまりにも混乱し、憂鬱と高揚が入りまじった奇妙な状態にあるのです。わたしがどれほど本に埋もれ、本のために生きているか、ご存じでしょう。じつは、この人類の希望と苦悩が逆巻くなかから偉大な書物があらわれるような不思議な気分、予感みたいなものを感じるのです。それは嵐に揺すられた人間の魂が、今までになかったような率直な語り方をする本です。聖書にはご存知のとおり、いささか失望しました。人間にたいしてなすべきことをなさなかったのですから。どうしてなんでしょうね? ウォルト・ホイットマンはこれから大活躍するでしょうが、わたしがいおうとしているものとはちょっとちがう。なにかがやってきつつある――ただわたしにはそれがなんであるのか、はっきりとはわからないのです! 自分が単なる商品のセールスマンではなく、人間の夢や美や好奇心を取引する書店主であることを神に感謝したいと思います。しかしわたしたちは自分のなかで起きていることを語ろうとするとき、なんと無力でしょうか! 先日、ラフカディオ・ハーンの手紙のなかにこんな一節を見つけました――あなたに見せようと思って印をつけておいたものです――

 ボードレールはアホウドリについて感動的な詩を書いていて、これはあなたも気に入ると思う――詩人の魂はその自由な青空においてこそ優美だが――俗な大地を歩む姿は無力で、屈辱的で、醜く、不器用――いや、そこは大地ではなく、実際には刻みたばこのパイプで水夫にいじめられる甲板なのだが、云々。

 日の暮れるのが早くなり、ここでわたしが棚に囲まれ、どんな夜を過ごしているか想像がつくでしょう! もちろん十時に店を閉めるまで、絶えず邪魔がはいります――この手紙を書いている最中も同様です。一度は「叔父さん征伐」を売り、一度は「レディング獄舎の唄」を売るといった具合で、わたしのお客さんの趣味が多種多様だということがわかりますね! しかしこのあと夫婦で夜のココアを飲み、ヘレンが寝てしまうと、わたしは店をうろつき、あっちの本やらこっちの本をのぞき込み、思索の美酒に酔いしれるのです。夜更けになると精神は、どれほど澄んだ輝く流れとなってあふれだすことか! 昼間の沈殿物や浮遊するごみがすっかり消えています。ときにはこれこそまさに美か真実の岸辺ではないかと思えるところを進み、そのきらきらした砂浜に砕ける波の音が聞こえるような気がします。ところがつぎの瞬間には沖合から倦怠と偏見の風が吹き、ふたたびわたしを運び去ってしまう。アンドレーエフの「偉大な日々のあいだに語られた卑小なる男の告白」を読んだことがありますか? 先の戦争から生まれた誠実な本のひとつです。卑小なる男は告白をこんなふうに締めくくっています――

 わたしのなかから怒りが去って、悲しみがもどり、また涙が流れる。わたしはだれを呪うことができるだろう、だれを裁くことができるだろう、わたしたちすべてがおなじように不幸だというのに。苦痛はあらゆるところにある。お互いに手を伸ばし合い、その手が触れあうとき――大いなる解決が訪れるだろう。わたしの心は燃え立つように輝き、わたしは手を差し伸べ、こう叫ぶ。「さあ、手をつなぎ合おう! わたしはあなたたちを愛しているのだ、愛しているのだ!」

そしてもちろんそんな気持ちになった途端、他のだれかにポケットの金をすられてしまうわけですが――まあ、すられたって平気な顔をしていられるくらいの気位を教育すべきでしょうね!

 世界はじつは本によって支配されている、などと考えたことがありますか? たとえばこの国が戦争に突入した道筋はウィルソンがものを考えはじめたときから読んだ本によって大筋決められていたのです! 戦争がはじまってから彼が読んだおもな本のリストが手に入ったら、これは面白いでしょう。

 ここにお客さんに考えてもらおうと思って掲示板用に今写している詩があります。一九一五年にフランスで戦死した若いイギリス人、チャールズ・ソーリーの書いたものです。彼はまだ二十歳でした――

 ドイツへ

 きみはぼくらのように目が見えない きみは意図して人を傷つけたのではなかった

 そしてだれもきみの国土を征服しようとしたのではなかった

 しかしいずれも狭隘な思想という戦場を手探りし

 ぼくらはつまずき 互いを理解しない

 きみが見ていたのは きみの大いなる未来だけ

 ぼくらが見たのは 先に行くほど細くなるぼくらの心の道だった

 ぼくらは互いに相手の大切な道に立ちふさがり

 非難し 憎み合う そして盲人が盲人にうちかかる

 平和がきたときに ぼくらはもう一度

 新たな目でお互いの本当の姿を見直し

 不思議に思うかも知れない もっと慈愛と思いやりを学んだとき

 ぼくらはしっかり手を握り合い 過去の苦しみを笑い飛ばす

 平和がきたときに しかし平和がくるまでは嵐

 暗闇 いかずち 雨

気高い響きがあるでしょう? わたしがへどもどしながらいおうとしていることがわかりますか――戦争は人類を浄化したのだと(後生の人に)思えるような、そんな戦争のとらえ方です。悪臭を放つ灰や、苦しむ肉体、原型を失うまで弾丸を撃ち込まれ、血と汚水の泥沼のなかに横たわる人間といった単なる暗黒のイメージではなくて。そんな口にすることもはばかられるような荒廃から、人間は、隣人としての国家という新しい概念にかならずや目覚めなければなりません。ドイツをいくら罰してもその罪は充分にあがなえないといった不安の声がたくさん聞こえてきます。しかしあのような広範囲の悲しみにたいしてどんな罰を考え出し、押しつけられるというのでしょう。ドイツはすでに自分を手ひどく罰しているし、これからもそれはつづくと考えます。わたしたちの経験が生命の――人間だけでなく動物も含むすべての生命の――威厳にたいするなにか新しい自覚を世界にもたらすことになれば、と祈っています。動物園に行くと生命力のとてつもない奇怪な多様性に驚き、謙虚な気持ちになりませんか?

 どんな生命の形のなかにも見いだせるものはなんでしょう? ある種の欲望――ほんのちっぽけな虫をすらその奇態な旅へと駆り立てる説明しがたい原動力のようなものです。あなたもきっと垣根の横木をせわしなく動きまわっている、ものすごく小さな赤い蜘蛛を見たことがあると思います――いったいなぜそんなことをするのでしょうか、そしてどこへ行こうとしているのでしょうか? だれにもわかりません。人間ともなれば、どれほど混沌とした欲望と衝動が、彼らをそのおかしな仕事の繰り返しにおもむかせていることやら! それにどの人間の心にもなんらかの悲しみ、挫折、苦しみがひそんでいます。わたしはよくラフカディオ・ハーンが書いている日本人の料理人の話を思い出します。ハーンは感情を顔に出さない日本人の習性について語っていました。彼が雇っていた料理人は、いつもにこにこしている、機嫌のいい、健康な、人当たりのよさそうな若者でした。ところがハーンはある日、偶然にも、壁の穴からひとりぼっちの料理人を見たのです。彼の顔はいつもの顔ではありませんでした。痩せて引きつって、過去の苦労や辛酸によってできた奇怪なしわを浮かべていました。ハーンは「死人のような表情だ」と思いました。彼は台所に入っていきました。すると途端に料理人はふたたび若々しく、しあわせそうな顔に様変わりしたのです。それから二度とハーンは悩みを抱えた顔を見ることはありませんでした。しかし彼は男がひとりのときはそんな顔をしていることを知っていました。

 これは人類全体にあてはまる寓話のようなものだと思いませんか? だれかに出会って、その人が世間からどんな輝かしい悲しみを隠しているのだろう、とか、どんな理想と現実の差に苦しめられているのだろう、とか、思わずにいられたことがありますか? 微笑みを見せるどの仮面の背後にも、苦痛にゆがむ謎めいた顔がないでしょうか? ヘンリー・アダムスが簡潔にそれを表現しています。人間の心は未知の、想像もできない虚空から突然、不可解な形であらわれると。人間の心はその生の半分を眠りという精神的混乱のなかで過ごします。目覚めているときさえ、それは適応能力の欠如、病気、加齢、外からの暗示、生理的欲望の犠牲者です。己の感覚を疑い、道具ばかりを頼り、平均値しか信用しない。ますます大きな驚きを味わいながら六十年ほどしてふと気がつくと、心はなにもない死の空間を呆然とのぞき込んでいる。そして、アダムスがいうように、そんな人生に満足だと公言することが、最高の教育に望みうるすべてなのです。精神が満足するといっても、それは自分が白痴のような存在であることを証明するだけです!

 このことに関してあなたがどんなふうに思っていらっしゃるか、お手紙をいただければうれしく思います。わたしは今まさにすばらしいことが起きようとしているような感じがしています。ずっと以前、本はただ一つ変わることのない心の慰めだと思っていました。本は人類が生み出した、文句のつけようのない完璧な作品です。何千冊もの本を未読のまま死んでいかなければならないことを考えると悲しくなります。それらは崇高な、満ち足りた喜びを与えたはずなのですから。一つ秘密をお話ししましょう。わたしは「リア王」を読んだことがありません。わざと読まないようにしているのです。もしも重い病気にかかったら、わたしは自分にこういえばいいのです。「まだ死ぬわけにはいかないぞ。『リア』を読んでいないのだからな」そう思えばわたしは病気から回復するでしょう。きっと回復しますとも。

 本はわたしたちが困惑したときの答えです! ヘンリー・アダムズは宇宙が理解できないと歯ぎしりします。彼にできるのはせいぜい「加速の法則」を提案するくらいです。それはどうやら自然がますます勢いをつけて人間をせき立て、その結果人間は問題をことごとく解決するか、その努力の最中に熱病にかかって死ぬか、いずれかになるだろうということらしい。しかしアダムスが遠慮なくあからさまに描き出していますが、精神が絶望的なまでに謎に取り組む様子は狂喜乱舞するようなおもしろさで、その描写の的確さに、奮闘の虚しさなど忘れてしまうぐらいです。人間は自分の無力すら気晴らしの種にしてしまうのですから、まったくいい根性をしています。どうやら人間の信条は、「神がわたしを殺すとしても、わたしは神を笑ってやろう!」というものらしい。

 ええ、本は人間の最高の勝利です。本はそれ以外のすべての勝利をかき集め、後生に伝えるのですから。ウオルター・デ・ラ・メアが書いているように「天使が、小説に夢中のあわれな人間を見たらどれほど不可解な思いでほほえむことだろう。どっかと椅子に腰をおろして身じろぎもせず、鼻の頭にめがねをのせ、二本の足を人魚の尻尾みたいにぴったりくっつけ、珍妙な目だけが年を刻んだ顔のなかで動いている」

 さてさて、わたしは駄文を弄して近況報告をなにもしていませんでした。ヘレンはボストンでおおいに羽を伸ばし、先日もどってきました。今晩彼女は、わたしたちの若い門弟、ミス・ティタニア・チャップマンと映画に出かけています。ミス・チャップマンは本屋の見習いとしてうちが受け入れた魅力的な娘さんです。うちのような店に若い娘さんが見習いに来るなんて、なんとも妙な話ですが、これは彼女の父親、どこにでも広告が出ているチャップマン・デインティビッツの経営者から、頼まれてしていることなのです。彼は大の本好きで、その情熱を娘にも受け継がせようと、とても熱心なのです。本についてこんこんと説くことができる新しい帰依者を迎え、わたしがどれくらい喜んでいるか想像ができるでしょう! また、彼女のおかげでわたしは今までよりもいくぶんか店を離れて活動することができます。今日の午後、フィラデルフィアから電話があり、蔵書を売りに出すので、来週の月曜日、こっちにきて見積もりを出してくれないかと頼まれました。どうしてわたしの名前を知ったのか知りませんが、ちょっとくすぐったい気がしました。

 長々と、脈絡もないことを書きつづってしまい申し訳ありません。「エレホン」はいかがでしたか? もうすぐ閉店の時間です。本日の儲けに感謝の祈りを唱えなければなりません。

頓首再拝   

ロジャー・ミフリン   

第十章 ロジャー、冷蔵庫をあさる

 ちょうどロジャーがカーライルの「クロムウェル伝」を歴史アルコーヴのあるべき場所にもどしたとき、ヘレンとティタニアが映画から帰ってきた。ボックは主人の椅子の下でうたた寝していたのだが、礼儀正しく起きあがると敬意をあらわすように尻尾を振った。

 「ボックってしぐさにとっても愛嬌があるわ」とティタニアがいった。

 「そうね」とヘレンが応えた。「あれだけ尻尾を振っても筋肉がぜんぜんすり切れないんだから、ほんとうに驚いちゃうわね」

 「それはそうと」とロジャーはいった。「楽しかったかい?」

 「とっても!」ティタニアがあまりにも顔を輝かせ、きらめく声でそういったものだから、かびくさい常連客二人が「随筆」と「神学」のアルコーヴから頭を突き出し、びっくりしたように彼女を見たくらいである。そのうちの一人は三人に近づいて驚いた目を満足させようと、むさぼるように読んでいたリー・ハントの「ウィッシング・キャップ新聞」をわざわざ買い求めた。ミス・チャップマンが本を受け取り包装したとき、彼の驚きは頂点に達した。

 自分が売り上げを伸ばすのに一役買っているとも知らずに、ティタニアは話をつづけた。

 「途中であなたのお友達のミスタ・ギルバートに会ったんですよ。それで一緒に映画に行ったんです。月曜日にお店に来て、あなたが留守のあいだに、かまどを修理するとかいっていました」

 「それはそれは。広告代理店というのはじつに商売熱心だねえ。ちょっとでも広告業務を請け負う可能性があれば、従業員を送り込んでかまどの面倒まで見させるんだから」

 「静かな夜が過ごせた?」ヘレンがいった。

 「ずっとアンドリューに手紙を書いていたんだ。でも面白いことが一つあったよ。例の『フィリップ・ドルー』が売れたんだ」

 「まさか!」ヘレンが大声を出した。

 「ほんとうだよ。客が本を見ていたんで、作者はハウス大佐(註 外交官でウィルソン大統領の腹心)らしいといったんだ。ぜひ売ってくれといわれたよ。しかし読み出したらえらくがっかりするだろうなあ!」

 「ハウス大佐が書いたんですか?」ティタニアが訊いた。

 「さあね」ロジャーがいった。「そうじゃないことを願うよ。わたしはミスタ・ハウスは有能な人物だとひそかに信じている。もしもあれを書いたのだとしたら、パリの講和会議の場で外国政治家にその事実がばれないことを切に願う」

 ヘレンとティタニアが外套を脱いでいるあいだに、ロジャーは忙しく店を閉めていた。彼はボックと通りの角まで行って手紙を投函した。居間にもどってくると、ヘレンが大きなポットにココアを用意していた。彼らは暖炉のそばに座りそれを味わった。

 「チェスタートンがココアをこっぴどく非難する詩を書いている」とロジャーがいった。「『さまよえる居酒屋』に出てくるんだが、しかしわたしは理想的な夜の飲み物だと思うよ。ゆったり心を鎮めてくれて、眠りに誘ってくれる。とびきり激しい哲学的苦悩もミセス・ミフリンのココアが三杯あれば癒される。ショーペンハウエルだってスプーン一杯のココアとコンデンスミルクの缶があれば一晩じゅう読んでいられるというものだ。もちろんコンデンスミルクを入れなければいかんよ。そういうものだと決まっているんだ」

 「こんなにおいしいものとは知らなかったわ」ティタニアがいった。「たしかにお父さんは工場の一つでコンデンスミルクを作っていますけど、自分がいただこうなんて夢にも思いませんでした。探検家だけが食べるものと思っていたんですもの、北極に行く人とかが」

 「うっかりしていた!」ロジャーが叫んだ。「きみに話すのをすっかり忘れていた! 夕方二人が出かけたあと、すぐにお父さんから電話があって、調子はどうだと尋ねていたよ」

 「あら。はじめてのお仕事なのに、二日目にもう映画に出かけたと聞いて、お父さん、きっとあきれていたでしょうね! 『まったくあの娘は』なんていったんじゃないかしら」

 「わたしがミセス・ミフリンと出かけるように勧めたんだと説明しておいたよ。気分転換が必要だと思ったんだってね」

 「お願いですから、お父さんがいうことなんか真に受けないでくださいね。お父さんたら、わたしの見かけがうわついているから、心も浮ついていると思っているの。でもわたし、ここでいい仕事をしたいと思ってやる気満々なんですよ。午後はずっと包装の練習をして、紐を切らずに上手に結び目が作れるようにしました。先に紐を切ってしまうと、短すぎて縛れなかったり、長すぎてちょっぴりむだになったりするんですね。それから包装紙でカフスを作って袖を汚さないようにすることも覚えました」

 「おいおい、わたしの話はまだ終わってないよ」とロジャーがつづけた。「お父さんは明日わたしたちみんなを家に招待するというんだ。買ったばかりの本を見てもらいたいんだそうだよ。それにきみがホームシックにかかっているんじゃないかと思っているらしい」

 「なんですって。こんなにすてきな本があるっていうのに? ばかばかしい! 半年は家に帰る気がしないわ!」

 「いやとはいわせないつもりだよ。明日の朝いちばんにエドワードを迎えに寄こすようだ」

 「おもしろそうね!」ヘレンがいった。「楽しみだわ」

 「とんでもないです。このすてきな本屋さんを離れてラーチモントで日曜を過ごすなんて。でも、いいわ、うっかり置いてきたジョーゼットのブラウスが取りに行けるから」

 「何時に車が迎えに来るの?」ヘレンが訊いた。

 「ミスタ・チャップマンは九時ごろだといっていたがね。できるだけ早くに出るようにといわれたよ。一日本を見てほしいそうだ」

 彼らがしだいに消えていく石炭の火を囲んで座っているとき、ロジャーは自分の蔵書の棚を見まわしはじめた。「ギッシングは読んだことがあるかい?」と彼はいった。

 ティタニアはミセス・ミフリンにむかって悲しげな仕草をした。「そういうことを訊かれるとすごく困っちゃう! いいえ、聞いたこともありません」

 「そうか。家の前の通りは彼にちなんで名前がつけられているので、知っておくべきだと思うな」彼は「蜘蛛の巣の家」を引っ張り出した。「これからわたしが知るいちばん素晴らしい短編小説の一つを読んであげよう。題名は『ゆかしい家族』だ」

 「だめよ、ロジャー」ミセス・ミフリンが断固としていった。「今晩はいけないわ。十一時だし、ティタニアは疲れているじゃない。ボックだって犬小屋に引っ込んだのよ。あなたよりよっぽど常識があるわ」

 「よしよし」書店主は素直にいった。「ミス・チャップマン、よかったら本を持っていって寝床のなかで読みなさい。きみは閨房閲覧者リブロキュビキュラリストかい?」

 ティタニアは目を白黒させた。

 「驚くことはないわよ」ヘレンがいった。「ベッドで本を読むのが好きかって訊いているだけ。あの単語が出てくるのを、わたし、いまかいまかと待っていたの。うまく使えたので、彼はご機嫌よ」

 「ベッドで読書ですか? 変わっていますね! そんなことする人がいるんでしょうか? 考えたこともなかったわ。ベッドに入ったら眠たくて眠たくて、そんなことをしようなんて思う暇もないわ」

 「それじゃ、お二人ともお休みなさい」とロジャーがいった。「美容のために寝たほうがいい。わたしもすぐ寝るよ」

 そう話したときはそのつもりだったのだが、店の奥の机にもどると彼はバートンがいうところの「不安を鎮める」本を納めた自分の蔵書の棚の上に視線を落とした。この棚には「天路歴程」、シェイクスピア、「憂鬱の解剖」、「家庭版詞華集」、「ジョージ・ハーバート詩集」、サミュエル・バトラーの「ノートブックス」、「草の葉」が並んでいた。彼は「憂鬱の解剖」を取り出した。真夜中に拾い読みをするならこれ以上におもしろい本はない。お気に入りの一節「心に安らぎを与える脱線 数々の不満を癒す方法」をめくっていると、本にひきこまれて、時計のかちかちと時を刻む音すら耳につかなくなる。唯一身体に残った意識はときどきパイプの灰を捨て、詰め直し、火をつけるのに必要な動作をするだけだった。毎日退屈な仕事のあれやこれやに追われる人間にとって、ひとりの時間は貴重な宝石である。ロジャーは貪るように真夜中の黙想にふけった。ロバート・バートンやジョージ・ハーバートのような信頼できる伴侶とはいつも打ち解けたつきあいをしてきた。孤独なオックスフォードの学者バートンがみずからの憂鬱を「癒す」ためにあの膨大な本を書いたのだと思うと彼は愉快な気持ちになったものだ。

 かびくさい古いページをめくっていくうちに、やがて「眠り」に関するつぎのような一節にぶつかった――

夕ご飯を食べて二、三時間後が最適である。その頃には食べ物が胃袋の底に落ち着いているからだ。まず右の脇腹を下にして寝るのがよい。その位置だと肝臓が下になるので、胃は圧迫されず、火の上に置かれたやかんのように暖められるからである。寝入りばなに左側を下にすると食べ物がいっそう降下する。時にはうつぶせもいいが、仰向けは絶対いけない。睡眠時間は憂鬱症の人間には七、八時間がちょうどよい――

 そうだとすれば、わたしも寝る時間だな、とロジャーは考えた。時計を見ると十二時半だった。明かりを消してかまどの火を見に台所にもどった。

 作者としては家庭内のいざこざに触れることはためらわれるのだが、ここは思い切ってロジャーが夜の見まわりの最後に必ず冷蔵庫にむかうことを申し上げねばならない。冷蔵庫のものを盗み食いすることについては二つの説があり、一つは夫の立場からの説、もう一つは妻の立場からの説である。夫は(単純なものだから)冷蔵庫内のごちそうをどれも少量ずついただいて、食べ物への略奪を分散させれば、全体として荒らされた跡はほとんど残らないと考えがちだ。しかるに妻に言わせれば(そしてミセス・ミフリンもロジャーにしばしばいって聞かせるのだが)、どれもこれもをすこしずつ食べるのではなく、一つの品を全部平らげられた方がはるかに都合がいいのだ。というのは前者の場合はどの品も残り物として有用な量を切ってしまうことになりやすいからである。しかしロジャーはよき夫ならだれもが持つ頑固な意地の悪さがあり、しかも冷たくひえた食べ物のうまさを知っていた。プルーンの煮込み、サヤエンドウ、味つけしてない冷たいゆでじゃがいも、チキンレッグ、アップルパイの残り半分、ライスプディング一口分、そうしたものが何度も何度も真夜中の宴で消えていったのである。彼はどの皿も平らげてしまわず、衰えることのない食欲で次から次へとつまみ食いすることを信条としていた。戦争のあいだはきっぱりとこの習慣を絶っていたが、ミセス・ミフリンは休戦成立以来、それが獰猛な食欲とともに再開されたことを知っていた。この習慣のせいで家庭の主婦はつぎの日の朝、無惨な食べ残しが集積する悲劇的光景を目撃することになる。小さなお茶碗にビートが二切れ、一インチ幅の細長いアップルパイのかけら、わずかにシロップを帯びてつつましく身を寄せ合うプルーンが三粒、黄色いボールにいっぱい作ってあったのに、今や大さじ一杯分しか残っていないルバーブの煮込み――どれほど有能な料理人でもこんな半端物でなにができるというのだろう? こういうたちの悪い習慣はいくら激しく非難してもしすぎることはない。

 しかしわたしたちの性根は変わるものではないし、しかもロジャーは普通の人以上に頑固だった。「憂鬱の解剖」を読むといつも彼は腹がへり、こっそりとご馳走の皿をいろいろ漁るのである。ボックもほんの一口、そのお裾分けにあずかるのだが、この秘密の夕餉にむける茶色い懇願の目は、それが恥ずべき、こそ泥じみた性質のものだと彼が自覚していることを滑稽にもあらわしていた。ボックはロジャーに冷蔵庫を荒らす権利がないことをちゃんと知っていた。犬は、どんな家庭であっても従うべき社会的な決まり事を、大枠において明確に理解している。しかしボックの顔はびくびくしながらも罪悪に身を投じたがっていることを示していた。ロジャーは黙って非難がましく横で見つめられるよりはましだと、冷えたじゃがいもはほとんど彼に与えたものだ。犬に見とがめられて耐えられる人間はいない。しかしバートンではないが、わたしの話も本筋からそれてしまったようだ。

 冷蔵庫のあとは、地下室である。自分の家を持つ者はだれでもそうだが、ロジャーも地下室に強い愛着を持っていた。ややかびくさいにおいはしたが、そこには酒がたっぷり詰まった箱があった。そしてコンクリートの床の上で桜色の輝きを放つかまどの口は、書店主にとって大きな喜びだった。火室の真っ赤な石炭の上で、小さな青い炎が飛び跳ねる様子はじつに目に快かった――それはスミレの花のように青い、かすかな、ふんわりとした小さな炎で、上昇するガスにゆすられて伸びたり縮んだりするのだった。石炭をくべて火が隠れてしまう前に、彼はブッシュミルズ・ウイスキーの木箱を引っ張り出して、頭の上の電灯を消し、そこに腰をおろして、火床のバラ色の輝きを見ながら最後の一服を吸う。タバコの煙は熱い火によってかまどに吸いこまれ、黄金色の光のなかで灰色に乾いて見えた。ボックは彼について階段をおり、地下室をあちらこちら嗅ぎまわったり詮索して歩いた。ロジャーは不滅のたばこについてバートンが語ったことばを思い出していた。

 たばこ、神から授けられた、貴重な、このうえないたばこ、それはいかなる不老長寿の薬、王水に溶けた金、賢者の石にも勝る至高の万能薬――無闇に吸うのではなく、適度に服用し、薬として使用するなら効き目のめざましい薬草である。しかし一般的には鋳掛け屋がエールを飲むように濫用されているため、疫病、害悪と化し、財産や土地や健康をひどく損ない、地獄の悪魔のように呪われ、精神と肉体を荒廃させ滅ぼすものとなっている――

 ボックは後ろ足で立って地下室の正面の壁を見あげていた。そこには鉄格子のはまった小窓が二つあり、店の正面入り口脇のくぼんだところに面していた。彼は低いうなり声をあげ、落ち着かなげに見えた。

 「どうした、ボック?」ロジャーはパイプを吸い終えておだやかな口調でいった。

 ボックは短く、鋭く、一声吠えたが、そこには抗議するような奇妙な響きがあった。しかしロジャーの心はまだバートンとともにあった。

 「ネズミかい?」彼はいった。「さもありなん! ここはラティスボンだからな、おまえさん、吠えちゃいかんよ。『フランスキャンプの出来事』(註 ロバート・ブラウニングの詩)にはこうある。『微笑みながら、ねずみは斃れた』(註 ブラウニングの詩の最終行は「微笑みながら、少年は斃れた」)」

 ボックは冗談に取り合わず、妙に興奮して上を見ながら地下室の正面のほうへ忍び足で進んだ。彼はまた低くうなった。

 「シーッ」ロジャーがやさしくいった。「ねずみなんか気にするな、ボック。ほら、石炭をくべてベッドに行くぞ。おやおや、一時じゃないか」

第十一章 ティタニア、ベッドのなかで読書をこころみる

 オーブリーはオペラグラスを手に窓際に座ったが、すぐに自分が疲れ切っていることに気がついた。ロマンチックな英雄的行為にはやる心も疲れにはかなわない。夢を追い求める者すべてにとって手ごわい敵である。その日は長い一日だったし、前日は頭をかち割られそうになった。窓を押し上げ、冷たい風にあたりながら、彼はかろうじて目を開けていた。うとうととしかけたときに、通りのむこう側から足音が聞こえてきた。

 それまでも何度か眠い目をこすり、ブルックリンの清らかな闇を、罪のない人々がそぞろ歩くのを見ていたのだが、しかし今度こそ待ちかまえていたものが来たようだ。その男は慎重かつ自信のある足取りで人目をはばかるように進んできた。オペラグラスは、本屋のそばの街灯の下に立ち止まった男の姿を、オーブリーの目に大きくうつした。薬屋のワイントラウブだった。

 本屋の正面は真っ暗闇で、舗道より下の部分がかすかに不思議な光を放っているだけだった。オーブリーはそれを見て変だとは思ったものの、店の入り口にオペラグラスをむけつづけた。ワイントラウブがポケットから鍵を取り出し、ひどく用心しながら鍵穴に差し込み、そっとドアを開けるのが見えた。ドアを開けたままにして、薬屋は店のなかに入った。

 「いったいなにをしているんだ?」オーブリーは怒りを覚えた。「あの野郎、自分用の鍵まで持っているぞ。まちがいない。あいつとミフリンは手を組んでいるんだ」

 一瞬彼はどうしてよいかわからなかった。下に駆けおりて通りのむこうに行くべきだろうか? 彼が躊躇しているそのとき、本屋の左の角にあわい光の筋がさした。オペラグラスをのぞくと、おぼろに見える本棚に懐中電灯の黄色い光の輪が映っていた。ワイントラウブが棚から一冊の本を引き抜くと光は消えた。つぎの瞬間、男はふたたび入り口にあらわれ、音を立てないように注意しながらドアを閉めると、ひっそりすばやく通りをむこうへ去った。すべてが終わるのに一分しかかからなかった。ドアの下のあたりに一、二分のあいだ黄色い楕円形の光が二つ見えていた。オペラグラスで見るとその光の斑点は地下室の窓だった。やがてその光も消え、すべてがおだやかな薄暗闇に包まれた。震えるような街灯の明かりのなかに、「この店には幽霊がいます」という本屋の看板が白く光った。

 オーブリーは椅子に深く腰掛けた。「なるほど」彼はひとりごちた。「あの店にぴったりの名前だ。いったいどういうことなのかさっぱりわからないぞ。やっぱりただの本泥棒なのかな。あいつとワイントラウブでにせ初版本を作ったりとか、その手の詐欺をはたらいているのだろうか? なんとかして調べたいものだが」

 彼は窓辺で見張りをつづけたが、ギッシング通りの静けさを破るものはなにもなかった。遠くのほうから高架鉄道がワーズワース・アヴェニューのカーブをきしりながら通過する音が低く聞こえてきた。通りを横切り、店のなかに飛び込んで、何事もなかったかどうか確かめるべきだろうか。しかし健全な若者ならだれでもそうだが、彼は物笑いの種になることを恐れていた。疲労が徐々に彼の懸念を麻痺させていった。遠くの教会の鐘が二時を打ち、こだました。彼は服を脱ぎ捨てベッドにもぐり込んだ。

 目を覚ましたのは日曜日の十時だった。陽の光が大きく部屋を半分に区切っていた。白いモスリンのカーテンが窓から外にはみ出し、旗のようになびいていた。オーブリーは時計を見て叫んだ。急に今までの信頼を裏切ったような気がした。道のむこうで起きていたこと、あれはなんだったのだろう?

 彼は本屋を望み見た。ギッシング通りは昼前のさわやかな静けさに包まれ明るく慎みぶかく見えた。ミフリンの家にはだれもいないようだ。最後に見たときと変わらなかったが、ただ正面の大窓の内側にいかつい緑の日よけがおろされ、本でいっぱいのアルコーブをのぞくことができなかった。

 オーブリーは部屋着のかわりに外套を着て、シャワーを探しに部屋の外に出た。おなじ階にある浴室には鍵がかかっていて、なかからたっぷり水を撥ね散らかす音が聞こえた。「いまいましいミセス・J・F・スミスめ」と彼はいった。裸足とパジャマのすねを恥ずかしく思いながら下の階に行こうとしたところ、手すり越しにミセス・シラーと宝探しトレジャー犬がなにやら家事にいそしんでいるのが見えた。パグは彼のパジャマの足を見つけてきゃんきゃんと吠えはじめた。オーブリーは冷たいシャワーを邪魔されていらいらと後じさった。彼は手早く髭を剃り服を着た。

 下におりる途中でミセス・シラーと出会った。非難がましい目つきだなと彼は思った。

 「昨日の晩、男の方が面会にいらっしゃったんですよ」と彼女はいった。「お会いできなくて残念だとおっしゃっていました」

 「帰るのが遅かったものですから」とオーブリーはいった。「名前をいいましたか?」

 「いいえ、また来るとだけ。階段でひっくり返って下宿のものがみんな起きちゃいましたの」彼女は苦々しくつけ加えた。

 彼は本屋から見られないように急いで下宿を離れた。なにごともなかったことを確かめたくて仕方がなかったが、通りのまむかいに下宿していることはミフリン夫妻に知られたくなかった。道路を斜めに横切りながら、昨夜食事をしたミルウオーキー・ランチが開いているのに気がついた。なかに入ってグレープフルーツ、ハムエッグ、コーヒー、そしてドーナッツで朝食を済ませた。彼はパイプに火をつけ、さてつぎはどうしようと考えながら窓際に座っていた。「まったく困ったことになった」と彼は思った。「どう出たところでうまくいかない。なにもしなければ、あの娘の身になにかが起きる。首を突っ込むのが早すぎると、彼女のご機嫌を損ねてしまう。ワイントラウブとあのシェフがなにを企んでいるのか、それさえわかればいいんだが」

 軽食堂はがら空きに等しかった。彼のそばで店主と店員が椅子に座って話をしていた。オーブリーは突然彼らの話にぎくりとした。

 「なあ、あの本屋のおやじ、一山当てたにちがいないぞ」

 「だれです、ミフリンですか?」

 「そうさ。今朝、店の前に止まっていた車を見たか?」

 「いいえ」

 「すげえ大型車だぜ」

 「きっと借りたんじゃないですか? どこに行くつもりだったのかな?」

 「さあね。とにかくでっかい車が入り口の前に止まっていたぜ」

 「ほら、あいつが雇ったべっぴんさんを見ました?」

 「もちろん。今頃なにをやっているのやら。彼女とドライブとしけ込んでるのかな」

 「でしょうね。ぼくだって行きたいですよ――」

 オーブリーはなにも聞かなかったかのように立ち上がり食堂を出た。あの娘は彼が寝過ごしているあいだに誘拐されたのだろうか? 武者修行の旅がとんだ失敗に終わったことを思うと彼は恥ずかしくて顔が赤くなった。最初に考えたことはワイントラウブの髭をつかんで、本屋との関係を白状させることだった。つぎに考えたのはミスタ・チャップマンに電話をして今までの経過を報告し注意をうながすことだった。しかし実際になにが起きたのかを確かめるまではどちらの行動もむだに終わりそうだ。彼は本丸の本屋に乗り込み、得体の知れない秘密をあばいてやろうと心に決めた。

 彼は裏の路地に急いでまわり、住居として使っている部屋を見まわした。二階の窓が二つ、わずかにあいていたが、人がいる気配はない。裏門はあいかわらず鍵がかかっていなかった。彼は大胆に裏庭へ入っていった。

 柵に囲まれた狭い庭は、冬の弱々しい日差しを浴びて落ち着いて見えた。一方の側には低木と多年草が生い茂っていて、その根本は藁に覆われていた。芝地は平坦でなく、草は黄褐色にしおれ、霜を浴びて葉に斑が入っていた。台所のドア――登り段をあがったところにあった――の下には、葡萄をはわせた小さな格子と丸太のベンチがあった。ロジャーが夏の夕方パイプをふかす場所である。この格子の後ろに地下室へのドアがあった。オーブリーが取っ手に手をかけると、鍵がかかっていた。

 些細なことにこだわるような気分ではなかった。本屋の謎をあばこうという彼の決意は固かった。ドアの右、煉瓦の舗石の位置に低い窓があった。埃まみれの窓ガラスを通してみると、内側には留め金が一つしかないようだ。彼は窓ガラスをかかとで蹴りつけた。ガラスが地下室の床に散らばる音とともに、低いうなり声が聞こえた。留め金をはずし、ガラスの割れた窓を押し上げ、なかをのぞいた。ボックがとまどったように首をかしげ、低いうなり声をあげていた。無意識に身体のなかからでてくるようなうなり声である。

 オーブリーはやれやれと思ったが、しかしにこやかにこういった。「やあ、ボック! いい子だ! ようし、おとなしくしてろよ!」驚いたことにボックは彼を友達と認めて尻尾をかすかに振った。けれどもうなり声はつづいている。

 「形にこだわるばかりが能じゃないってことを、犬もわかってほしいな」とオーブリーは思った。「正面の入り口から入れば、ボックはなにもいわないんだ。こんなところから入ろうとするからとまどっているだけで。とにかく、いちかばちかやるしかない」

 彼は三角形の鋭いガラスの破片がのこる窓を慎重に持ちあげて足からなかに入ろうとした。ボックが突き出された足にどれほど食いつきたいと思ったかはわからない。しかし彼は老犬であり、永年受けてきた人間のやさしさが戦闘本能を鈍らせていた。さらに彼はオーブリーをちゃんと覚えていて、そのズボンのにおいになんら敵意を感じなかった。そういうわけで彼は小さく抗議のうなり声をあげるだけで我慢したのである。彼はアイリッシュ・テリヤだが、シンフェイン党とは無縁だった。

 オーブリーは床に飛び降りると犬を撫でて、自分の幸運に感謝した。彼は地下室を見まわした。怪物でも潜んでやしないかと思っているような目つきだったが、ビール瓶の箱以上にぞっとするものはなにもなかった。彼は静かに地下室の階段をのぼりはじめた。ボックは当然興味津々といった様子で後ろからついて行った。

 「まいったな」オーブリーは思った。「家のなかをどこまでもついてこられちゃたまらない。なにかに触っただけで、すねの肉にかじりつかれるかもしれないし」

 彼が裏庭へ通じるドアをあけると、ボックは屋外を好むアイリッシュ・テリヤの本能にしたがって外に走り出た。オーブリーは急いでまたドアを閉めた。ボックの顔が割れた窓のところにあらわれ、憤慨と驚きの入りまじった奇妙な表情を浮かべてのぞき込んだので、オーブリーは声をあげて笑いそうになった。「よしよし。どうもしやしないよ。ちょいと見てまわるだけだから」

 階段をのぼるとそこは台所だった。あたりはしんと静まりかえっていた。目覚まし時計がつまずいて転びそうになるくらい大急ぎで時を刻んでいた。ゼラニウムの鉢が窓辺に飾ってある。調理用レンジは蓋が取られ、注意深く火が絶えないようにしてあり、おだやかな暖かさをまわりにまき散らしていた。暗い小さな食器室を通ると食事室だった。ここも異常はないようだ。白いヒースの鉢がテーブルの上にあり、コーンパイプが食器棚に置いてあった。「こんなに犯罪っ気のない誘拐犯の部屋など聞いたことがない。映画監督がこれよりましなセットを組むことができなかったら屈辱ものだな」

 その瞬間、頭の上から足音が聞こえた。不思議なくらいやわらかな、かすかな足音だった。とたんに彼は警戒して身がまえた。最悪の事態になりそうだった。

 二階の窓が勢いよくあいた。「ボック、裏庭でなにをしているの?」声が聞こえてきた――ひどく澄んだ、命令するような声で、なんとはなしに豪華なガラスのタンブラーを叩いたときの、か細い響きを思い出させた。ティタニアだった。

 彼は驚いて立ちつくした。するとドアがあいて階段をおりてくる音が聞こえた。どうしよう、こんなところを見つかったらおしまいだ。彼女はなんと思うだろう? 彼は食器室に飛ぶようにもどり、身体をちぢめて隅に隠れた。足音が階段の下に達したのがわかった。中央のホールからは直接台所に通じるドアがある。だから彼女が食器室を通る必要はない、と彼は思った。彼女が台所に入る音が聞こえた。

 不安のあまり彼は洗面台の下にしゃがみ込んだのだが、曲げた足が壁によりかかっていた大きなブリキのお盆に触れてしまった。それはすさまじい音を立てて床にずり落ちた。

 「ボック!」ティタニアが鋭くいった。「なにをしているの?」

 オーブリーは惨めな気持ちで犬の吠え声をまねるべきだろうかと思ったが、すでに遅かった。食器室のドアがあいてティタニアがなかをのぞいた。

 二人はどちらも恐怖の目つきで数秒間相手を見つめた。面目を失って隅っこの棚の下にしゃがんでいても、オーブリーの麻痺した感覚は、これほど美しい女性の姿は見たことがない、と彼に語りかけていた。ティタニアは青い化粧着と、訳のわからぬ奇妙なひらひらしたレースのボンネットをかぶっていた。彼女の輝く黒髪は太い二本のおさげに編まれて両肩に垂れていた。その青い目は驚きと警戒の色をありありと浮かべていたが、それはすぐさま怒りに変わった。

 「ミスタ・ギルバート!」彼女は叫んだ。彼は一瞬、彼女が笑い出すのではないかと思った。その時、新たな表情が彼女の顔に浮かんだ。彼女はなにもいわず背をむけると走り去った。二階に駆けあがる音が聞こえた。ドアがばたんと鳴り、鍵がかかった。窓が急いで閉められた。ふたたび静寂が訪れた。

 あまりの無念さにまともにものも考えられぬまま、彼は窮屈な体勢から立ち上がった。いったいどうしたらいいのだろう? どうしたらわかってもらえるだろう? 彼は痛々しいまでに悩みながら食器室の洗面台のそばに立っていた。こっそり家から出ていくべきだろうか? いや、説明もしないでそんなことはできない。それに彼は得体の知れない危険がこの家に迫っていると、いまだに確信していた。どんなにばつの悪い思いをすることになろうと、ティタニアに注意をうながさなければならない。彼女が化粧着を着てさえなければ――ことはずっと簡単だったのだが。

 彼はホールに出てきて、自信を失いそうな自分を励ましながら階段の下に立った。しばらくじっと待ってから、彼は咳払いして呼びかけた。

 「ミス・チャップマン!」

 答えはなかったが、頭の上で軽く、すばやく動く音が聞こえた。

 「ミス・チャップマン!」彼はもう一度呼んだ。

 ドアのあく音が聞こえ、冷ややかな調子の澄んだ声が一階に投げかけられた。今度は氷を入れた細めのタンブラーのような響きだった。

 「ミスタ・ギルバート!」

 「なんです?」彼は情けない声でいった。

 「タクシーを呼んでくださる?」

 落ち着いた、命令的な口調がなんとはなしに彼をいらだたせた。もちろんいろいろ問題はあっただろうが、しかし彼の行動はまったくの善意から出たものなのだ。

 「喜んで」と彼はいった。「でもその前にお話ししたいことがあります。とても重要なことなんです。怖がらせてしまったことはお詫びのしようがありませんが、ほんとうに緊急を要するんです」

 短い沈黙があった。それから彼女がいった。

 「ブルックリンておかしな場所ね。ちょっと待ってちょうだい」

 オーブリーは壁紙の模様を指でたどりながらぼんやりと立っていた。急にパイプを吸いたくてたまらなくなったが、こんな時にたばこをふかすのはエチケットに反するような気がした。

 ほどなくティタニアはいつもの服装で階段の上にあらわれた。彼女は踊り場に座り込んだ。なにもかも最悪だとオーブリーは感じた。彼女の顔が見られたならば、決まりの悪さも多少は報われるというものだ。しかし光が彼女の後ろの階段の窓から差し込み、顔が影になっていた。彼女は膝に腕をまわし、手を組んで座った。光は階段を斜めに横切り、彼女のくるぶしだけが光って見えた。彼の心は自分でも気がつかないうちに歩き慣れた道を進んだ。「シルクストッキングの広告にうってつけのすてきなポーズだ!」と彼は思った。「目も覚めるような全面広告ができるぞ。アンクルシマー社に話を持ちかけなければならないな」

 「それで?」彼女はいった。彼女は笑いをこらえることができなかった。彼の姿があまりにも哀れだったのである。彼女は吹き出し、鳥がさえずるような愛らしい笑い声をあげた。「どうしてパイプをおつけにならないの? ドイツの皇帝みたいに悲しそうだわ」

 「ミス・チャップマン。もしや――あなたがどうお考えになっているかわかりませんが、しかし今朝ここに入り込んだのは、わたしが――その、ここがあなたにとって安全な場所ではないと考えるからなんです」

 「そのようね。だからタクシーを呼んでとお願いしたの」

 「この店のまわりでおかしなことが起きています。こんなふうに独りでいるのはよくありません。あなたの身になにかがあったのではないかと不安になったんです。もちろんわたしは知らなかったんです、あなたが――あなたが――」

 彼女の頬にほのかな巴旦杏の花が咲いた。「本を読んでいたのよ」と彼女はいった。「ミスタ・ミフリンがあんまり寝床で読書する話をするから、ためしてみようと思ったの。お二人は今日いっしょに外出しようって誘ってくれたんだけど、わたしは断ったの。だって本屋さんになるんですもの、文学にすこしでも追いついておかなければならないわ。読まなければならない本がたまる一方なのよ。お二人が出て行ったあと、わたし――わたし――つまりベッドで本を読むのがみんながいうようなものかどうか、ためしてみたかったのよ」

 「ミフリンはどこに行ったんです? いったいなんだってあなたをここに置いてきぼりにしたんです?」

 「わたしにはボックがいるわ。いったいなによ、日曜の朝のブルックリンがそんなに危険とは思えないわ。お知りになりたければいいますけど、彼とミセス・ミフリンはお父さんのところへ一日遊びに出かけたんです。わたしも行くことになっていたんだけど、断ったの。それがあなたとなんの関係があって? あなたって『箱ちがい』のモリス・フィンズベリーとおなじくらい悪者ね。犬の吠え声が聞こえたとき、ちょうどその本を読んでいたのよ」

 オーブリーはだんだんいらいらしてきた。「わたしが余計な真似をしたと思っているようですが、一つ、二ついわせてください」彼は金曜日の晩に店を出てから起きたことを手短に語ったが、道のまむかいに下宿していることは省いた。

 「なにかひどく感心できないことが起きているんです。はじめミフリンは被害者なのかと思っていました。この店から貴重な本をかっぱらう陰謀があるんじゃないかと思ったんです。でもワイントラウブが自分の鍵でここに入るのを見て、気がつきました。やつとミフリンはぐるなんです。そういうことなんですよ。やつらがなにを企んでいるのかはわかりませんが、わたしはどうも気に入らない。ミフリンはお父さんに会いに行ったといいましたね。きっとあなたをだますための口実に過ぎないはずです。わたしならミスタ・チャップマンに電話して、あなたをここから連れ出すべきだといいますね」

 「ミスタ・ミフリンの悪口はやめてちょうだい」ティタニアが怒っていった。「彼はお父さんの古い友達のひとりよ。あなたがこの家に押し入って、わたしを死ぬほど怖がらせたことをミスタ・ミフリンが知ったら、なんていうかしら? 頭を殴られたことはお気の毒に思いますわ。だってそこがお弱いようなんですもの。おあいにくですが、自分の身は自分で守ります。映画と勘ちがいしないでちょうだい」

 「それじゃ、あのワイントラウブの行動をどう説明するんです? 夜中にだれかが店のなかに出たり入ったりして本を盗んでもいいんですか?」

 「そんなこと、お答えする義務はありません。説明する義務はあなたにあると思います。ワイントラウブさんはもの静かなおじさんよ。おいしいチョコレートを五番街の半値で売っているのよ。ミスタ・ミフリンが教えてくれたけど、彼はうちのお得意さまなの。きっと仕事のせいで昼間は本が読めなくて、夜中にここに来て本を借りるのよ。たぶんベッドで本を読むんでしょうね」

 「夜中に裏の路地でドイツ語を話すようなやつがもの静かなおじさんとは思えませんね。いいですか、あなたの幽霊書店はトマス・カーライルよりもっとたちの悪いなにかに取り憑かれているんですよ。これを見てください」彼はポケットから例の本の表紙を取りだし、そこに書き込まれた符号を指さした。

 「それはミフリンさんの筆跡ね」ティタニアは上の列の数字を指さしていった。「好きな本にはそういう印をつけるのよ。面白い一節を見つけたページをあらわしているの」

 「そうです。そしてこっちはワイントラウブの筆跡です」オーブリーはすみれ色のインクで書かれた番号をさしていった。「これがやつらの共謀の証拠じゃないなら、いったいなんだというんです。クロムウェルの本がここにあるなら、見せてくれませんか」

 二人は店舗に移動した。ティタニアが先に立ってかびくさい通路を進んでいった。オーブリーは確信に満ちた頑固な彼女の小さな肩を見て腹が立った。彼は彼女をつかんで揺さぶってやりたいという激しい気持ちに襲われた。彼女の輝かしい、なにも知らない青春が、薄汚れた本の納骨所にあるということが彼には不愉快だった。「彼女はこんな店にはふさわしくないんだ――『リベレイター』(註 1918年発刊の社会主義雑誌)に載ったパッカードの広告みたいなものだ」と彼は思った。

 二人は歴史のアルコーヴに立っていた。「ここにあるわ」と彼女はいった。「ううん、ちがう――これは『フリードリヒ大王の生涯』だわ」

 棚には二インチの隙間があった。クロムウェルは消えていた。

 「たぶんミスタ・ミフリンがどこかに持っていったんだと思う。昨日の晩はここにあったもの」

 「それはちがう」とオーブリーはいった。「いいですか、あれはワイントラウブが持って行ったんです。この目で見たんだ。はっきりいいましょう。戦争はけっして終わっていないんです。ワイントラウブはドイツ人。カーライルはドイツびいき――それくらいは大学で習いました。あなたの友達のミフリンも、話を聞いたかぎりでは、ドイツびいきだと思います!」

 ティタニアは頬を赤く燃え立たせて彼とむかい合った。

 「いいかげんにして!」彼女は叫んだ。「つぎはわたしのお父さんも、ついでにわたしもドイツびいきだっていうんでしょうね! ミスタ・ミフリンに直接いってもらいたいものだわ」

 「そのつもりですよ、ご心配なく」オーブリーは顔をゆがめていった。彼は絶望的なまでにティタニアのご機嫌を損ねたことを理解したが、自分の信念を曲げようとはしなかった。沈む心で彼は彼女の顔を見た。それは色あせた装丁の並ぶ棚の前にくっきりと浮かんでいた。彼女の目は深い、燃えるような青に輝き、あごは怒りに震えていた。

 「いいこと」彼女はつよい口調でいった。「わたしかあなたか、どっちかがここを出て行くのよ。あなたがまだいるつもりなら、わたしのためにタクシーを呼んでちょうだい」

 オーブリーも彼女とおなじくらいむかっ腹をたてていた。

 「帰りますよ。でもフェアに振る舞ってもらわなくちゃ困ります。ミフリンとワイントラウブの二人はなにかを企んでいる。これは誓っていいます。これから証拠をつかんであなたにお見せします。でもわたしが彼らを見張っていることは教えてはいけません。そんなことされたら、もちろんあいつらは計画を中止するでしょう。あなたがわたしをどう思おうとかまいません。でもそのことだけは約束してください」

 「なにも約束なんかできません。二度とあなたと口をきかないこと以外は。男の人は何人も見ているけど――あなたみたいな人ははじめてよ」

 「あいつらに警告しないと約束するまでここを出て行くことはできない」彼はいい返した。「いまのことはあなたを信じて打ち明けたのです。やつらはもうわたしの下宿先を知っている。これが冗談だと思いますか? 二度もわたしを消そうとしたんですよ。あなたがこのことをミフリンにもらせば、彼はほかの二人に警告するでしょう」

 「あなたは店に押し入ったことをミスタ・ミフリンに知られるのが怖いのね」彼女は嘲るようにいった。

 「そう考えるのはあなたの自由です」

 「なにも約束しませんからね!」彼女は突然あらあらしくそういった。それから顔色が変わった。挑戦的な小さな口元がゆがみ、その痛ましい曲線の両端から力が抜け落ちていくようだった。「いいわ、約束する」と彼女はいった。「それがフェアだと思うわ。どっちにしろミスタ・ミフリンには話せない。あなたにおびえたことなんか恥ずかしくて話せない。にくたらしい人。ここでたのしみながら仕事をしようと思っていたのに、あなたのおかげで台なしだわ!」

 一瞬、彼女が泣き出すのではないかという恐ろしい思いが頭をよぎった。しかし彼は映画のなかでヒロインが泣く場面を思い出し、手近にテーブルと椅子がなければそういうことにはならないはずだと思った。

 「ミス・チャップマン」と彼はいった。「申し訳なくて言葉もありません。でも誓っていいますが、わたしがしたことは真心から出たものです。まちがっていたなら、二度とわたしに話しかける必要はありません。まちがっていたなら、お父さんに――グレイ・マター社との広告契約をやめるようにいえばいい。それ以上はなにもいえません」

 その言葉の通り、彼は口がきけなくなった。彼女のためなら自分を犠牲にしても平気なつもりだった。

 彼女はなにもいわず彼を正面のドアから送り出した。

第十二章 オーブリーは他人とはちがうサービスを決意する

 若者がその日曜日のオーブリーくらいみじめな午後を過ごすことは、そう多くはないだろう。ただ一つの慰めは、彼が本屋を出てから二十分後にタクシーがやってきて(彼はそのとき寝室の窓辺に座ってふさぎ込んでいた)ティタニアが乗り込み、走り去ったことである。ラーチモントの一行に合流するのだと思い、彼女が「交戦地帯」と彼が呼んでいるところから抜け出したことを知って喜んだ。オー・ヘンリーははじめて彼に慰めを与えなかった。パイプは苦くてまずかった。ワイントラウブがなにをしているのか知りたくてたまらなかったが、昼日中にさぐりを入れる勇気はなかった。暗くなるまで待とうと彼は考えた。安息日の通りの静けさと、サッカレー大通にむかう乳母車の行列を見ながら、彼はたんなる想像上の疑惑が、彼女との友情をぶち壊しにしてしまったのだろうかと、もう一度思った。

 とうとう彼は狭苦しい寝室に我慢ができなくなった。下の階でだれかが悲しげにフルートを吹いていた。胸の張り裂けそうな思いをしている者にはひどく残酷な拷問である。下宿人が教会に行っているあいだ、疲れを知らないミセス・シラーは軽く家の掃除をしていた。隣の部屋でじゅうたん掃除機が行ったり来たりしながら単調な摩擦音を立てていた。彼はいらいらと階段をきしませて下におりたが、浴室からはいつもの水を撥ね散らかす音が聞こえた。玄関の鏡の枠には鉛筆書きのメモがあった。「ミセス・スミス、ターキントン1565にご連絡を」と書いてある。理由もなく腹を立てた彼はノートから紙を引きちぎりこう書いた。「ミセス・スミス、バース4200にご連絡を(註 温泉都市バースは浴室のバスとおなじ綴り)」彼は二階に上がって浴室のドアをノックした。「入ってこないで!」あわてた女の声が叫んだ。彼はメモをドアの下から差し込むと下宿を出た。

 風の強いプロスペクト公園の小径を歩きながら、彼は容赦なく自分を責めた。「おまえが馬鹿なことをしたおかげで彼女とは二度と会えなくなったんだぞ」彼はうめいた。「なにかを証明しないかぎりは」本棚の前に立つティタニアの顔が狂おしいまでに心に浮かんできた。「たのしみながら仕事をしようと思っていたのに、あなたのおかげで台なしだわ!」つぎの彼女の言葉には、どれだけ怒りに満ちた確信がこもっていただろう。「男の人は何人も見ているけど――あなたみたいな人ははじめてよ!」

 心は千々に乱れていても使い慣れた業界の言葉づかいが自然と口をついて出た。「すくなくとも『他人とはちがう』ことを認めてくれたわけだ」彼は悲しげにいった。彼はグレイ・マター社社訓集の第一条を思い出した。それは雇い主が販売員の参考のために出した気のきいた小冊子だった。

 「ビジネスは『信頼』のうえに築かれる。グレイ・マター社のサービスをクライアントに売り込む前に、自分自身を売り込まなければならない」

 「どうやって彼女にぼくを売り込むか?」彼は考え込んだ。「とにかくやれることをやるしかない。他人とはちがうサービスをするしかないんだ。ここでくじけたら、彼女は二度とぼくに話しかけてくれないぞ。それだけじゃなくて、会社は父親のひいきを失ってしまう。考えられない話だ」

 考えられないとはいいつつも、彼はそのことをさんざん考えた。長々とつづく広告板のそばを歩いていたので(彼はフラットブッシュの郊外にむかっていた)、ときどき広告のアイデアが頭に浮かんできた。彼は広告板にチャップマン・プルーンを宣伝する色鮮やかなリトグラフが張られているさまを想像した。「アダムとイブは新婚旅行でプルーンを食べた」という標語が頭にひらめき、この文句にすばらしい絵が添えられているところを思い描いた。このように男というものはだれでも苦悩の時間にみずからが選んだ専門分野に慰めを求めるのだ。運命に打ちのめされた詩人は精妙な脚韻で傷を癒す。禁酒法支持者はほかの人が禁酒に苦しむ様子を思い描いて、憂鬱のどん底を切り抜ける。デトロイト市民はどれほどつらい目にあっても修理する自動車があるかぎり自分の手で命を断つことはない。

 何マイルも歩くうちに、オーブリーの絶望的な気分は徐々に風に吹き飛ばされて消えていった。ゼウスの陽気な双子の息子、オリソン・スウェット・マーデン(註 実業家。楽観主義を基底にしたビジネス書で有名)とラルフ・ウォルド・トライン(註 ヘンリー・フォードにも影響を与えた新思想の主導者)の朗らかな精神が彼に寄り添っていて、不可能なことなどなにもないことを思い出させてくれたようだった。とある小さなレストランにはソーセージとシロップのかかったホットケーキがあった。ギッシング通りにもどるとあたりは暗くなっていた。彼はさらなる奮闘にむけて気を引き締めた。

 九時頃、彼は裏の路地を歩いていた。彼はミセス・シラーの下宿の部屋に外套とクロムウェルの表紙を置いてきていた――しかし書き込みは用心してポケットのメモ用紙に写してあった。本屋の裏の明かりを見て、ミフリン夫妻と雇い人が無事家に着いたことを知った。ワイントラウブの薬局の裏に来たときは、建物の外郭を注意して調べた。

 薬屋は前にも説明したようにギッシング通りとワーズワース・アヴェニューの交差する角に建っていた。ちょうど高架鉄道が長いカーブを描いてまわり込んできている場所である。このカーブを支えるために高架道の足場が建物の裏の屋根から突き出していて、オーブリーは前の日、その事実をしっかりと観察し目に焼きつけていた。薬局の正面は三階建てだったが、後ろの方はがくんと落ち込んで二階建てになっており、平らな屋根がのっかっていた。この屋根から窓が二つのぞいていた。ワイントラウブの裏庭は路地に面していたが、門は閉まっていた。柵をよじ登るのはむずしくなかったものの、そこまで露骨な手段に訴えることはためらわれた。

 彼は最寄りの階段をつかって高架鉄道の駅にあがった。五セントを払って回転ゲートを抜け、プラットフォームに出る。列車が走り去るのを待ち、風が吹きすさぶ長い厚板のプラットフォームにだれもいないことを確かめると、線路脇を走る細い歩道に飛びおりた。帯電している第三レールのすぐそばだったので、用心ぶかく歩かなければならなかったが、外側に張りつくようにしてなにごともなく進むことができた。十五フィートほどの間隔を置いて大梁がレールと直角に交わるようにわたされ、下の通りから垂直に延びる支柱に支えられていた。四つ目の大梁はワイントラウブの家の裏の隅に突きだしていて、彼はそれに沿ってそろりそろりと這うように進んだ。下の舗道には通行人がいるので、見つかりはしないかとびくびくしなければならなかったが、しかし梁の先端まで無事たどり着くことができた。ここから十二フィートほどの高さを飛びおりればワイントラウブ薬局の裏側の屋根にいける。一瞬彼は、そこにおりてしまえばおなじ経路でもどることはできないのだと思った。しかしその危険は承知でやらなければならない。梁の上にまたがって脚をぶらぶらさせている彼の姿は人目を引く危険性がおおいにあった。

 彼はそのとき外套を持ってこなかったことを後悔した。というのは外套を先に落としてその上に飛びおりれば着地したときに音が響かないだろうからだ。彼は上着を脱ぎ、屋根の片隅に慎重に落とした。それから手でぶら下がるようにしてできるだけ身体を低い位置に持っていき、列車が頭上を通り、その轟音でほかのすべての音を消す瞬間を抜け目なくねらって手を放した。

 数分間、彼はブリキの屋根の上にうつむけに横たわっていた。そのあいだにいくつもの苦々しい思いが頭に浮かんできた。本気でワイントラウブの家に忍び込むつもりなら、なぜもっと綿密な計画を練らなかったのか? たとえば、なぜ家のなかに人が何人いるのか確かめなかったのか? なぜ友達のひとりと時間をしめし合わせてワイントラウブに電話をかけてもらい、家に侵入しても気づかれないよう、より確実な手立てを工夫しなかったのか? それに家に入ったらなにを見、なにをしようというつもりなのか? 彼はこうした質問にまったく答えることができなかった。

 外はやけに寒く、上着を着直したときはほっとした。小型拳銃はまだ尻ポケットのなかだ。べつの考えが浮かんできた――それはテニスシューズを履いてくるべきだったということだった。しかし彼が履いているゴムヒールの靴はアメリカ全土で宣伝されているブランドなのだと思うとなんとなく安心できた。彼は一つの窓の下枠まで静かに這っていった。窓は閉まっていて、部屋の内部は暗かった。ブラインドがほとんど下までさがっていたが四インチほどの隙間が空いていた。用心しながら下枠からのぞき込むと、奥のほうに明るい光を浴びたドアと通路が見えた。

 「一つだけ気をつけなければならないのは、子供たちだな。きっと二人以上いるだろう――子供のいないドイツ人なんて聞いたことがない。起こしたりしたら、泣きわめかれる。この部屋は南東をむいているから、たぶん子供部屋だろう。それに窓ががっちり閉まっている。たぶんドイツ人は寝室の通気にはこれがいいと思っているんだ」

 彼の推測はそう的はずれでもなかったようだ。というのは目が薄暗がりに慣れると、子供用ベッドが二つ見えたような気がしたからだ。それからべつの窓の方へ這っていった。こちらはブラインドが窓枠の下まできっちり下りていた。慎重に窓を持ち上げてみると鍵がかかっている。どうしたらいいのかわからなかったので、最初の窓にもどり、腹ばいになってのぞき込んだ。窓枠は屋根よりわずかに高い位置にあり、なかを見るには手を突いて身体をすこしだけ浮かす必要があったが、これはなかなかにつらい姿勢だった。しかもブリキ板の屋根は動くと騒々しくつぶれやすい。しばらく寒さに震え、パイプを吸っても大丈夫だろうかと思いながらはいつくばっていた。

 「もう一つ気をつけるべきことがあるぞ」と彼は思った。「それは犬だ。ダックスフントを飼っていないドイツ人なんて聞いたことがないからな」

 明かりに照らし出されたドアを長いこと見つめていたがなにも起きず、これでは時間のむだだと思いはじめたとき、恰幅のいい、人の良さそうな女が廊下にあらわれた。彼女は彼が観察していた部屋に入ってドアを閉めた。電気をつけ、恐ろしいことに服を脱ぎはじめた。まったく予想もしていなかったことなので、彼は急いで退却した。こんなところにいてもなにも得るものがないことは明らかだった。びくびくしながら屋根の一方の端に座り込んで、つぎにどうしようかと考えた。

 そうするうちに、ほぼちょうど真下にある裏口のドアがあき、ドアの前の階段脇に置いてあるゴミ入れがガチャンと鳴った。ドアはおそらく三十秒ほどあいていただろう。男の声――ワイントラウブの声だ、と彼は思った――がドイツ語を話していた。生まれてはじめて大学のドイツ語講師がここにいたら助かるのに、と思い――その場とはまったく関係のないことだが――あの講師は今どうやって生計を立てているのだろうとちらりと思った。末尾の動詞がおもおもしく響く、長々しくて、いかつい文だったが、彼は重要と思われる一節を聞き取った。「ナッハ・フィラデルフィア・ゲーエン」――「フィラデルフィアに行く」

 ミフリンのことだろうか? と彼は思った。

 ドアがまた閉まった。雨樋越しに身を乗り出してみると、台所の明かりが消えた。すぐ足下の窓の上部からなかをのぞこうとしたのだが、身を乗り出しすぎて、手にしたブリキの樋がぐにゃりと曲がった。どうやったのか自分でもわからないが、彼は壁に沿ってすべり落ち、足が窓枠をとらえた。手は頭の上のブリキの雨樋をつかんだままだった。急いでその姿勢から下におりると、裏口のドアが目の前にあった。念入りに計画を練ったとしてもこれ以上静かにはおりられなかっただろう。しかし彼はひどくあたふたして、勘づかれたのではなかろうかと、庭の端に身を隠した。

 数分待っても恐れていたことは起きなかったので、彼は勇気を出した。家の奥のほう――ワーズワース・アヴェニューから離れたほう――には舗装した小径がついていて、その先には屋外から地下室に通じる、斜めにかしいだ旧式のドアがあった。彼はそれを油断なく見つめた。路地に面した窓の一つから明るい光がさしていた。彼は四つんばいになってその窓の下へ這っていったが、のぞき込む前にもうすこしあたりを調べることにした。地下室に通じるドアの、片方の扉が開いていたので、隙間に鼻を突っ込んでみた。下は真っ暗だったが、塗料と薬品の強い湿ったにおいが立ちのぼってきた。用心しながらくんくんとにおいをかいでみた。「この下に薬をしまっているんだな」と彼は思った。

 注意しながら四つんばいのまま明かりのともる窓のほうへ這ってもどった。一度に数インチずつ頭をあげ、とうとう窓枠より上に目を持っていった。残念なことに窓の下半分はすりガラスだった。壁に取りつけられたパイプから突然液体が噴き出し、地面についていた膝にかかった。においを嗅ぐと、またしても強烈な酸のにおいだ。細心の注意を払って、煉瓦の壁にもたれながら立ち上がり、窓の上半分からなかを盗み見た。

 薬を調合する部屋のようだった。人がいなかったので、急いでなかを見わたした。壁に沿ってさまざまな瓶が並んでいる。秤が載っている背の高いカウンター、机、流し。奥には店舗のほうから見えた竹のカーテンがかかっていた。どこもかしこもひどく散らかっていた。すり鉢、ビーカー、タイプライター、分類棚、フックで留めた古い埃だらけの処方箋の束、錠剤とカプセルの紙袋、それらすべてが乱雑に置かれていた。三脚台に載せられたガラスの器のなかでなにかの混合液が青いガスの炎に熱せられていた。とりわけオーブリーの注意を引いたのは、カウンターの一方の端に無造作に積まれた、高さ数フィートにもなろうとする古本の山だった。

 さらにもっと気をつけてみると、調剤台の上にある、鏡と思われたものは、じつは店のなかをのぞくのぞき穴だった。そこを通してワイントラウブが葉巻のケースの後ろに立ち、夜おそく訪れた客にたいしていつもの商売用の愛想を振りまいているのが見えた。客が立ち去るとワイントラウブはドアに鍵をかけ、ブラインドをおろした。そのあと調剤室にもどってきたので、オーブリーは見つからないように頭を引っ込めた。

 ほどなく危険を承知でもう一度なかをのぞくと、そこには奇妙な光景があった。薬屋はカウンターの上にかがみこんでなにかの液体をガラス容器に注いでいた。彼の顔はぶら下がっている電灯の真下にあり、オーブリーはその変貌ぶりに驚いた。葉巻とソーダ水を売る、一見にこやかな薬屋の表情は消え、そのかわりに重苦しい、残忍な、顎の大きな顔があった。まぶたが目の上に垂れかかり、巨大な顎の先は四角く突き出、脂肪のついた頬は油ぎって光っている。その顎が強い感情を抑えるかのようにかすかに震えた。男は仕事に完全にのめり込んでいた。肉の厚い下唇が上唇をなめた。頬骨の上には深くて赤い傷痕があった。オーブリーはその忌まわしいほど残忍な仮面が持つ荒々しい迫力に、身がすくむような驚きを感じた。

 「これがもの静かなおじさんの正体か!」

 ちょうどその時、竹のカーテンがひらいて二階で見た女があらわれた。オーブリーは我を忘れてじっと見つめた。彼女は色あせた部屋着を着て、これから寝ようとしているかのように髪の毛を編んでいた。彼女は怯えているようだった。唇が動くのが見えたから、なにかしゃべったにちがいない。男は液体の最後の一滴を注ぐまでカウンターにかがみつづけた。口をきっと引き締めると急に身体を起こし、腕を伸ばして命令するように指さしながら、彼女のほうに一歩近づいた。オーブリーは彼の顔がはっきりと見えた。そこには獣以上の獰猛さがあった。女の顔はおどおどした、懇願するような表情を浮かべて語りかけるのだが、荒々しい仕草の前にはなすすべがなかった。彼女はくるりとむきを変え姿を消した。オーブリーは薬屋のさし示す指が震えているのを見た。彼はふたたび頭を引っ込めた。「人ごみのなかで見たらさびしそうに見えるような顔なんだがな」と彼は思った。「それに映画で見る表情はなんでも誇張されているものと思っていたが。ふむ、あいつはセダ・バラ(註 妖婦役で有名な俳優)の相手役を演じるべきだ」

 彼は舗装した小径に張りつくように身を伏せた。もうちょっと探りを入れることができれば、大きな手がかりがつかめそうな気がした。上の窓の明かりが消えたので、彼は必要ならすばやく動くことができるように身がまえた。もしかすると男は地下室のドアを閉めに外に出てくるかもしれない――

 そう思ったときに小径のむこう、彼と台所のあいだに、光るものが見えた。光は地面に接した小さな格子窓からさしていた。どうやら薬屋は地下室におりていったようだ。オーブリーは音を立てずに這ってそちらにむかった。明かりのともる窓ガラスに近づき、壁に張りついてなかをのぞいた。

 窓があまりに汚れていてはっきりとは見えなかったが、どうやら化学実験室と機械の修理工場を組み合わせたような場所だった。長い作業台が数個の電灯に照らされている。その上には妙な形のガラス瓶と雑多な道具がのっていた。ブリキの板、いくつもの銅管、ガスバーナー、万力、シリンダーのついた煮沸器、色つきの液体が入った大きな広口瓶。にぶいうなるような音も聞こえたが、それはモーターとベルトでつながれた、回転する機械から聞こえてくるようだ。もっとはっきり見えないものかと目をこらしているうちに、ガラスの汚れと思っていたものが、じつは内側から白色塗料を塗りつけたものだとわかった。それが一ケ所だけ剥げ落ちてのぞき穴になっていたのである。いちばん彼を驚かしたのは作業台のまわりに散らかっている多くの本の表紙だった。そのうちの一つは「クロムウェル伝」だと断言できた。あかるい青の表紙布はもうおなじみだった。

 その晩二度目であったが、オーブリーはかつての彼の先生がその場にいたら助かるのに、と思った。「化学の教授がここにいてくれさえしたら。いったいなにを企んでいるんだろう。あいつが調剤した薬を飲むのはごめんだな」

 長い時間夜気にさらされ、歯がかちかちと鳴った。しかも身体を伏せていた溝には、調剤室の流しから排水が流れてくるらしく、ずぶ濡れになってしまった。薬屋は彼に背中をむけていたため、地下室でなにをしているのかわからなかった。彼はもう充分に一晩分のスリルを味わったように感じた。這うようにして裏庭にもどり、散らかったからの箱のあいだを注意しながら歩いた。頭の上で高架鉄道の列車が轟音を立て、明るく電気に輝く車両がカーブを回って通り過ぎた。列車の音が鳴り響いているあいだに柵を乗り越え、路地に飛びおりた。

 「さてさて。あのボルシェビキ総司令本部でなにが起きているのか教えてくれる人がいたら、ベン・フランクリンが創刊した雑誌の好きな場所に全面広告をのせてやってもいいぞ。なんだかオクタゴン・ホテルを地図の上から消す準備をしているみたいだ」

 ワーズワース・アヴェニューに出ると、まだあいている菓子屋があったので、身体をあたためるために熱いチョコレートを一杯飲みに入った。「この仕事の必要経費は少々高くつきそうだ」と彼はひとり思った。「これはデインティビッツに請求しなければならないな。まさしくグレイ・マター社はほかとはちがうサービスを提供する! わが社はチャップマンの製品を大衆に宣伝するだけじゃなく、ブルックリンを襲う恐怖にたちむかい、彼の家族を犯罪から守るのだ。それにしても本屋がつきあっているあの相手は気に入らない。もしも『フィラデルフィアにナッハ・フィラデルフィア』が合図なら、ひとつ跡をつけてやろう。朝になったらフィラデルフィアに出発だ!」

第十三章 ラドロー通りの戦い

 オーブリーは意志の力と意識下にひそむ時間感覚だけをたよりに、つぎの日の朝六時に起床した。魅力的な若い娘にこれくらい心のこもった行為が捧げられることは、そう滅多にあることではない。若者は真剣に、原始人のように一心に眠った。それは彼にとってほとんど宗教的な儀式だった。ある二流の詩人が言ったように、彼は「眠りを生涯の仕事とした」のだ。

 しかしロジャーがどの列車に乗るのかわからなかった彼は、絶対にその跡を見失うわけにはいかなかったのである。六時十五分には彼はミルウォーキー・ランチでコーヒーとコーンビーフのハヤシ料理を食べていた(この店に閉店時間はない――「当店は『最後の審判の日』まで営業します。女性専用テーブルあり」と看板には書かれている)。慣れない早起きにはつきものの軽い憂鬱感にひたりながら、彼は近くて遠いティタニアのことを慈しむように考えた。彼には好きなだけ空想にふける時間があった。地下鉄へ急ぐロジャーがあらわれたのは七時十分過ぎだったからである。オーブリーは見つからないように慎重に距離を置いて跡をつけた。

 書店主と追跡者はともにペンシルベニア駅で八時の汽車に乗ったが、二人の気分には雲泥の差があった。ロジャーにとってこの遠出は単純に心浮きたつ遊山の旅だった。店に縛られていた期間があまりにも長かったため、一日じゅう外に出ていられるなど夢のような話だった。葉巻を二本買い――めったにない贅沢だ――列車がハッケンサックの沼沢地をがたごとと通り過ぎるあいだ、朝刊を膝の上に置きっぱなしにしていた。彼はオールダム蔵書の鑑定に呼ばれたことをたいへんな誇りに感じていた。ミスタ・オールダムはきわめて著名な蒐集家で、裕福なフィラデルフィアの商売人だった。ジョンソン、ラム、キーツ、ブレイクのえり抜かれた蒐集本は世界じゅうの好事家の羨望の的である。ロジャーは自分よりも名の知られた業者がたくさんいて、彼らがこのコレクションを調べて鑑定料を手にする機会に飛びつくであろうことをよく知っていた。長距離電話で聞いたところによると、ミスタ・オールダムはコレクションを売ることになり、オークションに出す前に今の市場でどれくらいの値がつくものか、専門家の意見をあおぎたいということだった。ロジャーは稀覯本や手書き原稿の今の相場にはあまり通じていなかったので、旅のほとんどは注釈つきのカタログで最近売買された本を見ながら過ごした。その本はミスタ・チャップマンが貸してくれたものだった。「今回の招待は、いつもわたしがいっていたことの証明だな。どんな分野であろうと、芸術家はたんなる商売人以上のものとしていつかは認められるのだ。どこで聞きつけたのか、ミスタ・オールダムはわたしが古書の販売をやっているだけでなく、その愛好家でもあることを知ったのだろう。彼は宝物の鑑定人として、本を蝋燭のようにあきなう連中ではなく、わたしを選んだというわけだ」

 オーブリーの気分は書店主のしあわせな気分とはまったくの正反対だった。まず第一にロジャーは喫煙車に座っていたが、オーブリーは見つかるのを恐れておなじ車両には入らず、パイプなしで我慢しなければならなかった。彼は二両目の最前列に陣取り、ときどきガラスのドアを通して、安物のハバナの煙に包まれた、獲物のはげた後頭部に視線を飛ばした。第二にワイントラウブがおなじ列車に乗るものと期待して、改札口を最後の瞬間まで見張ったのだが、ドイツ人はあらわれなかった。ワイントラウブの昨夜の言葉から、薬屋と本屋がいっしょに任務に当たるものと決めつけていたのだ。あきらかに彼の勘ちがいだった。彼は爪をかみ、飛ぶように流れる風景をにらみつけ、ちくちくと痛む胸のなかでさまざまな心配事に思いをめぐらせた。気がかりの一つはニューヨークにもどるだけの充分な持ち合わせがなく、フィラデルフィアでだれかに借金するか、事務所に電報して送金を頼まなければならないことだった。この冒険に乗り出したとき、出費がこれほどかさむとは思ってもいなかった。

 列車は十時にブロードストリート駅に着き、オーブリーは終着駅の人ごみを縫い、市庁舎プラザをまわって書店主の跡をつけた。ミフリンは道を知っているようだったが、グレイ・マター社の注文取りはそれほどフィラデルフィアの地理にくわしくなかった。彼はサウス・ブロード通りの立派な眺めにすっかり驚き、たった今ニューヨークから来たばかりだというのに、舗道をにぎわす人びとに傍若無人にもみくちゃにされ、くやしく思った。

 ロジャーはブロード通りの巨大なオフィスビルに入り、急行エレベータに乗った。オーブリーはおなじエレベータに乗る勇気はなかったので、ロビーで待つことにした。彼はエレベータの操縦係から建物の反対側にべつのエレベータがあることを知った。そこで操縦係に二十五セント銀貨を一枚わたして見張りの役を頼み、見逃すことがないようミフリンの容貌を正確に教えた。そのときにはオーブリーはすっかり不機嫌になっていて、エレベーターの位置をあらわす表示器をめぐって操縦係に口論をふっかけるありさまだった。この建物の表示器はガラスチューブでできていて、色のついた液体が上下してエレベータの動きを表示するのだが、それを見てオーブリーはいらただしげに、こんな旧式の仕掛けはニューヨークではとうの昔に使われなくなっているといったのだ。操縦係は、ここがいやならニューヨークに帰ったらどうです? 二時間しか離れてないんですから、といい返した。このいい争いのおかげで時間が早く過ぎた。

 一方、ロジャーは町の外から来た著名人として歓待されることを期待してうきうきしながらミスタ・オールダムの贅沢なスイートに足を踏み入れた。ブラウスがやや透けすぎの、きれいな若い女性が、なんのご用でしょうと、彼にたずねた。

 「ミスタ・オールダムに会いたいのですが」

 「どちらさまでしょう?」

 「ミフリン――ブルックリンのミフリンです」

 「お約束ですか?」

 「そうです」

 ロジャーは期待に胸を躍らせて待った。そこにあったのはぴかぴかに光るマホガニー製のオフィス家具、きらめく緑の水差し、音を立てずてきぱきと動きまわる若い女性たちの姿だった。「フィラデルフィアの女の子はびっくりするほど美人だな」と彼は思った。「しかしミス・ティタニアとは比べものにならないが」

 さきほどの若い女性がいささか困惑した様子で専用事務室からもどってきた。

 「ミスタ・オールダムとお約束がございましたか? 覚えていないとのことなんですが」

 「ええ、まちがいありませんよ」とロジャーはいった。「土曜日の午後、電話で決めたんです。ミスタ・オールダムの秘書から連絡がありました」

 「お名前をもう一度伺ってもよろしいでしょうか?」彼女はそういって Mr. Miflin と書いた紙切れを見せた。

 「f が二つです」とロジャーがいった。「ミスタ・ロジャー・ミフリンです。書店主をしています」

 女性はひっこんで、またすぐもどってきた。

 「ミスタ・オールダムは取り込んでいるのですが、すこしだけならお会いするとのことです」

 ロジャーは専用事務室に案内された。大きな、風通しのいい、本棚の並ぶ部屋だった。白く短い髪に、生き生きした黒目を持つ長身痩躯のミスタ・オールダムは礼儀正しく机から立ちあがった。

 「はじめまして」と彼はいった。「申し訳ありません。ですが、約束が思い出せないのですよ」

 こりゃ相当なうっかり屋にちがいないぞ、とロジャーは思った。五十万ドルのコレクションを売る手配をして、すっかり忘れてしまうんだからな。

 「あなたにいわれてここに来たのですよ。コレクションの売買の件で」

 ロジャーはミスタ・オールダムの目つきがなんとなく鋭くなった気がした。

 「お買い求めになりたい、ということですか?」

 「わたしがですか?」ロジャーはむっとしたようにいった。「ちがいます。コレクションの見積もりに来たんです。あなたの秘書から土曜日に電話がありました」

 「失礼ですが、なにかのまちがいでしょう。わたしはコレクションを売る気は全然ありません。あなたに連絡したこともありませんよ」

 ロジャーはあっけにとられた。

 「なんですって」彼は声が大きくなった。「あなたの秘書が土曜日に電話してきて、今日の朝、ぜひともわたしに本の鑑定をしてもらいたいと、あなたが要望しているといったのですよ。そのためにブルックリンから出てきたんです」

 ミスタ・オールダムがブザーに触れると、中年の女性が事務室に入ってきた。「ミス・パターソン、土曜日にミスタ・ミフリンに依頼の電話を――」

 「電話してきたのは男でした」

 「非常に申し訳ないんですがね、ミスタ・ミフリン」とミスタ・オールダムがいった。「お気の毒ながら――だれかにかつがれたようですな。さきほどお話ししたように、そしてミス・パターソンが証明してくれるはずだが、本を売る気はまったくないし、そんなことを許可したこともありません」

 ロジャーは困惑と怒りでいっぱいだった。コーンパイプ・クラブのだれかに一杯食わされたんだ、と彼は思った。喜び勇んだ自分の単純さかげんを思い返し、痛ましいほど顔が赤らんだ。

 「どうかお気を取り直してください」ミスタ・オールダムは小男の腹立ちを見ていった。「むだ足を踏んだとお考えになることはありません。今晩、郊外のわたしのうちで夕ご飯を食べて蔵書を見ていきませんか?」

 しかしロジャーはプライドが高すぎて、この思いやりのある慰めの言葉を受け入れることができなかった。

 「すみませんが、お招きに預かることはできません。店の仕事が忙しいですし、緊急の用件だと思ってこちらに来ただけですから」

 「それではまたべつの機会にでも」とミスタ・オールダムはいった。「そうだ、あなたは本屋さんなんですね。あなたのお店は知らないけれども、名刺をいただけませんか。今度ニューヨークに行ったら、立ち寄りたいと思います」

 ロジャーは相手の儀礼的な誘いを断りつつ、できるだけいそいで退去した。自分のきまりの悪い立場にひどくいらいらし、通りに出るまで自由に息をすることもできなかった。

 「ジェリー・グラッドフィストのくだらない冗談だな。絶対まちがいない」彼はつぶやいた。「ファニー・ケリー(註 1864年スー族によって五ケ月間囚われの身となり、その回想録で有名になった)の名にかけて、とっくりお灸を据えてやる」

 ふたたび跡をつけはじめたオーブリーでさえロジャーの怒りに気がついた。

 「ご機嫌斜めだな。なにに腹を立てているんだろう」

 彼らはブロード通りをわたった。それからロジャーはチェスナット通りを歩きはじめた。オーブリーは書店主がある建物の入り口前で足を止め、パイプに火をつけるのを見ると、自分も数ヤード手前で足を止め、市庁舎のウィリアム・ペンの銅像を見上げた。風の強い日で、折からの突風に彼の帽子が吹き飛ばされ、ブロード通りをころころと転がった。彼は半ブロック走ってようやく帽子をつかまえることができた。チェスナット通りにもどるとロジャーの姿はなかった。彼はチェスナット通りを急いで進んだ。あせって何人もの歩行者にぶつかったが、十三丁目まできて、がっかりして立ち止まった。小柄な書店主はどこにも見あたらなかった。街角に立つ警察官に話しかけてみたが、なにもわからない。そのブロックを探しまわり、ジュニパー通りを走って行ったり来たりしたが、結局徒労におわった。時間は十一時で、通りは混雑していた。

 彼は南北両半球の書籍業を呪い、自分自身を呪い、フィラデルフィアを呪った。それからたばこ屋に入って、たばこを一箱買った。

 もしかしたらロジャーに出くわすかも知れないと、彼は一時間あまりチェスナット通りの両側を歩いてまわった。そのとき、ふとある新聞社を目の前に見い出し、そこの編集部で古い友人が論説委員をしていることを思い出した。彼はなかに入り、エレベータで上にあがった。

 友人は汚れた小部屋のなかで書類の海に囲まれ、テーブルに足を載せたままパイプをふかしていた。彼らはうれしそうに挨拶をした。

 「おやおや、だれかと思ったら!」おどけた新聞記者が大声でいった。「ほかでもないタンバレイン大王じゃないか! いったいこんな辺境の地になんのご用かな?」

 オーブリーは大学時代の古いニックネームを使われ、にやっと笑った。

 「昼飯をいっしょに食べようと思ってきたんだ。それから家に帰るためのお金を借りようと思ってね」

 「月曜日にか?」相手は叫んだ。「このあたりじゃ火曜日が給料日だっていうのに? いやいや、左様なことはおっしゃいますな」

 彼らは静かなイタリア・レストランで昼飯を食べ、オーブリーは手短に過去数日間の冒険を物語った。新聞記者は話が終わったとき、考え込むようにパイプをふかしていた。

 「その娘を見てみたいな」と彼はいった。「タンボよ、君の話にはまことの響きあり。怒りと叫びにみちてはいるが、ちゃんと意味はあるようだ。その男は古本屋なんだね」

 「そうだ」

 「じゃあ、彼のいる場所はわかる」

 「いいかげんなことをいうなよ!」

 「調べる価値はあるよ。南九丁目九番地のリアリーに行けよ。この通りの先だ。連れて行ってやる」

 「よし、行こう」オーブリーはすぐにいった。

 「それだけじゃないぞ。おれの最後の五ドル札を貸してやろう。おまえのためじゃなくて、その娘さんのためにな。おれの名前くらい伝えてくれよ」

 チェスナット通りに着いたとき彼は指さした。「この一ブロック先さ。いや、ついていくわけにはいかない。ウィルソンが今日、議会で演説するし、大ニュースが入電することになっているんだ。じゃあ、きみ、さようなら。結婚式に招待してくれ!」

 オーブリーはリアリーがなんの店なのか見当もつかず、居酒屋のようなものを想像していた。しかしそこに着いてみると、なぜ友達がそこをロジャーのうろつきそうな場所といったのかがわかった。女性が花嫁を見ずに結婚式のお祝いパーティーの脇を通り過ぎることができないように、愛書家であればだれもがこの有名な古本屋に立ち寄らずにはいられないだろう。荒涼とした日で、通りを冷たい風が吹きすぎていったが、店頭の平台には人だかりがして、ごちゃごちゃに積み上げられた本を引っかきまわしていた。なかを見ると白い書棚がずらりと並んでいて、色とりどりの装丁がつづれ織りのように建物のはるか奥までつづいていた。

 彼はいさんでなかに入り、あたりを見まわした。店のなかは適度な混み具合で、大勢の人が立ち読みをしていた。彼らは後ろから見ると普通そのものだが、目には書籍狂の興奮した、食い入るような光が宿っていた。あちらこちらに店員が立っていて、オーブリーはその表情に古本屋らしい静かに瞑想するような落ち着きを認めた――もっともミフリンをのぞいた古本屋という意味だが。

 彼は細い通路を歩きながら、しあわせそうに掘り出し物を探す人々を眺めた。地下の教育書部門へおり、二階の医学書を陳列した回廊に行き、さらに奥の一段と床の高いドラマおよびペンシルベニアの歴史書コーナーにも行ってみた。ロジャーの姿はどこにもなかった。階段下の机に、痩せた、まじめで親切そうな書誌研究家が座っていて、巨大な目録に目を通していた。彼はふとあることを思いついた。

 「カーライルの『クロムウェル伝』はあるかい?」

 相手は顔をあげた。

 「残念ですが切らしています。ほんの数分前にべつのお客さまもおなじ本をお尋ねになりましたよ」

 「なんてことだ!」オーブリーは大げさにいった。「買っていったのか?」

 客がこんなふうに力んでも、書店主はとくに驚かない。初版本をあさる連中の奇癖には慣れっこなのである。

 「いいえ。店に本がなかったんです。長いこと店には置いてないですね」

 「その客は赤い髭を生やした、明るい青い目のはげた小男か?」オーブリーはしわがれた声で聞いた。

 「ええ――ブルックリンのミスタ・ミフリンですよ。ご存じですか?」

 「知っているとも!」オーブリーは叫んだ。「どこに行ってしまったんだ? やつの跡を、町じゅう追い回していたんだ、あの悪党め!」

 沈着な書店主は風変わりな客をたくさん見てきたのでこの質問者の激しい口調にもびくともしなかった。

 「ちょっと前にここにいらしたんですよ」彼はおだやかにいい、軽い興味を抱いたかのように、いきり立つ若い宣伝マンを見つめた。「外で見つかるんじゃないでしょうか、ラドロー通りで」

 「それはどっちの方だ?」

 背の高い男――べつに名前で呼ぶのを躊躇するいわれはないのだから、フィリップ・ウォーナーと呼ぼう――の説明によると、ラドロー通りはリアリーの一方の側に面した細い裏通りで、店の後ろで直角に曲がっているという。この狭い小路にそって店の側面には差し掛け屋根がわたされ、その下に本棚が並んでいた。そこはリアリーが十セントの均一本――つつましい購買者の心をひく奇妙に黒ずんだ本――を並べている場所だった。この年季の入った棚に沿って、多くの悩める魂がしあわせをつかもうと可能な限り接近したのだった――結局、しあわせは(おそらく数学者が言うように)曲線上にあるのであり、わたしたちはそれに漸近線のようにしか近づくことができないのである――この小路をよく訪れる人びとは自分たちのことをいたずらっぽく「ラドロー通りビジネスマン連合」と称し、毎年行う晩餐会ではメンバーがその年の最高の掘り出し物について発表をするのだが、チャールズ・ラムやユージーン・フィールドならその司会役になることを名誉に思ったことだろう。

 オーブリーは店を飛び出し小路を眺めた。ラドロー通りビジネスマン連合が六人ほど棚に手を伸ばしていた。そのいちばんむこう端にロジャーがいた。小さな顔を開いた本のあいだに突っ込んでいる。彼はずんずんと大股に近づいた。

 「やあ」彼は怒った声でいった。「ここにいたな!」

 ロジャーは機嫌よく本から顔をあげた。趣味に熱中して自分がどこにいるかも忘れてしまったようだ。

 「おや!」と彼はいった。「ブルックリンでなにをしているんだね? ほら、ごらん。『トゥックのパンテオン』だよ――」

 「どういうつもりなんだ?」オーブリーが大声で詰問した。「ぼくをからかおうというのか? 貴様とワイントラウブはフィラデルフィアでなにを企んでいる?」

 ロジャーの心はラドロー通りに舞いもどってきた。彼は若者の紅潮した顔をやや驚いたように見て、本を棚にもどし、その場所を頭のなかにメモした。今朝の失望に終わった出来事がいらだたしさとともによみがえってきた。

 「なんの話かね?」と彼はいった。「そんなこと、きみになんの関係があるんだ?」

 「おおありさ」オーブリーはそういって書店主の顔の前で拳を振った。「悪党め、ぼくはずっと跡をつけていたんだ。貴様の企みをあばこうとしてな」

 赤い点がロジャーの頬骨の上に広がった。一見するとおとなしそうだが、彼はかっとなりやすく、手を出すのも早かった。

 「チャールズ・ラムの名にかけていうがね!」と彼はいった。「お若いの、きみは礼儀を知らないな。大型広告がお望みなら、両方の目に一つずつお見舞いしてやろう」

 オーブリーは犯罪者が縮みあがるだろうと思っていたのだが、この口答えを聞いて自制心を失うほど怒り狂ってしまった。

 「このちびのボルシェビキが。もうちょっとでかければ叩きのめしてやるところだ。さあ、貴様とドイツびいきの友達がなにを企んでいるのかいえ。さもないと警察に通報するぞ!」

 ロジャーはきっとなった。髭は逆立ち、青い目は光を放った。

 「厚かましい犬っころ」彼は静かにいった。「人目のないそこの角までついて来い。じきじきに個人指導をしてやろう」

 彼は先に立って路地の角を曲がった。めくら壁にはさまれたこの狭い道筋で二人は顔をつきあわせた。

 「グーテンベルグの名前にかけて」ロジャーは守護聖人に呼びかけていった。「どういうことか説明しなければ、一発お見舞いしてやるぞ」

 「そいつはだれだ?」オーブリーはせせら笑った。「貴様の好きなドイツ野郎の一人か?」

 そのとき彼は顎に鋭い一撃を受けた。ロジャーが砂利敷きのむらのある足下を計算に入れていたらもっと強烈だったろう。しかも自分より何インチも上背のある敵なだけに、その一撃は充分顔に届かなかった。

 オーブリーは自分より背の低い男は殴らないという自分の信条を忘れ、やはり守護聖人――世界広告クラブ連合――に呼びかけて、猛烈な強打を書店主の胸に放った。相手は小路の幅を半分ほどよろめき退いた。

 二人とも頭に血が上ってみさかいがなくなっていた――オーブリーは過去数日間の心配と疑惑が積もり積もっていらだっていたし、ロジャーはもともとかんしゃく持ちなところに不当な無礼を受けて怒りを爆発させていた。この対決は背の高さと重量に勝り、二十才も若いオーブリーのほうが有利だったが、幸運は書店主に味方した。オーブリーの強打は相手を道の反対側の縁石の上までよろめかせた。そのあと一気に襲いかかり、強烈な一撃で相手を倒すつもりだった。しかしロジャーは冷静にかまえ、地の利を利用した。縁石の上に立つと、彼はわずかだが高さで相手の優位に立ったのである。オーブリーがぞっとするような憎しみを顔に浮かべて飛びかかってきたとき、ロジャーは顎に容赦のないパンチをお見舞いした。オーブリーは足を縁石に当て、砂利の上に後ろむきにひっくり返ってしまった。頭を砂利に強く打ちつけ、古傷がまた開いた。目の前がくらくらし、気持ちも動揺し、彼はその瞬間に闘う気力を失った。

 「この横柄な青二才」ロジャーがあえぎながらいった。「まだやる気か?」そのとき彼はオーブリーがほんとうに怪我をしていることに気がついた。若者の側頭部を血がしたたり落ち、かれはぎょっとした。

 「たいへんだ。殺してしまったのかもしれない!」

 彼は泡を食って角を曲がり、店の外に立っていたレアリー書店の店員をつかまえた。店の前に小さなボックスがあって、そこで店頭本の販売をしていたのである。

 「すぐ来てくれ」彼はいった。「裏に大けがをしている人がいるんだ」

 彼らが走って角を曲がると、オーブリーがふらふらしながら彼らのほうに歩いてきた。ロジャーの心のなかを大きな安堵感が駆け抜けた。

 「きみ。たいへん申し訳ないことをした――大丈夫かね?」

 オーブリーは真っ青な顔で彼をにらんだが、気が動転して話すこともできなかった。うなり声を上げ、他の二人がそれぞれ両側から彼を支えた。レアリーの店員は店のなかに飛び込み、裏にある貨物用エレベータのドアを開けた。こうしてぶらぶら本を見ている数人の客に見られただけで、オーブリーは古本の包みのように店内に運び込まれた。

 ミスタ・ウォーナーが店の裏で彼らを迎えた。いくぶん驚いていたようだが、物静かな態度は変わらなかった。

 「どうしたんですか?」

 「ああ、『トゥックのパンテオン』を奪い合っていたんだ」ロジャーがいった。

 彼らはオーブリーを店の奥の小さな専用事務室に連れて行った。そこで椅子に座らせ、血の出ている頭を冷たい水で洗った。どんなときでも手はずのいいフィリップ・ウォーナーは外科用の絆創膏を持ってきた。ロジャーは医者に電話をしようとした。

 「やめてください」オーブリーは落ち着きを取りもどしていった。「いいですか、ミスタ・ミフリン、この頭の傷はあなたがつけたなんていい気になって思わないでくださいよ。この前の晩、あなたのいまいましい店を出てからブルックリン橋の上でやられたんです。しばらく二人だけになれるなら、話したいことがあります」

第十四章 「クロムウェル伝」最後の登場

 「大馬鹿者め」半時間後、ロジャーがいった。「どうしてもっと早くに話してくれなかったんだ? なんてことだろう、とんでもないことが起きているぞ!」

 「あなたがなにも知らないなんて、どうしてわたしにわかるというんです?」オーブリーはいらいらといった。「なにもかもあなたに不利なことばかりじゃないですか。あの男が自分の鍵で店のなかに入っていくのを見たら、あなたが彼とぐるになっていると思わずにいられませんよ。まったく、古本にかまけてまわりでなにが起きているのかもわからないんですか?」

 「それはいつのことだって?」ロジャーがぶっきらぼうに訊いた。

 「日曜の午前一時ですよ」

 ロジャーはちょっと考えていた。「そうだ、わたしはボックと地下室にいた。ボックが吠えたので、ねずみかと思ったんだ。あの男は鍵型をとって自分で鍵を作ったにちがいない。何百回も店に出入りしていたから、そんなことは朝飯前だろう。『クロムウェル伝』が消えたこともそれで説明がつく。しかしなぜだろう? なんでそんなことをするのだろう?」

 「お願いですから、急いでブルックリンに帰りましょう。なにが起きているかわかったものじゃない。女だけ残してこんなところに来るなんて、ぼくもなんてとんまなんだろう。底抜けのばかだ!」

 「きみ」とロジャーがいった。「わたしこそ偽の電話にまんまとつられたとんまだよ。きみの話から察するに、ワイントラウブが一枚かんでいるのはまちがいない」

 オーブリーは時計を見た。「三時をすこし過ぎてます」

 「四時までは汽車がない。ということは、ギッシング通りにもどれるのはだいたい七時ごろだ」

 「電話で呼び出してください」オーブリーがいった。

 彼らはまだレアリー書店の裏にある専用事務室のなかだった。この店と顔なじみのロジャーは遠慮なく電話を使った。彼は受話器をあげた。

 「長距離をお願いする。もしもし。ブルックリンのワーズワース1617―Wにつないでくれ」

 彼らは電話がつながるのを二十五分間苦々しく待った。ロジャーはウォーナーと話をしに外に出、そのあいだオーブリーは裏の事務室でいら立っていた。じっと座っていることができず、じれったそうにそわそわと小部屋を行ったり来たりして、数分ごとにポケットから時計をむしり取るようにして見た。漠然とした恐怖に心が乱れ、ものを考えることができなかった。頭のなかでぼそぼそとしゃべる悪意にみちた電話の声が繰り返された――「ギッシング通りは危ないぜ」橋の上での取っ組み合い、路地のささやき声、調剤台に立つ薬屋の忌まわしい顔が思い出された。一連の出来事は途方もない夢にすぎないように思われたけれども、しかし彼は不安におののいていた。「ぼくがブルックリンにいれば」と彼はうめいた。「まだしもましなのだが。彼女の身に危険が迫っているかも知れないというときに、何百マイルも離れた、これまた呪われた本屋のなかにいるのだから――くそっ! 今回の事件がうまく片づいたら、あとは死ぬまで本屋の仕事には手を出さないぞ!」

 電話が鳴り、オーブリーは外で話をしているロジャーを半狂乱になって手招きした。

 「自分で出たまえ、ばかだな! 切れてしまうぞ!」

 「だめなんです。ティタニアはわたしの声を聞いたら、切ってしまうんです。わたしのことを怒っているんです」

 ロジャーが電話のところに走ってきた。「もしもし、もしもし?」彼はぷりぷりしながらいった。「もしもし、そちらはワーズワース――? そうだよ、ブルックリンを呼び出しているんだ――もしもし!」

 ロジャーの肩越しに身を乗り出したオーブリーは、受話器のかちりという音につづいて、信じられないほどはっきりと、か細い、銀をならすような遠くの声を聞いた。それは忘れもしない声だった! まわりの空気がその声に震えるような気がした。彼の耳にはどの言葉もはっきりと聞こえた。熱い汗が額と手のひらに噴き出した。

 「もしもし」とロジャーがいった。「ミフリンの本屋だね?」

 「そうです」とティタニアがいった。「ミスタ・ミフリン、あなたですか? どこにいらっしゃるんです?」

 「フィラデルフィアだよ。なにか不都合は起きてないかい?」

 「順調ですわ。本を売りまくっているんですよ。ミセス・ミフリンは買い物に出かけました」

 オーブリーは鳥のさえずりのような、どこか遠くの星がチリンと鳴っているような、小さい軽やかな声を聞くと身体が震えた。薄暗い本屋の奥で電話口に立つ彼女の姿が目に浮かんだ。まるで望遠鏡を逆さまにのぞいたようにひどくこぢんまりとした、非の打ち所のない姿が見えるようだった。なんて勇敢で気品に満ちているのだろう!

 「いつお帰りになりますか?」彼女はそういっていた。

 「七時くらいだよ」ロジャーがいった。「本当になにも問題はないんだね?」

 「ええ、もちろん。とっても楽しくやっていますわ。たった今、下に行って、すこしだけかまどに石炭をくべてきたんです。ああ、そうだわ。ミスタ・ワイントラウブがついさっきやってきて、本のスーツケースを置いていきました。あなたなら気になさらないだろうっておっしゃってました。友達が今日の午後、それを取りに来るそうです」

 「ちょっと切らずに待ってくれ」ロジャーはそういい、通話口を手で押さえた。「ワイントラウブが本のスーツケースを店に預けて、あとでだれかに取りに来させるそうだ。どう思う?」

 「たいへんですよ。本には手を触れないようにいってください」

 「もしもし」ロジャーがいった。身体を乗り出したオーブリーは小柄な書店主の毛のない脳天にぐるりと水晶のような汗が浮いているのに気がついた。

 「もしもし?」ティタニアの妖精のような声がすぐに返事をした。

 「スーツケースを開けたかね?」

 「いいえ。鍵がかかっているんです。ミスタ・ワイントラウブはお友達にさしあげる古本がたくさん詰まっているんだとおっしゃっていました。すごく重たいんです」

 「よく聞いてくれ」ロジャーがいった。声が鋭く響いた。「重要なことなんだ。そのスーツケースにはけっしてさわってはいけない。そのままにしておいて、絶対さわってはいかん。約束してくれ」

 「わかりましたわ、ミスタ・ミフリン。安全な場所に置いておきますか?」

 「さわってはいかん!」

 「ボックがいまにおいを嗅いでいます」

 「さわってはいけない。ボックにもさわらせてはだめだ。な――なかには貴重な原稿が入っている」

 「気をつけますわ」

 「さわらないと約束だよ。それからもう一つ――だれか取りに来ても、わたしが家に帰るまで持って行かせてはいかん」

 オーブリーはロジャーの前に腕時計をさし出した。ロジャーはうなずいた。

 「わかったかい? ちゃんと聞こえているかい?」

 「ええ、とてもよく聞こえます。すごいんですね! わたし、長距離電話は初めてだから――」

 「鞄にはさわらないこと」ロジャーがしつこくいった。「それからわれわれが――わたしが帰るまでだれにもわたさないこと」

 「お約束しますわ」ティタニアがほがらかにいった。

 「それじゃ、また」ロジャーはそういって受話器を置いた。彼の顔は奇妙に引きつって見え、目の下のくぼみに汗が浮いていた。オーブリーはもどかしげに腕時計を見せた。

 「ぎりぎり間に合うぞ」ロジャーはそう叫び、二人は店を飛び出した。

 それは楽しい旅ではなかった。汽車はいつものようにウエスト・フィラデルフィアからノース・フィラデルフィアへいったん遠まわりして目的地を目指した。二人の旅行者は、郊外からの乗客を、結び目のある鞭でひっぱたくのではなく、のんびりぞろぞろと乗車させる制動手にたいして個人的な憎しみを覚えた。急行がトレントンで停まったとき、オーブリーは罪のないその都市を曲射砲で粉々に粉砕してやりたいと思った。プリンストン・ジャンクションで思いもよらぬ停車をしたときは、とうとう我慢ができなくなった。オーブリーが公務員たる車掌に話しかけるその口ぶりは国家にたいする反逆者のようだった。

 灰色のわびしい冬の夕闇が雪の気配とともにおりてきた。彼らはしばらくのあいだ黙って座っていた。ロジャーはフィラデルフィアの夕刊を開いてヨーロッパに旅立つことを発表する大統領演説に読みふけり、オーブリーは先週の行動を陰鬱に思い返していた。頭はずきずきと痛み、手は不安のために湿っぽく、そのせいでたばこの屑がいやらしいほどくっついてきた。

 「おかしな話ですね」とうとう彼はいった。「先週の今日、わたしははじめてあなたの店を知りました。それが今では地球上でいちばん大切な場所みたいに思えます。夕ご飯をご馳走していただいたのはつい先週の火曜日。それからわたしは二度頭をかち割られ、無法者に自分の寝室で待ち伏せをされ、ギッシング通りを二晩徹夜で見張り、うちの代理店が扱っている最大の顧客を失いそうになったんです。お店に幽霊がいるとおっしゃるのももっともですよ!」

 「それを使ってすてきな宣伝文句ができるんじゃないか?」ロジャーは不機嫌そうにいった。

 「さあ、どうでしょうかね。広告のネタとしてはちょっと暴力的すぎるかな。あなたはなにが起きていると思います?」

 「さっぱりわからない。ワイントラウブは二十年以上もあの薬屋を経営している。わたしが本屋をはじめるずっと前から、あいつの店のことは知っていた。なかなかの読書家で、とりわけ科学の本に関心をもっていた。わたしがギッシング通りに店を出したとき、仲よくなったんだ。顔つきはどうも気に入らないが、しかしおとなしい、気だてのよい男のように思えたがね。きみの話じゃ、違法な薬かドイツ製の焼夷弾を製造しているような感じだな。戦争中はずいぶん火事が起きたじゃないか――ブルックリンの大穀物倉庫とか」

 「わたしは最初、誘拐を企んでいるのかと思いました」オーブリーがいった。「あなたがミス・チャップマンを店におきざりにして、ほかのやつらにこっそり連れ出させるつもりなんだと思っていました」

 「わたしに極悪人という名誉ある烙印を押してくれていたのか」ロジャーはいった。

 オーブリーの唇が興奮していい返したげに震えたが、雄々しく耐えた。

 「なぜクロムウェルの本に興味を持ったんです?」彼は間をおいて尋ねた。

 「ああ、なんで読んだのかな――二、三年前のことだ――あれはウッドロウ・ウィルソンの愛読書の一つだそうだ。それで興味を持って読んでみたのだ」

 「そういえば」オーブリーが勢い込んでいった。「表紙に書かれていた例の数字を見せるのを忘れていました」彼はメモ帳を取りだし、写しを見せた。

 「ふむ、この一つは意味がはっきりしている」ロジャーがいった。「ほら、329ff. cf. W. W.とあるね。これは単に『329ページ以下を見て、ウッドロウ・ウィルソンと比較せよ』ということさ。最近わたしがそれを書きつけたんだ。というのはその一節がウィルソンの考え方と似ていると思ったからだ。とくにおもしろいページの番号は本の裏に書きつけることにしているんだ。ほかのページ番号は本がないとなんのことだかさっぱりわからないな」

 「じゃあ、最初の数字はあなたの字なんですね。でもその下にあるのはワイントラウブの字ですね――ともかくも彼が使っているインクで書かれていた。彼があなたの本に暗号らしきものを書きつけているのを見て、当然ながらあなたと彼は共謀しているんだと思ったんです――」

 「きみはこの表紙を薬局で見つけたそうだな?」

 「ええ」

 ロジャーは眉を寄せた。「どういうことなんだろう。とにかく、むこうに着くまでわれわれにはなにもできない。新聞を見るかね? 今朝議会でウィルソンが行った演説がのっている」

 オーブリーは暗い顔で頭を振り、熱い額を窓ガラスにあてた。二人はマンハッタン乗換駅に着くまで押し黙ったままだった。それからハドソン・ターミナル行きに乗り換えた。

 アトランティック・アヴェニューの地下鉄終着駅から二人が急いで出てきたのは七時だった。じめじめと湿った寒い晩だったが、通りにはすでに夜ごとの光と色があふれ活気づきはじめていた。質屋の黄色い明かりを見て、オーブリーはポケットに小型拳銃をしのばせていることを思い出した。暗い路地を通り抜けながら、彼は脇によって武器に弾を込めた。

 「こういうものを持っていますか?」彼はそれをロジャーに示しながらいった。

 「まさか、とんでもない」と書店主はいった。「わたしをなんだと思っているんだ――映画のヒーローかね?」

 ギッシング通りを進む若者の歩みがあまりにも早足なものだから、ロジャーはついて行くのに駆け足にならざるを得なかった。この小さな通りのおだやかな眺めには心安らぐものがあった。店の窓々からこぼれ出る光が道に縞模様を描いていた。ワイントラウブの薬局では、青白い顔の店員が染みのついた白衣を着て、大コップにココアをそそいでいた。文房具屋では客がクリスマスカードの仕切り棚を眺めていた。オーブリーはミルウォーキー・ランチでのんびりドーナツをコーヒーカップにひたしている体格のいい市民を見、うらやましく思った。

 「なにもかも嘘みたいだな」とロジャーがいった。

 本屋に近づいたときオーブリーの心臓は不安に締めつけられた。正面窓のブラインドがおろされていた。薄明かりが漏れているところを見ると、なかは電灯がともされているのだろう。しかし閉店の時間までまだ三時間もあるのに、なぜブラインドがおりているのだろうか?

 彼らは正面ドアにたどり着いた。オーブリーが取っ手をつかもうとすると、ロジャーが彼を押しとどめた。

 「ちょっと待ってくれ。音を立てないように入ってみよう。なにかおかしなことが起きているのかもしれない」

 オーブリーはそっと取っ手を回した。ドアは鍵がかかっていた。

 ロジャーは鍵を取りだし、音を立てないようにして錠をはずした。それからドアをかすかに――一インチほど押し開けた。

 「きみの方が背が高いな」と彼はささやいた。「手を伸ばしてドアを開けたとき、上の鐘が鳴らないように押さえてくれ」

 オーブリーは三本の指を隙間から突き出し、鐘が打ち鳴らされないようにトリガーを押さえた。ロジャーはドアを大きく開き、彼らは忍び足でなかに入った。

 店にはだれもおらず、一見したところ異常はなかった。彼らはどきどきしながら、つかの間そこに立ちつくした。

 家の奥のほうから、澄んだ、どことなく怯えた声が聞こえた。

 「好きにするがいいわ。でもどこにあるか教えないから。ミスタ・ミフリンの言いつけですもの――」

 椅子が床にたたきつけられ、あわただしく動きまわる音が聞こえた。

 オーブリーはすばやく通路を抜け、ロジャーもドアを閉めるとすぐその後につづいた。彼は店の奥の登り段をこっそりとあがり、食事室をのぞいた。その光景を目にした瞬間、まるで部屋全体が揺れ動いているような気がした。

 夕食用のテーブルクロスが広げられ、つるしランプの下で白く光っていた。むこう端にはティタニアが髭の男につかまれもがいていた。オーブリーは一目で男がシェフだとわかった。テーブルのこちら側には拳銃を彼女にむけて立っているワイントラウブがいた。背中をドアにむけている。オーブリーは薬屋の無愛想な顎がしわくちゃになり、怒りに震えているのを見た。

 二歩踏み込むと部屋のなかだった。彼は拳銃の銃口を脂ぎった頬に突きつけた。「そいつを捨てろ」彼はしわがれた声でいった。「このドイツ野郎!」左手で相手のシャツ・カラーをつかみ、ぐいと首を絞めた。彼は怒りと興奮に震え、奇妙に腕に力が入らなかった。最初に考えたのはこんな豚のような首を絞めることなど、とても無理だということだった。

 一瞬、その場の者は息を詰め、動きを止めた。髭の男はティタニアの肩から手を放さなかった。彼女は顔色こそ真っ青だったが目は輝いており、信じられないといった驚きの表情でオーブリーを見た。ワイントラウブは両手を食事テーブルについて、考えごとをしているかのようにじっと立っていた。彼は頬のくぼみに冷たい金属が押し当てられているのを感じた。ゆっくりと右手を開くと拳銃がリンネルの布の上に落ちた。ロジャーが部屋に飛び込んできた。

 ティタニアは身をよじってシェフから離れた。

 「スーツケースはわたしませんでした!」彼女は叫んだ。

 オーブリーは拳銃をワイントラウブの顔に押しつけつづけた。彼は左手で薬屋の拳銃を取り上げた。ロジャーはテーブルの反対側にぼんやりと立っているシェフにつかみかかろうとした。

 「ほら」とオーブリーがいった。「この銃を使ってください。そいつに狙いをつけるんです。こっちはわたしに任せて。彼には借りがあるんでね」

 シェフは後ろの窓から飛び出そうとしたが、オーブリーが彼に飛びかかった。男の鼻をまともに殴りつけ、拳骨の下で肉がゴムのようにひしゃげると、えもいわれぬ快感が走った。彼は髭もじゃの喉をつかんで指を食い込ませた。相手はテーブルの上のパン切りナイフをつかもうとしたが遅すぎた。彼は床に倒れ、オーブリーは荒々しく喉を締めつけた。

 「このドイツの糞ったれめ」と彼はうなった。「取っ組み合いがしたいなら女の子を相手にするんだな」

 ティタニアは部屋から飛び出し、食器室を駆け抜けていった。

 ロジャーはワイントラウブの銃をドイツ人の顔の前にかまえていた。

 「おい。これはどういうことだ?」

 「誤解だよ」薬屋はおだやかにいった。しかし目は落ち着かなげにきょろきょろしている。「午後早くにここに預けた本を取りに来ただけだよ」

 「拳銃を持ってかね? 答えろ、ヒンデンブルグ(註 第一次大戦中、東部戦線でロシアを破ったドイツ陸軍元帥)、どういうつもりだったんだ?」

 「わたしの拳銃じゃない」とワイントラウブがいった。「メツガーのだよ」

 「スーツケースはどこだ?」とロジャーがいった。「見てみようじゃないか」

 「これはばかばかしい誤解だよ」とワイントラウブがいった。「メツガー宛に古本のスーツケースをここに置いていったんだ。今日の午後は町の外に行く予定だったからね。彼がそれを取りに来たら、きみのところの若い娘さんがわたそうとしないんだ。彼はわたしのところに来て、わたしは彼女にわたしても大丈夫だといいに来たのさ」

 「あいつはメツガーというのか?」ロジャーはオーブリーの手を逃れようとしている髭の男を指さしながらいった。「ギルバート、そいつを窒息させるなよ。説明してもらいたいことがある」

 オーブリーは立ちあがって落ちた拳銃を床から拾い、ついでシェフをつついて起きあがらせた。

 「この豚め。この前の晩、階段を転げ落ちたのは楽しかったか? ヘア・ワイントラウブ、あんたが地下室でいったいなんの薬を調合しているのか教えてほしいね」

 ワイントラウブの顔は電灯の光のなかで沈んで見えた。額には汗がびっしり浮いている。

 「ミスタ・ミフリン」と彼はいった。「こんなくだらないことってありませんよ。わたしがついむきになったばかりに――」

 ティタニアは走って部屋にもどって来た。そのあとから顔を真っ赤にしたヘレンが来た。

 「助かったわ、あなたがもどってきて、ロジャー」彼女はいった。「この野蛮人たちは台所でわたしを縛りあげ、口をタオルでふさいだのよ。スーツケースを出さなかったらティタニアを撃つって脅したのよ」

 ワイントラウブはなにかをいいかけたが、ロジャーは彼の眉間に拳銃を突きつけた。

 「黙っていろ! おまえたちの本とやらを見せてもらおうじゃないか」

 「スーツケースを取ってきます」とティタニアがいった。「隠してあるんです。ミスタ・ワイントラウブが取りに来たとき、最初はわたそうかと思ったんだけど、様子がおかしかったので、なにかよからぬことを企んでると思ったの」

 「さわっちゃだめです」オーブリーはいった。二人ははじめて目を合わせた。「どこにあるのか教えてください。ドイツの友人に運ばせましょう」

 ティタニアの顔がかすかに赤らんだ。「わたしの寝室の押し入れのなかなの」

 彼女は先に立って階段をのぼり、そのあとをメツガーが従った。オーブリーがメツガーの後ろでいつでも撃てるようにピストルをかまえていた。寝室のドアの外でオーブリーは立ち止まった。「スーツケースの場所を教えて、彼に持たせてください。おかしな真似をしたら声をあげるんですよ。わたしが拳銃を撃ちますから」

 ティタニアは押し入れの服の後ろにしまい込んだスーツケースを示した。シェフは反抗する気配も見せない。三人は一階にもどった。

 「ようし」とロジャーがいった。「店舗に移動したほうがよく見えるだろう。もしかしたらシェイクスピアのファースト・フォリオが入っているかもしれない。ヘレン、電話でマクフィー通りの警察署を呼び出してくれ。すぐこっちに警官を二人ほど寄こすように頼むんだ」

 「ミスタ・ミフリン」とワイントラウブがいった。「こんな愚にもつかないことはやめましょうよ。おりおり集めた古本が何冊か入っているだけなんですから」

 「自分の家に押し入られ、妻を物干し綱で縛られ、若い娘を撃つぞと脅されたんだ。愚にもつかないとはとても思えん。はたして警察はどう考えるだろうな、ワイントラウブ。妙なまねはするな。逃げようとしたら脳味噌を吹き飛ばしてやる」

 オーブリーが先に立って店舗のほうへおりて行き、メツガーがスーツケースを運んだ。そのあとにロジャーとワイントラウブが従い、ティタニアがしんがりだった。随筆のアルコーヴの明るい光の下で、鞄をテーブルに置くよう、オーブリーはシェフに命じた。

 「開けろ」彼はぶっきらぼうにいった。

 「ただの古本だ」メツガーがいった。

 「うんと古いものなら価値があるかも知れない」ロジャーがいった。「わたしは古本に興味があってね。さっさとしろ!」

 メツガーはポケットから鍵を引っ張り出し鞄を開けた。オーブリーは彼が蓋を開けるあいだ、頭にピストルを突きつけていた。

 スーツケースには古本がぎっしり詰まっていた。ロジャーはいたって冷静にワイントラウブを見張っていた。

 「なかになにが入っているんだ?」

 「あら、やっぱり本が詰まっているだけなのね」ティタニアが声をあげた。

 「わかっただろう」ワイントラウブがむっつりといった。「怪しいところなんかあるものか。わたしのせいでこんなことになり――」

 「あら、見て!」とティタニアがいった。「クロムウェルの本があるわ!」

 ほんの一刹那ではあったが、ロジャーは注意を奪われた。彼は思わずスーツケースのほうを見、その隙に薬屋は彼を振り切って通路を駆け抜け、ドアの外に飛び出した。ロジャーは跡を追ったが、手遅れだった。オーブリーはメツガーの襟を捕まえ、頭にピストルを当てていた。

 「しまった」と彼はいった。「どうして撃たなかったんです?」

 「わからないよ」ロジャーが狼狽していった。「撃つのが怖かったのだ。気にするな。あとでも捕まえられる」

 「警察がすぐここに来るそうよ」ヘレンが電話口から呼びかけた。「ボックを家に入れるわ。いま裏庭にいるから」

 「二人とも頭が変なのよ」とティタニアがいった。「クロムウェルを棚にもどして、この人も追い返しちゃいましょう」彼女は本に手を伸ばした。

 「待て!」オーブリーが叫んで、彼女の腕をつかんだ。「その本に触れちゃいけない!」

 ティタニアは彼の声に怯えて手を引っ込めた。みんな正気を失ってしまったのかしら?

 「さあ、ミスタ・メツガー」オーブリーがいった。「元通りその本を棚にもどすんだ。逃げようなんて思うな。こっちは拳銃で狙っているんだからな」

 彼とロジャーはシェフの顔に驚いた。もじゃもじゃの髭の上で彼の目がなかば狂気じみた光を放ち、両手が震えていたのだ。

 「いいだろう。どこに置けばいいのか教えてくれ」

 「わたしが教えてあげる」とティタニアがいった。

 オーブリーが彼女の目の前に腕を伸ばして押しとどめた。「あなたはそこにいて」彼は怒ったようにいった。

 「歴史のアルコーヴだよ」ロジャーがいった。「正面のアルコーブで、通路の反対側だ。われわれ二人とも銃をむけているからな」

 スーツケースから本を取り出すかわりに、メツガーは鞄を横にしたまま持ち上げた。彼は指示されたアルコーヴにそれを持って行った。注意ぶかくケースを床に置き、クロムウェルの本を取り出した。

 「どこに置くんだ?」彼は異様な声でいった。「こいつは貴重な本なんだ」

 「五番目の棚だよ」とロジャーがいった。「こっちだ――」

 「いけない、下がってください」オーブリーがいった。「近寄ってはいけません。なんだか様子が変だ」

 「この間抜けども!」メツガーが荒々しく叫んだ。「おまえたちも古本も地獄に堕ちろ」彼は本を投げつけようとするかのように腕を後ろに振りかざした。

 ぱたぱたとすばやい足音がして、ボックがうなりながら通路を走ってきた。同時にオーブリーは訳のわからない衝動に従い、ロジャーを小説のアルコーヴに突き飛ばし、ティタニアを乱暴に抱きかかえると店の奥にむかって駆けだした。

 メツガーの腕があがり、本を投げようとしたとき、ボックが突進してきて、男の足に噛みついた。クロムウェルが手から落ちた。

 地を揺るがす爆発、鈍い轟音がとどろき、オーブリーは一瞬本屋がまるごと巨大な独楽になったのかと思った。床が持ち上がり沈み込んだ。棚の本はあらゆる方向に吹き飛んだ。ティタニアを抱えながら、住居部分に通じる登り段にたどり着いたとき、彼らは横に吹き飛ばされ、ロジャーの机の後ろの角に転がった。空中には本が舞っていた。百科事典の列が肩の上に落ちてきて、あやうくティタニアの頭に当たるところだった。正面の窓は一斉に砕け散った。ドアの近くの机は反対側の回廊まで飛び上がった。歴史のアルコーヴの上の回廊はめりめりと音を立てて崩れ、何百冊という本が床にどうと落ちた。明かりは消え、一瞬すべてがしんと静かになった。

 「大丈夫かい?」オーブリーが慌てて訊いた。彼とティタニアは、書店主の机に身体を押しつけるようにして倒れていた。

 「大丈夫みたい」彼女はかすかな声でいった。「ミスタ・ミフリンはどこ?」

 彼女を助け起こそうと手をさしのべると、床の上に湿ったものを感じた。「大変だ」と彼は思った。「彼女は死にかけているんだ!」彼はもがきながら暗闇のなかに立ちあがった。「聞こえますか、ミスタ・ミフリン」と彼は呼びかけた。「どこにいるんです?」

 答えはなかった。

 一筋の光が店の奥からあふれてきた。落下した残骸のあいだを足場を確かめながら歩いていくと、ミセス・ミフリンが食事室のドアの脇にふらつきながら立っているのを見つけた。家の奥は明かりがついたままだった。

 「蝋燭はありますか?」

 「ロジャーはどこなの?」彼女は哀れな声を出し、台所によろよろと入っていった。

 蝋燭を持ったオーブリーは床の上に座っているティタニアを見つけた。ひどくぼんやりしていたが、怪我はなかった。彼が血だと思ったものはロジャーの机の上にあったクォート瓶入りのインクだった。彼は子供を抱えるように彼女を立たせ、台所に運んだ。「ここにいてください。動かないで」

 その頃までにはすでに群衆が舗道に集まっていた。だれかが手提げランプを持って入ってきた。三人の警官がドア口にあらわれた。

 「お願いします」オーブリーが大きな声を出した。「ここに明かりを持ってきてください。様子がわかるように。ミフリンがこの瓦礫のどこかに埋まっているのです。だれか救急車を呼んでください」

 幽霊書店の正面はめちゃくちゃになっていた。手提げランプの淡い光は悲惨な光景を浮かびあがらせていた。ヘレンが吹き飛ばされた通路を手探りしながらやってきた。

 「彼はどこ?」彼女は取り乱して叫んだ。

 「トロロープ全集のおかげだな」小説のアルコーヴの残骸のなかから声がした。「助かったようだ。本が衝撃を吸収する力はたいしたものだ。怪我した人はいるかい?」

 ロジャーだった。気を失いかけていたが、無事だった。彼は身体の上に倒れてきた棚の下からはい出してきた。

 「そのランプをこっちに持ってきてくれ」オーブリーはそういって、ロジャーの掲示板の破片の下に横たわる黒い固まりを指さした。

 シェフだった。彼は死んでいた。そして彼の足にしがみついていたのはボックのなれの果てだった。

第十五章 ミスタ・チャップマン、魔法の杖を振る

 ギッシング通りは幽霊書店の爆破事件をそう簡単には忘れそうになかった。ワイントラウブの地下室から司法省が四年間捜しあぐねていた情報が見つかり、おとなしそうなドイツ系アメリカ人の薬剤師がじつは何百もの焼夷弾を作った職人で、その爆弾がアメリカおよび連合国の船舶や弾薬工場に仕掛けられていたことが判明、さらにそのワイントラウブが翌日ボストンのブロムフィールド通りで逮捕され自害したことが伝えられると、ギッシング通りは興奮に沸き立った。ミルウォーキー・ランチは本屋の爆破跡を見学に来た野次馬どもでおおいに繁盛した。ジョージ・ワシントン号の船内図の断片がメツガーのポケットから見つかり、オクタゴン・ホテルの厨房係で共犯者でもあった男が、ウッドロウ・ウィルソンの愛読書の一冊に見せかけた爆弾を汽船の大統領特別室に仕掛けるはずだったことを告白すると、人びとは憤慨し、その怒りはとどまるところを知らなかった。ミセス・J・F・スミスはドイツびいきの町などもうまっぴらだと宣言し、ミセス・シラーの下宿を引き払った。おかげでオーブリーは使いたくてたまらなかった浴室がやっと使えるようになった。

 つぎの三日間は司法省の係官の相手で忙しく、彼のほうにも確かめたい懸案事項があったのだがなにもできなかった。しかし金曜日の午後遅く、納得のいくまで話をしようと決意をかため、本屋を訪ねた。

 残骸はきれいに片づけられ、粉々になった建物正面は板でふさがれていた。なかに入るとロジャーが床に座って、まわりに乱雑に積み上げられた本の山を見わたしていた。ミスタ・チャップマンがとある有名な建築会社に口をきいてくれたおかげで、さっそく修復作業ははじまっていたが、それでも商売再開までにはすくなくとも十日はかかるだろうと彼はいった。「今回の宣伝効果を徒花あだばなにしたくないんだけどね」と彼は悲しそうにいった。「古本屋が新聞の第一面を飾るなんて、そうそうあることじゃない」

 「広告は信じてないんだと思ってましたが」とオーブリーはいった。

 「わたしが信じている広告は、金のかからない広告だよ」

 オーブリーは大破した店内を見て微笑んだ。「請求書は相当な額になりそうですね」

 「きみ。これこそわたしに必要だったものだよ。わたしの生活はマンネリ化しつつあったんだ。爆弾はわたしが忘れていた本やら持っていることすら知らなかった本をきれいに吹き飛ばしてくれた。おや、こんなところに『結婚してもしあわせになる方法』がある。出版社はこれを『小説』に分類しているんだな。こっちは『壺葬論』、『書籍狂の恋』、それに『ミスルトウの嘆かわしき事実の書』か。隅から隅まで大掃除する必要がある。今は本気で掃除機とキャッシュ・レジスターを買い入れようと思っているんだ。ティタニアのいっていたことは正しいよ。この店は汚すぎる。あの娘にはいろいろなことを教わった」

 オーブリーは彼女がどこにいるのか知りたかったが、あからさまに訊くのはためらわれた。

 「たしかに」とロジャーはいった。「たまには爆発もいいものだ。新聞記者が根掘り葉掘り質問に来たあと、六つほどいろいろな出版社から本を出さないかという申し出があった。文化会館事務局からは『公共奉仕としての書籍業』という題で講演してくれといわれるし、店を再開するのはいつだと、問い合わせの手紙が五百通も届いた。米国書店協会は来年の春の年次総会で挨拶してくれだとさ。わたしもはじめて人から認められたわけだ。かわいそうなボックのことさえなければ――ついてきなさい。あいつは裏庭に埋めてやったんだ。お墓を見せてあげよう」

 柵の近くの悲しいほど小さな土饅頭の上に大きな黄色い菊の束を差した花瓶が置かれていた。

 「ティタニアがこれを飾ったんだよ。春になったらここにハナミズキドッグウッド・ツリーを植えるつもりだといっていた。小さな墓石をたててやるよ。どんな文字を刻もうかと考えているところだ。『死者を鞭打つ事なかれデ・モルツィス・ニル・ニシ・ボヌム』はどうかと思ったんだが、ちょっと不真面目な感じだな」

 住居部分は爆発の被害をまぬがれていた。ロジャーはオーブリーを居間に連れて行った。「ちょうどいいときに来てくれた。ミスタ・チャップマンが今晩うちに来て、みんなで楽しくおしゃべりをすることになっているんだ。この事件にはまだわからないことがたくさん残っている」

 オーブリーは片目でティタニアの姿を探しつづけていた。ロジャーは彼の落ち着きのない視線に気がついた。

 「ミス・チャップマンは午後から休みなのだ」と彼はいった。「今日初めて給料をもらって、あんまりうれしいものだからニューヨークまで散財に行ったのさ。父親といっしょに出かけている。申し訳ないんだが、夕ご飯の支度でわたしはヘレンを手伝わなければならない」

 オーブリーは暖炉のそばに座り、パイプに火をつけた。彼の心に重くのしかかっていたのはつぎのようなことだった。はじめてティタニアに会ってからちょうど一週間がたつ。その一週間のあいだ、目覚めているときは彼女のことを考えない瞬間はなかった。いったい女の子は恋に陥るのにどのくらいの時間がかかるのだろう。男なら――彼がよく知っているように――五分で充分だ。しかし女の子の場合はどうなのだろう? 同時に彼が考えていたのは、内輪ネタを使ってもいいなら、今回の事件を利用してデインティビッツのためにユニークな広告コピーを作ることができる、ということだった(あらゆる広告マンとおなじく、彼も広告コピーを「書く」というかわりに、常に広告コピーを「作る」といった)。

 後ろに衣擦れの音が聞こえたかと思うと、彼女が立っていた。灰色の毛皮のコートを着て、鮮やかな色の小さな帽子をかぶっていた。頬は冬の空気にさらされ、ほんのり色づいている。オーブリーは立ち上がった。

 「あら、ミスタ・ギルバート! お会いしたかったのに、どこに隠れていらっしゃったの? この前の日曜からお顔も見てないし、お話もしてないわ」

 彼はまともに口もきけなかった。彼女はコートを脱ぎ、話しつづけた。思いに沈むようなまじめな表情をしていたが、それは微笑みよりもずっと彼女に似合っていた。

 「先週あなたがなにをなさったか、ミスタ・ミフリンからくわしくお話を聞きました――通りのむかいにお部屋を借りて、あのにくたらしい男を監視していたのね。わたしたちがぼんやりしているときに、あなたはなにもかも見抜いていらっしゃたのね。わたし、日曜日の朝に、あなたにむかってとんでもないことをいっちゃったけど、それを謝りたいんです。許してくれる?」

 オーブリーはそのときくらい自分を売り込む手腕が衰え果てたことを感じたことはなかった。目が彼を裏切りそうな気がして、言葉にならない恐怖を覚えた。涙で潤んできたのである。

 「そんなことは言わないでください。とにかくわたしにあんなことをする権利はなかったんですから。それにミスタ・ミフリンに関していったことはまちがいでした。あなたが怒ったのは当然です」

 「あなたに感謝できるせっかくの機会なんだから、その喜びを奪わないでちょうだい。あなたがあの晩わたしの――みんなの命を救ってくれたのよ。ボックも助かったかもしれないわね、あなたの話を信じていたら」彼女の目は涙でいっぱいだった。

 「ほめられるべき人がいるとしたら、あなたです。だって、あなたがいなかったら、スーツケースは持って行かれ、たぶんメツガーは爆弾を船に持ち込み、大統領を吹っ飛ばしていたでしょうから――」

 「あなたと議論するつもりはないわ。わたしは、ただ、ありがとうっていいたいの」

 その晩しあわせにあふれた数人の人びとがロジャーの食事室に集った。ヘレンはオーブリーに敬意を表してサミュエル・バトラー風卵を用意し、ミスタ・チャップマンは本屋の成功を祈るためにシャンパンを二本買ってきた。オーブリーはワイントラウブの犯罪歴を調べていた秘密捜査官とどんなことを話したのか、教えてくれと頼まれた。

 「今となってみるとなにもかもとても単純に思えて、どうしてすぐに見抜けなかったのか不思議なくらいです。わたしたちは休戦協定が締結されたら自動的にドイツの陰謀もなくなるものと思いこんでいました。どうやらワイントラウブは、ドイツからわが国に送りこまれた、もっとも危険なスパイのひとりだったようです。わが国の船舶が航海中に起こした火災や爆発のうち、三十件から四十件は彼の仕業だといわれています。ここに住み着いてからずいぶん経つし、市民権証書を取ったものだから、だれも彼を疑いませんでした。しかし彼が死んでから、手ひどい扱いを受けていた妻が口を割り、彼がどんな活動をしていたか、いろいろ話してくれたんです。それによると大統領が講和会議に行くことを発表すると、ワイントラウブはさっそくジョージ・ワシントン号の大統領特別室に爆弾を仕掛ける決意をしたのです。ミセス・ワイントラウブはひそかにこの人殺しの計画に反対していたので、やめるように説得したのですが、彼はじゃまをしたら殺すぞと彼女を脅しました。彼女は命の危険を感じながら生活していたんです。わたしは夫ににらまれたときの彼女の顔を覚えていますから、その話は信用できると思います。

 ワイントラウブにとって爆弾を作ることなどもちろん造作もありません。彼の家の地下室には悪魔のようになんでもそろった実験室があり、そこで何百もの爆弾を作ったんです。問題はどうすれば怪しまれないような爆弾ができるか、そしてどうすれば大統領の個室にそれを持ち込めるか、です。彼は爆弾を、本の表紙に隠すことを思いつきました。ただ、どうしてあの本を選んだのかはわかりませんが」

 「たぶんわたしがなにも知らずにヒントを与えてしまったのだろう」とロジャーがいった。「あいつはこの店に入り浸っていたのだが、ある日ミスタ・ウィルソンは本好きだろうかと訊かれたことがある。わたしはそうだと思うといって、『クロムウェル伝』のことを話した。ウィルソンの愛読書の一つだと聞いていたのでね。ワイントラウブは非常に興味を示して、いつかその本を読まなければならないといっていた。そういえば、あのアルコーヴのなかでしばらく本を探していたな」

 「きっと彼は運が味方してくれていると思ったでしょうね。メツガーという男はもう何年もオクタゴンでアシスタント・シェフをしていたのですが、ジョージ・ワシントン号に乗ってホテルのコックの一団とともに大統領の食事を作る役に選ばれたのです。ワイントラウブはこうした情報をドイツのスパイ組織の上層部から手に入れました。メツガーはホテルではメシエとも呼ばれていたらしく、非常に頭の切れるシェフで、スイス市民としての偽造パスポートを持っていました。彼も組織の手先でした。元々の計画ではワイントラウブとメツガーのあいだで直接的なやりとりは行われないはずだったのですが、仲介役が別件で司法省にあげられて、アトランタ刑務所に入れられてしまったのです。

 ワイントラウブは疑われることなくメツガーと連絡を取るいちばんいい方法は、古本屋の本を利用することだと考えたらしい――それも買う人がないような本をです。メツガーはどの本かは知らされていたけれども――たぶん仲介役が急にいなくなってしまったために――どの店にそれがあるのかわからなかったのでしょう。だから最近あちこちの本屋にクロムウエルの本の問い合わせがあったのです。

 ワイントラウブは当然メツガーと直接会おうとはしませんでした。あの調剤師はわが身を大切にしていましたからね。シェフはようやく目的の本がある本屋の場所を知り、急いでここにやって来ました。ワイントラウブがこの店を選んだのは、まさかこんなところでスパイの暗号がやりとりされるとはだれも思わないと考えたからですが、また同時にあなたに信用されていて足繁くやってきても全然不思議じゃないからです。メツガーがはじめてここに来たのは、覚えていらっしゃるでしょうが、たまたまわたしがあなたといっしょに夕ご飯をいただいた晩でした」

 ロジャーはうなずいた。「彼は例の本がほしいといったのだが、驚いたことにみつからなかった」

 「そうです。ワイントラウブが数日前に取っていって、悪魔の仕掛けをなかに組み込むために寸法を測り、また装丁し直していたんですから、当然です。彼は爆弾の入れ物として原物の表紙が必要でした。つぎの日の晩、あなたが教えてくれたように、本はもどってきました。正面ドアの合い鍵を作り、自分で返しに来たのです」

 「木曜日の晩、ここでコーンパイプ・クラブの集まりがあったとき、またなくなっていたね」ミスタ・チャップマンがいった。

 「ええ、あのときはメツガーが取っていったのです」とオーブリーがいった。「彼は指示を誤解して、本を盗むものだと思っていました。仲介役がいなくなって、行きちがいが生じはじめていたんですね。わたしが思うに、メツガーは情報を得たら、あとは本をその場に置いておかなければならなかったのです。とにかく彼は混乱し、つぎの日のタイムズ朝刊に広告を出しました――例の『なくしもの』の広告です。あれで本屋の場所はわかったが、つぎになにをすればいいのかわからないということを伝えたかったのでしょう。それから広告にでていた十二月三日火曜日深夜という日付は、まだその正体を知らないワイントラウブにいつ自分が船に乗るかを伝えるためのものでした。ワイントラウブはあらかじめスパイ組織から『なくしもの』の広告欄に注意するよう指示を受けていました」

 「なんてことかしら!」ティタニアが声をあげた。

 オーブリーはつづけた。「以上の推測が百パーセント正しいとはいえないかも知れませんが、いろいろ考え合わせると、そういうことになります。ワイントラウブはじつに慎重な男でしたが、今度ばかりはメツガーと直接コンタクトを取る必要があると考えました。彼は金曜日に本を持って会いに来いと伝えました。一方、メツガーはホテルのエレベータでわたしに話しかけられ、ひどく怯えていました。彼はミセス・ミフリンが覚えていらっしゃるように、あの晩本を店に返しに来ました。わたしが家に帰る途中で薬屋に立ち寄ったとき、彼はワイントラウブといっしょにいたにちがいありません。わたしは薬局の本棚に『クロムウェル伝』の表紙を見つけました――どうして彼が不注意にも表紙をそんなところにほったらかしにしていたのかわかりません――そして彼らはわたしがなにかを知っているとただちに感づいたんです。それで橋の上までわたしを追いかけ、殺そうとしました。ワイントラウブが日曜日のまだ暗いうちに店に押し入ったのは、金曜日の晩にわたしが表紙を持って行ってしまったからです。爆弾を組み込む本の表紙が必要だったのです」

 オーブリーはみんながじっと聴き入っていることを気持ちよく意識した。彼はティタニアの視線をとらえ、うっすらと顔を上気させた。

 「お話しすべきことはだいたい以上です。連中が必死になってわたしの命を狙おうとしたので、なにか後ろ暗いことがあるに決まっていると思っていましたよ。つぎの日の土曜日の午後、わたしはブルックリンに来て、通りのむかいに部屋を借りました」

 「それからわたしたち、映画に行ったわね」ティタニアが明るくいった。

 「そのあとのことは皆さんご存じでしょう――その晩メツガーがわたしの下宿を訪ねてきたこと以外は」彼はそのとき起きたことを話した。「彼らはすぐ間近まで迫っていたんです。窓辺のたばこに気がつかなかったら、彼の思うつぼだったでしょう。もちろんわたしが勘ちがいしていたこともご存じですね。わたしはミスタ・ミフリンが彼らとぐるになっていると思ったのですが、それに関してはお詫びしなければなりません。そのせいでわたしはミスタ・ミフリンに叩きのめされてしまったんですよ、フィラデルフィアで」

 オーブリーはラドロー通りまで書店主をつけたこと、喧嘩になって負かされたことをユーモラスに語った。

 「彼らはわたしを遅かれ早かれ殺すつもりでいたと思います」とオーブリーはいった。「そしてミスタ・ミフリンを町からおびき出すために偽の電話をかけました。メツガーにこの本屋までスーツケースを取りに来させたのは、ワイントラウブの周辺で接触するのをできるだけ避けたかったからでしょう。一見したところあれは古本の詰まった鞄に過ぎませんでした。たぶんあの爆弾本はページを開こうとしないかぎり安全だったのです」

 「本当に危ないときに、お二人とももどってこられたのよ」ティタニアが賛嘆するようにいった。「午後はほとんどわたしひとりだったんです。ワイントラウブがスーツケースを置いていったのが二時ごろ。メツガーが取りに来たのが六時ごろでした。わたし、わたすのを断ったんです。あの人、あんまりしつこいんで、ボックをけしかけるわよって脅かさなければならなかったわ。わたしはあのかわいい老犬をおさえるだけで精一杯。メツガーに襲いかかろうとしてやっきになっているんですもの。シェフは帰ったけど、きっとワイントラウブのところに相談に行ったんだと思いました。それでスーツケースをわたしの部屋に隠したの。ミスタ・ミフリンは触るなっていったけど、それがいちばん安全だろうと思ったんです。そしたらミセス・ミフリンがもどってきました。わたしたちはボックを裏庭に放して、夕ご飯の支度をはじめました。ベルが鳴ったので、わたしはお店のほうに行きました。あの二人のドイツ人がブラインドをおろしていました。なにをしているのっていったら、わたしを捕まえて黙れっていうんです。それからメツガーがわたしにピストルを突きつけ、そのあいだもう一人がミセス・ミフリンを縛りあげたの」

 「悪党どもめ!」オーブリーが叫んだ。「やつらは当然の報いを受けたわけだ」

 「さあ、皆さん」とミスタ・チャップマンがいった。「それだけで済んだことを天に感謝しましょう。ミスタ・ギルバート、今回の事件を通して考えたことがあるのですが、それは後でいうことにします。さて、ミスタ・オーブリー・ギルバートの健康を祈って乾杯しましょう! 疑いもなくこの映画のヒーローなんですから」

 彼らは歓声をあげて乾杯し、オーブリーはそうした機会にふさわしく顔を赤らめた。

 「そうだわ、忘れていたわ!」ティタニアが叫んだ。「今日の午後買い物に行ったとき、ブレンターノ書店に立ち寄ったの。運よくほしかったものが置いてあったわ。ミスタ・ギルバートへ、幽霊書店の思い出に」

 彼女は食器棚のほうへ飛んでいき、小さな包みを持ってもどってきた。

 オーブリーはうれしさのあまり動顛しながらそれを開けた。カーライルの「クロムウェル伝」だった。彼はどもりながら礼をいおうとしたが、ティタニアの輝く顔に浮かぶ表情を見て――というより見たような気がして――ふぬけのようになってしまった。

 「おなじ版だね!」とロジャーがいった。「それじゃ、あの謎のページ番号を調べようじゃないか! ギルバート、メモを持っているかね?」

 オーブリーはノートを取り出した。「これですよ。これがワイントラウブが表紙の裏に書いた記号です」

 153 (3) 1, 2.

 ロジャーは記号を眺めた。

 「これなら難しくはないはずだ。この版には三冊の本が一冊にまとめられている。第三巻の153ページ、第一行と第二行を見てみよう」

 オーブリーはそこをめくった。彼は書かれていることを読み、にっこりした。

 「ずばり当たりましたよ」

 「読んでちょうだい!」みんなが叫んだ。

 「護国卿の警備員をたぶらかして、寝室にいる護国卿を爆弾で殺害、およびそのほかの細かい計画を遂行」

 「ここからヒントを得たとしても不思議はない」とロジャーがいった。「わたしがいつもいっているだろう? 本は死物なんかじゃないのさ!」

 「驚いたわ」とティタニアがいった。「本は爆薬だって教えていただいたけど、ほんとうなのね! ミスタ・ギルバートが聞いてなくてよかったわ。さもないときっと疑われていたでしょうから!」

 「これはやられたな」とロジャーがいった。

 「ねえ、みんなで乾杯しましょうよ」とティタニアがいった。「わたしが知っているなかでいちばん愛らしくて、勇ましい犬、ボックの思い出のために!」

 彼らは愛犬の死にふさわしい厳粛な表情で酒を飲み干した。

 「善良な皆さん」ミスタ・チャップマンがいった。「今となってはボックのためにしてやれることはなにもありません。しかし残ったわたしたちのためになら、できることがあります。わたしはティタニアとずっと話し合っていたんです、ミスタ・ミフリン。こんな惨事のあとですから、わたしはまずできるだけ早く娘を本屋の仕事から引き離そうと思いました。彼女には少々刺激が強すぎると考えたのです。静かな生活を送り、頭を冷やすのが目的でここに送り出したのですからね。ところが、娘は帰りたくないというのですよ。もしも一族の者が本屋になるというのなら、それを正当化できるようにわたしも本屋のためになにか貢献したいと思います。あなたは馬車に本を積んで旅をし、文学を田舎に広める計画をお持ちでしたね。そこでもしもあなたとミセス・ミフリンがその計画を進める適当な人材を見つけることができるなら、あなたのいうパルナッソス号を十台買いそろえ、来年の春には活動が開始できるよう準備をさせていただきたいと思います。いかがです?」

 ロジャーとヘレンは顔を見合わせ、それからミスタ・チャップマンを見た。ロジャーはその瞬間にいちばん大切な夢の一つが実現するのだと思った。ティタニアもこれには驚き、椅子から飛びあがると父親のもとに駆け寄りこう叫んだ。「ああ、お父さん、お父さんはほんとうにすてきだわ!」

 ロジャーは厳かに立ちあがり、ミスタ・チャップマンに手をさしのべた。

 「チャップマン社長」と彼はいった。「ミス・ティタニアがおっしゃったとおりです。あなたは人類が誇りとすべき方だ。けっして後悔はさせませんよ。今がわたしの人生で最高にしあわせな瞬間です」

 「では、この件は片がつきました」とミスタ・チャップマンがいった。「詳細はあとで話しましょう。さて、もう一つ気になっていることがあります。もしかしたらこんな場所で仕事の話をするのはよくないのかも知れませんが、しかしこれはいわば家族のパーティーのようなものですから――ミスタ・ギルバート、これはわたしの義務としてお伝えするのですが、グレイ・マター広告代理店に広告業務を委託するのは止めるつもりでいます」オーブリーは肩を落とした。彼は最初からこのような悲惨な結末を恐れていた。万事に手堅いビジネスマンなら、諜報部員のようにスパイを追いかけ、路地で盗み聞きをし、他人をドイツびいき呼ばわりする若い社員がいる会社などに、巨額の利益がかかった仕事を任せるはずがないのだ。オーブリーは思った。ビジネスは信頼の上に築かれる。ふらふらと冒険にでかけるような男にミスタ・チャップマンがどんな信頼を置くことができるのか? それでも彼は自分の行動を恥じてはいなかった。

 「残念です、社長」と彼はいった。「わが社はあなたのお役に立とうと努力しました。事務所にいるときは何時間も心を傾け、あなたの会社の宣伝企画を立てたのです」

 彼は屈辱的な姿を見られ、ティタニアのほうに顔をむけることができなかった。

 「まさにそのことなんだがね」とミスタ・チャップマンがいった。「きみには多大な時間を費やすだけじゃなく、すべての時間を費やしてもらいたい。デインティビッツ株式会社の宣伝部長補佐に就任することを了承してくれ」

 全員が歓声をあげ、オーブリーはその晩三度目であったが、まじめな宣伝マンとして身にあまる栄誉を感じた。彼はなんとかそのうれしさを言葉であらわし、それからこうつけ加えた。

 「今度はわたしが乾杯の音頭を取りましょう。ミフリン夫妻の健康と、幽霊書店、わたしがはじめて――はじめて――」

 彼は思いきっていうことができず、「はじめて文学の意味を知った場所に乾杯」とつづけてしまった。

 「居間に席を移しましょうよ」とヘレンがいった。「楽しいお話が山ほどあるし、ロジャーはきっとお店の改造計画を話したくてうずうずしているから」

 オーブリーはいちばん最後までその部屋に残っていたのだが、そのときティタニアがハンカチを落としたのはただの偶然ではないと考えていいだろう。ほかの人々は廊下をわたって居間に入っていた。

 二人は目を合わせ、オーブリーはじっと注がれる彼女の真剣なまなざしのなかで溺れてしまいそうな気がした。こんなにすぐそばにいて、しかもたった二人きりだという喜びは、かえって拷問のようだった。まるで世界に見捨てられ、ランプの下でテーブルクロスが輝く、光の小島に取り残されてしまったかのようだった。

 彼の手にはあの大切な本が握られていた。頭のなかで千の思いが入り乱れたが、そのうちの一つだけを思い切って口にした。

 「わたしの名前を書いてもらってもいいですか?」

 「喜んで」彼女の声はかすかに震えていた。彼女も心臓が高鳴り不思議と動揺していたのである。

 彼は自分のペンをわたし、彼女はテーブルに座った。彼女はすばやく手を動かした。

 ティタニア・チャップマンから

 オーブリー・ギルバートへ、

 感――

 彼女は手を止めた。

 「困ったわ」彼女はすぐにそういった。「今書かなければなりません?」

 ランプの光に生き生きと輝く顔が彼を見あげた。オーブリーはどういうものか身体が麻痺してしまい、彼女のまつげに輝く小さな金色のきらめきのことしか考えることができなかった。今度は彼女が先に目をそらした。

 「あのね」彼女の声は奇妙に震えた。「言葉づかいを変えたほうがいいかもしれない」そして彼女は部屋から駆け出した。

 居間に入ると、父親が話をしていた。「じつを言うと、わたしは娘が本屋の仕事をつづけたいといったことを喜んでいるんです」ロジャーは彼女を見あげた。

 「うむ」と彼はいった。「きっと本屋が気に入ったのでしょう! こういう場所に住むと本に夢中になってほかのことを考える暇なんかありませんからね。きみも本に出てくる人物のほうが現実の人よりももっと現実的に思えてくるようになるよ」

 ミセス・ミフリンの腕に抱かれたティタニアはほかの人に気づかれないようにヘレンの手を握った。彼らはこっそりと微笑みを交わした。

訳者後記

 この翻訳は1919年発行 Grosset and Dunlap 社版を底本にしました。

 訳出に当たって次の書籍を参考にしました。訳文をそのままお借りした物もあれば、一部変更して使わせていただいたものもあります。ここに記して感謝します。

 「ジョージ・ハーバート詩集」鬼塚敬一訳・著 南雲堂

 「続 ジョージ・ハーバート詩集――教会のポーチ・闘う教会」鬼塚敬一訳・著 南雲堂

 「天路歴程」竹友藻風訳 岩波文庫

 「エリザベス朝演劇集I」小田島雄志訳 白水社

 「O・ヘンリー ミステリー傑作選」小鷹信光編訳 河出文庫

 「コンラッド短編集」中島賢二訳 岩波文庫

 「豪華版世界文学全集38 世界詩集キーツ編」安藤一郎訳 講談社

 「シェイクスピア詩集」関口篤訳 思潮社

 「草の葉」酒本雅之訳 岩波文庫

 本書で紹介されている本は、一般になじみのないものも多いため、簡単な読書案内を附すことにしました。ただし私が住む札幌市の市立図書館に蔵書がある場合は、書名、訳者名、出版社名を記すだけにしました。それ以外はかつて訳が出ていたとしても、入手困難と見なし、説明を附けてあります。作者が適当に作ったと思われるタイトルは省略しました。また Internet Archive が絶版になっている本を公開してくれなければ、この読書案内は完成できなかったであろうことも言い添えておきます。

読書案内

序文

Parnassus on Wheels (1917) by Christopher Morley (1890-1957)

「幽霊書店」の前編に当る短い小説で、荷馬車に乗って田舎で本を売るミフリンがヘレンに出会い、大冒険の末結ばれるまでを描く。

第一章

Trivia (1902) by Logan Pearsall Smith (1865-1946)

断章形式で人生の諸相を一筆書きしたエッセイ集。ユーモアとメランコリーとシニシズムが軽くふりかけられた、しゃれた文章である。

The Story of My Heart (1883) by Richard Jefferies (1848-1887)

リチャード・ジェフリス「わが心の記」寿岳しづ訳 岩波文庫

Notebooks (1912) by Samuel Butler (1835-1902)

バトラーがふと思いついたアイデアを忘備録に残したもの。「道徳の基礎 これも他の基礎とおなじで、あまりほじくり返すと、その上の思想体系が崩れ落ちてくる」「人生は生きるに値するか そんなことは胎児が考えればいいのであって、人間が考えることじゃない」。

The Man Who Was Thursday (1907) by G. K. Chesterton (1874-1936)

G.K.チェスタトン「木曜の男」吉田健一訳 創元推理文庫

The Demi-Gods (1914) by James Stephens (1882-1950)

三人の天使がアイルランドの田舎に舞い下り、行商の父娘、おより驢馬と旅をする。アイリッシュ・ユーモアとペーソスにあふれた秀作。作者はアイルランドの作家・詩人で、ジェイムズ・ジョイスに、「フィネガンス・ウエイク」を書き終えることが出来なかったら、おまえが完成させてくれないか、と言われた男である。

The Works of Francis Thompson (1859-1907)

イギリスのカトリック系の家に生まれた詩人だが、アヘン中毒を患い、生活は苦しかった。「幽霊書店」第六章でミフリンが「フランシス・トンプソンの詩に出てくる猟犬」といっているが、これは神から隠れようとする者と、それをすさまじい勢いで追う神を描いた「天の猟犬」のこと。

Social History of Smoking (1916) by George Latimer Apperson (1857-1937)

イギリスにおける喫煙の歴史を辿りながら文学や風俗など、いろいろな知識が得られる楽しい本。「幽霊書店」の第一章でウォルター・ローリー卿が「たばこの守護神」と呼ばれているのは、卿がイギリスに初めてたばこを紹介した人だと思われているからだ。彼がたばこを吸っていたとき、召使いは主人が燃えていると思ってバケツの水をかけたそうだ。

The Path to Rome (1902) by Hilaire Belloc (1870-1953)

フランスからアルプスを越えてローマに至るまでの旅行記だが、ウイットと活気に満ちた語り口で旅行中の体験や作者の意見を語り、英米では未だに版を重ねる人気の一冊。作者は子供向けのライト・ヴァースでも有名。

The Book of Tea (1906) by Kakuzo (1863-1913)

岡倉覚三「茶の本」岩波文庫

Happy Thoughts (1868) by F. C. Burnand (1836-1917)

バーナンドは一八八〇年から一九〇六年まで「パンチ」の編集長をした。文筆家を志す男が、友人の田舎屋敷を経巡りながら、滑稽な体験を語る。イギリス的なユーモアが味わえるだけでなく、十九世紀後半の風俗を知る上でも興味深い一冊。

Dr. Johnson's Prayers and Meditations

ジョンソン博士(1709-1784)は初めて英語の辞書を作った、オーガスタン時代の文壇の大御所だが、彼のお祈りの内容を見ると「怠け癖を直し、寝る時間をきちんと守り、次の日の予定を立てて、日記をつけ、日曜日には教会に行くこと。神様、わたしの罪深い習慣が直るように力を与えてください」

Margaret Ogilvy (1896) by J. M. Barrie (1860-1937)

「ピーター・パン」の作者が、十四歳で死んだ兄や母親の思い出を綴った作品。不滅のキャラクター、ピーターとウエンディの創造の秘密を知りたいなら、この本は必読である。

Confessions of a Thug (1839) by Philip Meadows Taylor (1808-1876)

カーリー神の名の下に人殺しの儀式を繰り返すインドの秘密結社の話。作者がインドで警視を務めているとき、サグ団の殺人や窃盗のことを知り、小説化した。当時のベストセラー。

The Morning's War (1913) by C. E. Montague (1867-1928)

モンターギュはイギリスのジャーナリストで作家。四十代後半で第一次世界大戦の塹壕戦を経験している。タイトルをシェイクスピアの一節から取った本作は、オーブリーとジューンという、いとこ同士のロマンスを、独特の美文で描いている。アルプス登山の場面が鮮烈な印象を残す。

The Spirit of Man (1915) edited by Robert Bridges (1844-1930)

編者はイギリスの桂冠詩人。つまり国家的行事の際に詩を作るよう政府から正式に任命された人である。ジェラルド・マンリー・ホプキンスの詩を死後出版し、その名声を高らしめた人でもある。本書は英仏の詩のアンソロジー。

The Romany Rye (1857) by George Henry Borrow (1803-81)

作者はイギリスとヨーロッパを放浪し、ジプシーと交友を深めた。ヴィクトリア時代に、今でいう「オルターナティヴ」な生き方を求めた人だ。Lavengro「ラヴェングロー」とその続編に当たる本作は代表作。両者は完全な一続きの物語なので、読むなら「ラヴェングロー」から読まなければならない。

Poems by Emily Dickinson (1830-86)

「ディキンスン詩集」新倉俊一編 思潮社

Poems by George Herbert (1593-1633)

「ジョージ・ハーバート詩集―教会」鬼塚敬一訳 南雲堂

「続 ジョージ・ハーバート詩集―教会のポーチ・闘う教会」鬼塚敬一訳 南雲堂

The House of Cobwebs (1906) by George Gissing (1857-1903)

ジョージ・ギッシング「蜘蛛の巣の家」吉田甲子太郎訳 岩波書店

Erewhon (1872) by Samuel Butler (1835-1902)

サミュエル・バトラー「エレホン 倒錯したユートピア」石原文雄訳 音羽書房

The Way of All Flesh (1903) by Samuel Butler (1835-1902)

牧師の息子アーネスト・ポンティフェクスの成長を描きながら、ヴィクトリア時代に威圧的権威をふるっていた家とか教会を批判している。

Letters and Speeches of Oliver Cromwell (1845) by Thomas Carlyle (1795-1881)

クロムウエルの肉声を生き生きと伝えていると言われているが、私はミフリン夫人と同じで最初の数ページで読むのを放棄した。

第二章

The Home Book of Verse (1912) ed. Burton Egbert Stevenson (1872-1962)

一五八〇年から一九一二年に至るまでの英米の詩のコレクション。B. E. Stevenson は図書館司書で、本書と Home Book of Quotations (1934) の編者として有名。児童書やミステリーも書いている。

Weir of Hermiston (1896) by Robert Louis Stevenson (1850-94)

作者の死により未完に終わった作品。まず主人公とその父との葛藤が描かれ、その後は恋愛、恋人たちを引き裂く不吉な影と、確実な足取りで物語が進行していく。厳格な父親の描写は迫力がある。ミフリンが言う「爆発機関」は主人公の胸の中で激しく泣く恋人の様子を表した言葉。

Fireside Conversation in the Age of Queen Elizabeth (1880) by Mark Twain (1835-1910)

ベーコン卿、ウオルター・ローリー卿、ベン・ジョンソン、シェイクスピアなどの有名人や、その他貴婦人たちが処女王エリザベス一世を囲んで猥談にふけるという短い話で、エリザベス朝の文体で書かれている。ポルノまがいに地下出版されていた。

The Jungle Book (1894) by Rudyard Kipling (1865-1936)

キップリング「ジャングル・ブック」金原瑞人訳 偕成社

American Commonwealth (1888) by James Bryce (1838-1922)

作者はイギリスの法学者で歴史家。この本はアメリカの政府や政治の研究としてトックヴィルの「アメリカのデモクラシー」並に重要なものらしい。素人にも分かるように書かれていて、第一部第八章「なぜ偉大な人物が大統領に選ばれないのか」で指摘されるアメリカとヨーロッパの違いなどは目から鱗。

The Amenities of Book-Collecting and Kindred Affections (1918) by Edward A. Newton (1863-1940)

書籍蒐集の喜びを教えてくれるだけでなく、次々と繰り出されるゴシップ、文学談義がとても楽しい本。作者は生涯のうちに一万冊の稀覯本を集め、ウイットの効いた文章で、本にまつわるエッセイを幾つも著している。

The Cloister and the Hearth (1861) by Charles Reade (1814-84)

十五世紀ヨーロッパを舞台にした歴史小説。主人公は名もない庶民のカップルだが、ロマンス有り、陰謀有り、再会有り、しかも彼らがエラスムスの両親だったというサービス満点の物語。平明な文章で、話にスピード感がある。

Tarzan of the Apes (1914) by E. R. Burroughs (1875-1950)

エドガー・ライス・バローズ「ターザン」厚木淳訳 創元社文庫。映画は1918年に公開。

第三章

The Wealth of Nations (1776) by Adam Smith (1723-1790)

アダム・スミス「国富論」大河内一男監訳 中公文庫

Society in Rome under the Caesars (1888) by William Ralph Inge (1860-1954)

イングは神学者で、セント・ポール大聖堂の主任司祭だった。ペシミスティックな思想の持ち主で「憂鬱な主任司祭」と呼ばれた。本書はローマ帝国の文化・社会を詳説したもの。

The Statesman's Year Book

世界各国の政治、経済、文化の状況を報告するもので、一八六三年からイギリスで出版され続けている。

The Letters of Queen Victoria (in three volumes) (1907) edited by Arthur Christopher Benson and Viscount Esher

ヴィクトリア女王 (1819-1901) は帝国を広げていった時期のイギリスの象徴で、膨大な手紙と日記を残している。最盛期のイギリスに君臨した女王が時には断固とした意見を述べ、時には女としての胸の内を語る。

On a Slow Train Through Arkansaw (1903) by Thomas William Jackson (1867-1934)

I'm From Texas, You Can't Steer Me (1907) by Thomas William Jackson (1867-1934)

女、ユダヤ人、黒人、アイルランド人などに対する差別的でくだらないジョーク集。タイトルに意味はない。

Brann the Iconoclast (1919) by William Cowper Brann (1855-1898)

ブランは人種偏見と独善的な意見で知られたアメリカのジャーナリスト。バプテスト派の大学を攻撃し、大学の支持者に撃たれたが、死ぬ前に銃を奪って相手も殺してしまった。本書は彼の著作集。

Tom Jones (1749) by Henry Fielding (1707-1754)

ヘンリー・フィールディング「トム・ジョウンズ」朱牟田夏雄訳 岩波文庫

Causeries du lundi (1851-1862) by Charles Augustin Sainte-Beuve (1804-1869)

サント・ブーヴ「月曜閑談」土井寛之訳 富山房

"St. Agnes' Eve" (1819) by John Keats (1795-1821)

ジョン・キーツ「新訳キーツ詩集」高島誠訳 彌生書房

Over Bemerton's, an easy-going chronicle (1908) by Edward Verrall Lucas (1868-1938)

ブエノス・アイレスからロンドンに戻り、古本屋の二階に下宿する五十五歳の独身男を主人公にしたロマンス。本屋で働きながら教養を身につけた作家のもっとも有名な作品。「幽霊書店」と同じように物語の中でさまざまな書籍の紹介をしている。

Tribune Primer (1882) by Eugene Field (1850-1895)

作者はアメリカのジャーナリストで子供向けの詩を書いた。本書は子供向けの初等読本の文体で書かれたスケッチ集である。詩にもスケッチにもナンセンスな味わいがあって楽しい。ちなみに本章に出てくる「書物の喜び」"biblio-bliss" という言葉は、十八世紀イギリスの書誌学者 Thomas Frognall Dibdin が登場する Field の詩 "Dibdin's Ghost" からきているのだろう。

Archy by Don Marquis (1878-1937)

ドン・マーキスはゴキブリ・アーチーの詩で有名なユーモア作家。一九一六年から新聞に連載され、ジョージ・メリマンのイラストと共に archy and mehitabel (1927) 以下数冊にまとめられている。ミフリンが引用している詩は The Old Soak and Hail and Farewell (1921) に収められている。

"Love in the Valley" (1878) by George Meredith (1828-1909)

「エゴイスト」や「リチャード・フェヴェレルの試練」を書いたメレディスは漱石にも影響を与えた小説家・詩人。本作は恋心と自然描写が精妙に融け合う彼の詩の代表作。

The Nigger of the Narcissus (1897) by Joseph Conrad (1857-1924)

「ナーシサス号の黒人」高見幸郎訳(筑摩書房 世界文学大系86所収)

Christmas Stories by Charles Dickens (1812-1870)

1857年から1867年までに書かれた短編二十編を納める。第四章でロジャーが朗読する「だれかの手荷物」(1862) もこの中に含まれる。

The Wrong Box (1889) by R. L. Stevenson (1850-1894)

ロバート・ルイス・スティーヴンソン「箱ちがい」千葉康樹訳 国書刊行会

Travels with a Donkey (1879) by R. L. Stevenson (1850-1894)

ロバート・ルイス・スティーヴンソン「旅は驢馬をつれて」吉田健一訳 岩波書店

The Four Horsemen of the Apocalypse (1916) by Vicente Blasco Ibanez (1867-1928)

第一次大戦中に書かれた長大な反戦小説で、美男俳優ヴァレンチーノが主演する映画 (1921) にもなった。黙示録の四騎士とは死、疫病、戦争、飢饉のことで、これが今でも世界中を駆けめぐっている。

Walking-Stick Papers (1918) by Robert Cortes Holliday (1880-?)

軽妙な筆致の随筆集。作者によると、日本人(といっても明治時代の日本人だ)は書店主に恐れられていたらしい。三文小説には決して手を出さず、よく分からない英語で、入手困難な哲学や政治の専門書を求めるからだそうだ。

Jo's Boys (1886) by Louisa May Alcott (1832-1888)

ルイザ・メイ・オルコット「第四若草物語 ジョーの少年たち」吉田勝江訳 角川文庫

The Lays of Ancient Rome (1842) by Thomas Babbington Macaulay (1800-1859)

マコーレーは詩人で歴史家で政治家。本書は古代ローマの英雄をうたったバラッド集。「この世にあるものには 必ず死が訪れる ならば何よりも良い死に方は 強き敵に立ち向かうこと 自らの父の霊のために 自らの神の神殿のために」

Austin Dobson (1840-1921)

ドブソンはイギリスの詩人でエッセイスト。ちょっと俗っぽいところもあるが、軽やかな調子のエレガントな詩を書いている。

Whispers about Women (1906) by Leonard Merrick (1864-1939)

パリでボヘミアン的な生活を営む芸術家や芸人たちの滑稽なエピソード集。ジョージ・オーウェルが Good Bad Books の中で、二流には違いないが、それなりに誠実さがあって小説の本質や、その衰亡の理由についてなにがしかを語ってくれる小説家の一人と言っている。

The Dynasts (1903-1908) by Thomas Hardy (1840-1928)

ナポレオン戦争を描いた壮大な詩劇。庶民、軍人、精霊たち、総勢百名以上が、宇宙を支配する盲目的な力に翻弄されながら、ヨーロッパや天界を舞台に一大パノラマを展開する。

第四章

Sartor Resartus (1831) by Thomas Carlyle (1795-1881)

トマス・カーライル「衣服哲学」石田憲次訳 岩波文庫

Making Life Worth While (1918) by Douglas Fairbanks (1883-1939)

ダグラス・フェアバンクスといえば「ゾロ」 (1920) とか「三銃士」(1921) の映画俳優だが、同時に自己啓発の本を何冊も著している。ダグのしあわせの処方箋とは、「謙虚であること、いつも良い機嫌でいること、肉体を鍛錬すること」。

Mother Shipton's Book of Oracles

マザー・シプトンは十五世紀にイギリスのヨークシャーに生まれたという伝説的な予言者。本書の特定は出来なかったが、この手のいかがわしい本はいつの時代にもあふれている。

"A Christmas Carol" (1843) by Charles Dickens (1812-1870)

チャールズ・ディケンズ「クリスマス・キャロル」脇明子訳 岩波少年文庫

"Somebody's Luggage" (1862) by Charles Dickens (1812-1870)

クリストファーという給仕が勤める宿屋には、ある客が置いていった荷物が保管されていた。宿のおかみは客の連絡を待っていたが、何年も音沙汰なし。クリストファーがおかみからその荷物を買い取って中を確かめると、小説の原稿がでてくる。彼はそれを出版社に売り飛ばすが、間の悪いことにその直後に荷物の持ち主が宿にやってきた!

"The Anarchist" (1906) by Joseph Conrad (1857-1924)

ジョウゼフ・コンラッド「無政府主義者」(「コンラッド短編集」中島賢二編訳 岩波文庫に所収)

第五章

The Man on the Box (1904) by Harold MacGrath (1871-1932)

立派な家柄の若き退役軍人ボブが、ふとしたいたずらをきっかけに、ひそかに思いを寄せる美しい貴婦人の屋敷に、身分を隠し、御者として奉公することになる。アメリカ上流階級・政界を舞台にした冒険とロマンス。

A Houseboat on the Styx (1895) by John Kendrick Bangs (1862-1922)

あの世で有名人がユーモラスな会話を交わし、騒動を起こすファンタジー。文学的なギャクが面白い。シェイクスピア=ベーコン説に対して、シェイクスピアが「あれはおれが書いたんだ」と主張すると、ベーコンが「そうだね、僕が口述して、きみが書き取った」という具合。

A Girl of the Limberlost (1909) by Gene Stratton-Porter (1863-1924)

ジーン・ポーター「リンバロストの乙女」村岡花子訳 角川書店

The Divine Fire (1904) by May Sinclair (1863-1946)

本屋の息子リックマンは古典に通じ、詩才を持った若者である。とある蔵書家のカタログを作るように頼まれ、そこで美しいルーシアと知り合い、恋が芽生える。怪奇を描いているわけでもないのに、なんとなく不気味な、独特の雰囲気を持った文章である。

Heart Throbs edited by Joe Mitchell Chapple

一九〇四年、ボストン・ナショナル・マガジンの出版者 Chapple が、賞金つきで「ときめき」を与える話を公募し、一冊の本にした。これが好評で、一九一一年に続巻が出ている。

第六章

The Winning of the Best (1912) by Ralph Waldo Trine (1866-1958)

作者は十九世紀の新思想運動の指導者の一人。人間の内なる力を認識し、それを神の意志と調和させることで、健康、愛、成功、平和が得られると主張する。

"Happy Warrior" (1804) by William Wordsworth (1770-1850)

理想の戦士とはどのようなものか、その特質を延々と綴った詩。「それは寛大なる精神 現実の問題に突き当たったとき 子供心を満足させるような方策を見出す精神だ」

Underwoods (1887) by R. L. Stevenson (1850-1894)

「宝島」の作者の詩集。冒頭にこんな詩が据えられている。「私の詩はどの一行も気に入らない でも題名は私のではないから気に入っている この題名はすぐれた人から盗んだものだ 全部盗むことが出来たらどんなによかっただろう!」

Rollo books by Jacob Abbott (1803-1902)

作者は牧師・教育家。ロロという男の子を主人公にした児童書を何冊か書いている。私は「森の中のロロ」しか読んだことがないが、ものを作る知恵と工夫、感情に流されない判断力、相手の気持ちを理解・尊重することの大切さを、あまり教訓臭くならずに説いている。

The Late Mrs. Null (1886) by Frank Stockton (1834-1902)

ロベルタ嬢に恋するクロフト青年は、彼女のかつての恋人ケズウィック氏のことを知ろうと「情報屋」に調査を依頼する。調査員はナル夫人と名乗ってケズウィック氏の実家に行くのだが、なぜか彼女はその家のことを自分の家の如く知っているのだ。個性豊かな脇役たち、上品なユーモア、暖かい人間性と、ストックトンらしい小説。

Dere Mable (1918) by Edward Streeter (1891-1976)

That's Me All Over Mable (1919) by Edward Streeter (1891-1976)

戦場の無教養な一兵卒が恋人のメイベルに手紙を書く。野卑なユーモアに満ちているが、そこに戦争の不条理が感じられるのも事実である。「おまえのおっかさんのあみかけの手袋、送ってくれてありがとよ。手の指、弾にふっとばされたら、役に立つ日もあろうってものよ」

The Iliad by Homer (B.C. 9 c.)

ホメーロス「イーリアス」呉茂一訳 岩波文庫

Essays (1597) by Francis Bacon (1561-1626)

フランシス・ベーコン「ベーコン随想集」渡辺義雄訳 岩波文庫

"Year that trembled and reeled beneath me" by Walt Whitman (1819-1892)

Leaves of Grass (1855-1892)に所収の一編。ウオルト・ホイットマン「草の葉」酒本雅之訳 岩波文庫

Mr. Britling Sees It Through (1916) by H. G. Wells (1866-1946)

著名な作家ブリトリング氏が、第一次世界大戦やイギリスの社会について意見を述べる。大戦中にイギリスでもっともよく読まれ、ゴーリキーも賞讃した小説。

Men in War (1918) by Andreas Latzko (1876-1943)

六つの連作短編からなる本書は、戦争という病理をグロテスクなまでに解剖している。まさに「わたしたちの心が何を病んでいたのかを知る」には格好の作品である。作者はオーストリア・ハンガリー軍の兵科将校だったが、戦争の悲惨を目の当たりにして軍務を放棄した。

Areopagitica (1644) by John Milton (1608-1674)

時の政府が出版物の検閲を目論んだとき、「失楽園」の作者は抗議の声を上げた。「本は息絶えた死物ではない。それを生んだ魂と同じくらい活発な生命力を宿しているのだ」「良書を殺す者は理性そのものを殺す者である」さすが大詩人、迫力の獅子吼。ロジャーはこのパンフレットから大いに影響を受けている。

J'accuse (1915) by Richard Grelling (1853-1929)

真実に目をつぶり、プロパガンダに踊るドイツを目覚めさせようと、ドイツの戦争の犯罪性を暴いて見せたもの。わたしが読んだのは英訳版だが、熱のこもった激しい口調で書かれている。

The Vandal of Europe by Wilhelm Muehlon

著者は兵器を製造していたクルップ・コンツェルンの所長をしたこともある人。戦争への道を選択したドイツを内部告発している。戦争の責任は政府だけにあるのではない。ドイツの政治的、社会的、道徳的構造がこぞって戦争に突き進んだのだ。英語版は一九一八年出版。

Lichnowsky's private memorandum (1916) by Karl Max Fuerst von Lichnowsky (1860-1928)

作者は一九一二年から一九一四年まで駐英大使だった。第一次大戦勃発を防ごうと努力したが、政府からの支持を得られなかった。その間の事情をパンフレットとして書き、密かに配布したところ、一九一八年、連合国側が勝手にこれを出版し、彼はプロシアの上院から追放された。

Au-Dessus de la Mele (1915) by Romain Rolland (1866-1944)

ロマン・ロラン「戦いを越えて」(「ロマン・ロラン全集十八」所収 宮本正清他訳 みすず書房)

Le Feu (1916) by Henri Barbusse (1873-1935)

アンリ・バルビュス「砲火」田辺貞之助訳 岩波文庫

Civilization (1918) by Georges Duhamel (1884-1966)

第一次世界大戦中、野戦病院での兵士の悲惨な様子を描いた短編連作で、ゴンクール賞を受賞している。

The Meaning of Death (1914) by Paul Bourget (1852-1935)

ポール・ブルジェ「死」木村太郎訳 小山書店

A Student in Arms (1917) by Donald Hankey (1884 -1916)

神学を学び、前線に参加した作者が「スペクテイター」に匿名で掲載した、戯曲、エッセイ、戦場日誌などいろいろな形式の文章を集めたもの。実際に塹壕の中で書かれたらしい。「戦争から離れているとき、栄光とか英雄的行為について語るのは簡単だ。記憶がおぞましい細部を和らげるから。しかし、ここ、ばらばらにされ苦しめられた死者の前では、人は戦争の恐怖と邪悪しか感じることができない」

The Tree of Heaven (1917) by May Sinclair (1863-1946)

ウエスト・エンドに邸宅を持つハリソン家の、性格の違う子ども達の成長を描いた家庭小説。一八九五年以降の世相(ボーア戦争、女性参政権運動、第一次世界大戦など)を映し出している。一九一八年のベストセラー。

Why Men Fight, by Bertrand Russell

バートランド・ラッセル「世界の大思想26」所収 松本悟朗訳 河出書房新社

Letters of Arthur George Heath with Memoir by Gilbert Murray (1917)

ヒースの個人指導教師で、後にオクスフォード大学の同僚となったマレーによって編まれた。二十八才の誕生日に戦死した、優秀な研究者が、戦場から主に両親に書き送った手紙を集めている。

Professor Latimer's Progress (1918) by Simeon Strunsky (1879-1948)

第一次大戦をきっかけに心を病んだラティマー教授が、療養のため田舎を経巡るのだが、その過程でさまざまな文明批評が展開される。作者はロシアで生まれ、ニューヨークで育ち、ジャーナリストとして活躍した。

The Education of Henry Adams (1918) by Henry Adams (1838-1918)

父親は公使、祖父と曾祖父は大統領という作者が、まるで自分を客観視するような三人称で、時にユーモアと諧謔を交え、思想遍歴を語る。歴史を「加速の法則」とかダイナモといった物理学的イメージでとらえている点が興味深い。

The Life and Opinions of John Buncle, Esq. (2 vols., 1756, 66) by Thomas Amory (1691?-1788)

理想的美質を備えた女性と結婚・死別を七回も繰り返すとんでもない男の話である。

Ten Thousand a Year (1839) by Samuel Warren (1807-1877)

しがない服地屋の店員が文書を偽造し莫大な遺産を受け取るのだが……。エドガー・アラン・ポーがこの作品のことをプロットもないし、文章はぞろっぺえだし、最初から最後まで金という俗情に訴える主題を扱っているから注目を浴びただけだ、とけなしている。

Peter Simple (1834) by Frederick Marryat (1792-1848)

海軍士官候補生ピーターがナポレオン戦争の最中に富と名誉を求めて冒険に出る。作者は海洋小説の先駆者の一人なのだが、ユーモアのセンスが抜群である。本書もそうだし、代表作 Mr Midshipman Easy (1836) も枕を叩き、涙をこぼして読む本である。

第七章

"Gift of the Magi" by O. Henry (1862-1910)

「O.ヘンリー短編集2」大久保康雄訳 新潮文庫

Rolling Stones by O. Henry (1862-1910)

これは短編集なのだが、オーブリーが他の作家に完成させたいと言っているのは絶筆になった「夢」という作品だろう。嫉妬に駆られた男が恋人を殺し、死刑執行の直前に幻を見る、幸せそうな恋人と、彼らの子供の幻を、という話になるはずだったらしい。

第八章

Paradise Lost (1667) by John Milton (1608-1674)

ジョン・ミルトン「失楽園」平井正穂訳 岩波文庫

The Blazed Trail (1902) by Stewart Edward White (1873-1946)

作者はアメリカ西部の自然を舞台に冒険物語を幾つも書いている。本書は伐木搬出業の裏面を暴いた、いわゆるマックレイキングな本でベストセラーになった。

Rudder Grange (1891) by Frank Richard Stockton (1834-1902)

ストックトンは、高名な短編「女か、虎か」を書いた人。本書は若い夫婦がボートを住み家とし、下宿人とお手伝いのポモナと共に愉快な騒動を繰り広げる話。みんな一生懸命なのだが、ちょっとどこかが抜けていて、たまらなく可笑しい。

第九章

Helen's Babies (1876) by John Habberton (1842-1921)

二十八歳の独身男が、二週間のあいだ、姉夫婦の二人の子供の面倒を見ることになった。ところがこの二人、近所の人から小鬼と綽名される大変なやんちゃだった。もちろんこの後は映画でよくある「子供 vs. 大人」のコメディが展開される。

The Ballad of Reading Gaol (1898) by Oscar Wilde (1854-1900)

オスカー・ワイルド「ワイルド全詩」日夏耿之介訳 講談社文芸文庫

Confessions of a Little Man During Great Days (1916) by Leonid Nikolaevich Andreyev (1871-1919)

アンドレーエフはロシア人作家。当時欧米で注目され、新作が出るとすぐ翻訳された。本作はロシアの小市民が第一次大戦に動揺させられる日々を日記の形で描き出している。本書の後半、ジェノサイドに遭った村の母子のエピソードはあまりにも痛ましい。

King Lear (1606) by William Shakespeare (1564-1616)

ウィリアム・シェイクスピア「リア王」小田島雄志訳 白水Uブックス

第十章

The Wishing-Cap Papers (1873) by Leigh Hunt (1784-1859)

作者は進歩的な雑誌 The Examiner を創刊し、随筆や批評を各新聞に書いていたジャーナリストである。本書は彼の軽妙な随筆集。

Philip Dru (1912) by Edward Mandell House (1858-1938)

富が少数者に集中する不公平なアメリカに不満を持つ若き軍人フィリップ・ドルーが、視力を失ったことをきっかけに、社会改革活動に身を投じる。小説としてはごく稚拙なもの。作者は民主党の「陰の大物」で、第一次大戦中ウィルソン大統領の相談役を演じた。

The Flying Inn (1914) by G.K. Chesterton (1874-1936)

一種の禁酒法がイギリスで施行され、それに反発した二人の男がラム酒を積んだ荷車を牽いて田舎を放浪する。作者は自分の著作の中でいちばん書くのが楽しかったと言っている。ミフリンがいうように、作中には「お茶は東洋人だが すくなくとも紳士だ ココアはげすの卑怯者 ココアは野卑な犬畜生」という詩がある。

Leaves of Grass (1855-1892) by Walt Whitman (1819-1892)

ウオルト・ホイットマン「草の葉」酒本雅之訳 岩波文庫

The Anatomy of Melancholy (1621) by Robert Burton (1577-1640)

当時の流行病、憂鬱症の症状や治療法を述べた学問的な医学書だが、あらゆる分野から関係する引用を並べ立てた雑学の本でもある。

"Incident of the French Camp" by Robert Browning (1812-1889)

少年兵が胸に致命傷を負っているにもかかわらず、ラティスボン陥落の知らせをナポレオンにもたらし、彼に見守られ死んでいくという短い詩。ミフリンが「ねずみ云々」といっているのはラティスボン "Ratisbon" の "Rat" に引っかけた洒落。

History of Frederick the Great (1858-65) by Thomas Carlyle (1795-1881)

オーブリーが「カーライルはドイツびいきだった」といっているが、確かにドイツ哲学・文化の影響を大きく受けていた。また民主主義を嫌い、英雄を崇拝したためか、本書はヒトラーのお気に入りだったという。

第十三章

Tooke's Pantheon

イエズス会士 Francois Pomey (1618-1673) が書いた有名な神話の本をイギリス人アンドリュー・トゥック (1673-1732) が一六九八年に英訳したもの。後の版に附けられたアメリカ人の版画家 G.フェアマンの挿絵はちょっと有名。

第十五章

How to Be Happy Though Married

E. J. Hardy が一九一〇年に書いた本だろうか。この手のタイトルの本はよく出版される。

Urn Burial (1658) by Thomas Browne (1605-1682)

トマス・ブラウン「医師の信仰・壺葬論」松柏社 生田省悟、宮本正秀訳

The Love Affairs of a Bibliomaniac (1896) by Eugene Field (1850-1895)

詩人にして猟書家でもあった著者の絶筆。読書遍歴や書籍に関する蘊蓄が、愛情深く、すがすがしい文体で綴られる。

Book of Deplorable Facts by John Mistletoe

John Mistletoe は実在の作家ではなく、モーリーの空想上の作家、ある意味では alter ego とも言うべき存在で、他の作品やエッセイにもよく名前や引用が出てくる。