The Project Gutenberg EBook of Kesshouki, by Andreev Leonid Nikolaevich

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Title: Kesshouki

Author: Andreev Leonid Nikolaevich

Translator: Shimei Futabatei

Release Date: October 1, 2010 [EBook #34013]

Language: Japanese

Character set encoding: UTF-8

*** START OF THIS PROJECT GUTENBERG EBOOK KESSHOUKI ***




Produced by Sachiko Hill and Kaoru Tanaka





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アンドレーエフ作

二葉亭譯

血笑記


[Pg 1]

血笑記

二葉亭譯

(前編、斷篇第一)

 …物狂ものぐるほしさとおそろしさとだ。

 はじめこれかんじたのは某街道なにがしかいどう引上ひきあげるときであつた。 もう十時間じかんあるつゞけて、休憇きうけいもせず、歩調ほてうゆるめず、たふれるものてゝく。 てき密集團みつしふだんとなつて追擊つゐげきしてるのだ。 いまけた足跡あしあとも三四時間じかんのちにはてき足跡あしあと踏消ふみけされてしまはう。 あつかつ[Pg 2]た。 何度なんどであつたか、四十、五十あるひ其以上それいじやうであつたかもれんが、ただもう不斷のべつ蕩々だら〳〵そこれぬあつさで、いつすゞしくなる目的あてもない。 太陽たいやうおほきく、ゆるやうに、おそろしげで、あるひ大地だいち近寄ちかよつて、用捨ようしやのない火氣くわき引包ひツつゝみ、燒盡やきつくさむとするのかとあやぶまれた。 いてゐられゝばこそ。 小さく、すぼんだ、罌粟けし粒程つぶほど瞳孔ひとみぢた眼瞼まぶたしたかげもとめても、かげはなく、薄皮うすかはとほして、血紅色けつこうしよく光線くわうせんつかつた腦中なうちうおくる。 けれども、流石さすが[Pg 3]ぢてゐればらくなので、わたしながあひだことると何時間なんじかんといふあひだぢて、前後左右ぜんごさいう引上ひきあげて物音ものおときながらつた。 人馬じんばおもたげなそろはぬ足音あしおとてつ車輪しやりん小石こいし引割ひきわおとたれやらのくるせいきた溜息ためいきはしやいだくちびるらすかわいたおとなどがきこえる。 みなだまつてゐる。 啞者おしぐんくやうだ。 みなたふれゝばだまつてたふれる。 それにつまづいてたふれるものも、だまつて起上おきあがつて、顧視みむきもせずにく。 まる啞者おしであるうへみゝひてるやうだ。 わたし幾度いくたびつまづいてたふれたが、其時そのときわれにもなくく――と、えるものは、人間離にんげんばなれしたうそらしい、此世このよくるつてくる譫語うはごとをいふやうな光景ありさまだ。 ゆるや[Pg 4]うな空氣くうきれ、とろけさうないしだまつてゆるぎ、はるむかふの曲角まがりかどまがひとむれも、大砲たいはうも、うまも、大地だいちはなれて、おともなく、ジェリーのやうにふるひながらところは、きたものとはえないで、からだけむ幽靈いうれいのやうである。 おほきなおそろしげな、ツイはなさきえる太陽たいやうが、銃身じうしん金具かなぐひかり宿やどして、ちひさな、無數むすう太陽たいやう映出うつしだし、そのまばゆいひかり横合よこあひからも、足元あしもとからも、射込さしこみ、しろほのほいてピカ〳〵とするどいこと、宛然さながら白熱はくねつした銃劒じうけん切先きツさきるやうだ。 燒立やきたて〳〵ものらさむとする暑熱しよねつは、み、ほねとほり、ずゐてつして、とき[Pg 5]してはどううへにぶらつくものはくびではなくて、なんとも得體えたいれぬ、おもこいやうな、かるいやうな、まる不思議ふしぎものであつて、どうやら自分じぶんものではないやうにおもはれ、薄氣味惡うすきみわるくなることもある。

 と、其時そのとき偶然ひよつと我家わがやまへうかぶ。 部屋へやすみで、水色みづいろ壁紙かべがみ片端かたはしえて、テーブルうへには、みづはいつたフラスク其儘そのまゝ手付てつかずに埃塗ほこりまぶれになつてゐる。 これはわたしテーブルで、びツこなので、みじかはうあししたにはかみまるめてつてある。 隣室りんしつには、えぬけれどさいせがれるらしい。 こゑせたら、大聲おほごゑしてわめいたかもれぬ――水色みづいろ壁紙かべがみ片端かたはしに、[Pg 6]埃塗ほこりまぶれの手附てつかずのフラスクと、ところ尋常じんじやうの、際立きはだつたものではないけれど、それに其程それほどおどろかされたのである。

 いまだにおぼえてゐるが、立止たちどまつて兩手りやうてげると、トンとだれかに背後うしろから衝飛つきとばされた。 ツカ〳〵とまへる――と、もう其儘そのまゝあついことも草臥くたびれたこともわすれて、愴惶あわたゞしく、ひと押分おしわけて、何方いづくともなくすゝんでつた。 際限さいげんもない、無言むごんひとれつあひだを、右左みぎひだりあかえそうな頸窩ぼんのくぼて、グタリとげたあつ銃劒じうけんほとんれ〳〵に大分だいぶすゝんだときなにわたしてゐるので、何處どこ此樣こんないそいで[Pg 7]くのだらうと、立止たちどまつた。 で、いそいで向直むきなほつて、無理無體むりむたい列外れつぐわいて、とある窪地くぼちえ、其處そこいしうへ焦燥せか〳〵こしおろしたところは、このざらざらの燒石やけいし目的めあてに、これまで藻搔もがいてたやうであつた。

 其時そのときはじめていた。 日光につくわうきらつくなかを、あつさによわり、ヘト〳〵に草臥くたびれて、無言むごんでふら〳〵とつてはたふれるものは、これはみな狂人きちがひだ。 何處どこくのか、なん照付てりつけられるのか、だれらない、だれなにつてゐない。 どううへるのはくびではなくて、へん気味きみわるものだ。 とると[Pg 8]ひとり矢張やつぱわたしのやうに、愴惶あわたゞしく列外れつぐわい脫出ぬけだしてバタリとたふれる、つゞいてまた一人ひとりまた一人ひとりヽヽヽと、むらがるひとあたまうへうまくびえる。 血走ちばしつた物狂ものぐるほしい目色めつきをして、齒齦はぐきまで露出むきだしたところは、不氣味ぶきみ奇怪きくわい叫聲さけびごゑてゝゐるやうにえたけれど、其聲そのこゑきこえるでもなかつた。 くびえて、バタリとたふれると、其處そこしばひとだかりがする。 皆足みなあしとゞめて、皺嗄しやがれたえぬこゑなにやらわめくとドンと一ぱつ銃聲じうせいきこえて、又皆またみなだまつて動出うごきだして、際限さいげんもなくつゞいてく。 わたしはやがて一時間じかんいしうへこしけてゐたが、其間そのあひだえず人影ひとかげ眼前がんぜん[Pg 9]いて、そらはゆすれ、ゆるぎ、とほ幽靈いうれいごとくに隊伍たいごかげをのゝくやうにえた。 ほねからさむとするあつさはさらにくとほつて、ちらりとうつつたものは、わすれてしまふ。 眼前がんぜん人影ひとかげしばらくもえぬが、ひとだれだかはわからない。 一時間程前じかんほどまへ此石このいしこしけてゐたのはわたし一人ひとりだつたが、いま周圍ぐるり灰色はいゝろひと一塊ひとかたまりあつまつた。 或者あるものしてうごかない。 んでゐるのかとおもはれる。 或者あるものわたしのやうにいしこしけて、氣脫きぬけしたやうなかほをして、とほひとてゐる。 じうつてゐるもの兵士へいしらしいが、丸裸まるはだかちか姿すがた[Pg 10]で、蘇枋染すほうぞめの、るもいやらしい色合いろあひはだをしたものもある。 つい其處そこだれだか素肌すはだうへけててゐる。 稜立かどだつたあついしかほせて平氣へいきでゐるさへあるに、仰向あふむけにしたてのひらればしろいから、死人しにんのやうであるけれど、いろ生人せいじんのそれのごとあかい。 たゞ燻肉くすべにくのやうにいさゝ黄味きみびてゐるので、此世このよひとでないことれる。 わたしこの死骸しがいそば退きたかつたが、退ちからかつたのでふら〳〵しながら、矢張やつぱりふら〳〵と幽靈いうれいのやうにひと際限さいげんもなくつゞれつてゐた。 いまにも日射病につしやびやうかゝるのはあたま工合ぐあひでもれてゐたが、平氣へいき[Pg 11]それかゝるのをつてゐた。 まる夢心地ゆめごゝちで、といふものは、不思議ふしぎあやからむだ夢想むさう街道かいだう立塲たてばなんぞのやうにおもはれた。

 とると、つれはなれて思切おもひきつたてい此方こちら目蒐めがけて一人ひとりへいがある。 其姿そのすがたがしばしくぼみにかくれて、やがてまたそれ這出はひだしてるのをれば、あぶない足取あしどりで、あし頽然ぐたりとなりさうなのを、うはさせまいとりきむのが、もうせいぱいところらしい。 正面まともわたし目蒐めがけてるので、くるしいゆめにもやもやとなうぢられさうななかでも、駭然ぎよツとして、「なんだ?」

 [Pg 12]こゑけると、へいはピタリと立止たちどまつた。 こゑかゝるのをつてゐたのかとおもはれる。 ひげむしやの大男おほをとこで、えりけたふくて、衝立つツたつてゐる。 じうつてゐなかつた。 ズボンは釦一ボタンひとつでさゝへてゐて、そのほころびの切目きれめからしろはだいてえる。 手足てあし頽然ぐたりとだらけるのを、だらけさすまいとつてゐるけれど、もうそれかなはぬ。 ひとつにせたぐとダラリと左右さいうれる。

貴樣きさま如何どうしたのか? まあ、すわれ。」

 けれどもへい衝立つツたつたまゝ、めても〳〵だらけながら、だまつてひとかほてゐる。 わたし我知われしらず[Pg 13]起上たちあがつた。 よろ〳〵しながら其眼そのめのぞむとかぎりなきおそれくるつたいてえる。 だれひとみみなしゞまつてゐるのに、これのばかりはぱいひろがつてゐる。 かうしたおほきいまどからのぞいたら、そとうみのやうにえやう。 偶然ひよツとしたら、これの眼色めざしうかんでゐるのがかげではあるまいかとおもはれた――いや、さうおもはれたばかりではない、それに相違さうゐなかつたのだ。この眞黑まつくろな、そこれぬ、からすのそれのやうにオレンジいろほそふちつたひとみには、以上いじやう恐怖きやうふ以上いじやうのものがいてゐたのだ。

[Pg 14]彼方あツちけ、彼方あツちへ!」と一足ひとあし退つて、わたしわめいた。

 と、かうふのをつてゐたやうに、其兵そのへいがバタリとわたしうへたふかゝつた。 頽然ぐたりとした、ものわぬ、おほきやつ推倒おしたふされて、わたしたふれた。 わなゝきながら、壓付おしつけられたあし引外ひツはづして、跳起はねおきるや――もう方角はうがくなにつたものでない、たゞひとはうへ、たゞ日光ひかげのちらつく遠方ゑんぱうげやうとするとき右手ゆんでやまいたゞきでドンと一ぱつる。 其後そのあとから木魂こだまのやうにつゞけざまにドン〳〵と二はつる。 と、何處どこ頭上づじやう破裂彈はれつだんんでく。 其音そのおと[Pg 15]おほぜいよろこいさむで、わめき、さけび、たけるやうなこゑこもつてきこえた。

 てき迂廻うくわいした!

 にさうなあつさも、おそろしさも、つかれも、さらりとわすれる。 判然はつきりする。 おもところけざやかに浮上うきあがる。 いきせきつて、はしつて立直たちなほつたれつかうとするときはれやかなうれしさうなかほがちら〳〵え、皺嗄しやがごゑわめこゑきこえ、號令がうれいきこえ、無駄口むだぐちたゝこゑきこえた。 邪魔じやまにならぬやうに競上せりあがりでもしたのか、朦朧ぼんやりとなつて押鎭おしゝづまる――と、また魔法使まはふづかひがキゝとさけぶやうなおとてゝ、くうつて[Pg 16]破裂彈はれつだんぶ。

 わたしたいちかづいた…

(斷篇第二)

 …うまへいみな戰死せんしした。 だい砲列はうれつ其通そのとほり。 わがだい十二砲列はうれつで、三日目みツかめ夕刻ゆふこくまで無事ぶじであつたのはわづはうもんと、――あと皆壞みなこはされてしまつたので、――それに砲手はうしゆにん將校しやうかう一人ひとりといふのがすなはわたしだ。 もう二十時間じかんも一すゐもせず、なにはない。 三晝夜ちうやもサタンのはためきたけなかたので、狂氣きやうき黑雲くろくも引包ひツつゝまれて、はなれ、そらはなれ、味方みかた[Pg 17]はなれて、きながら狂人きやうじんごとくに小迷さまよふ。 死人しにんしづかにてもるが、吾々われ〳〵はくれ〳〵と立働たちはたらいて、つとめるところつとめ、ものひ、わらひまでして、――それでゐて宛然さながら狂人きやうじんだ。 あぶなく活溌くわつぱつはたらいて、命令めいれい明瞭はツきりくだせば、又其またそれ間違まちがひなく仕遂しとげてもくが、それでゐて、突然とつぜんだれかをつかまへて、おまへだれだといたなら、うやむやのあたまでは、おそらくなんこたへたものか、わからなかつたらう。 ゆめてゐるやうなもので、だれかほうからの馴染なじみらしくえ、何事なにごとおこつても、矢張やツぱかつつた、おぼえのある、いてゐることのやうにおも[Pg 18]はれるが、其癖そのくせだれかのかほはうじツてゐると、あるひ砲聲はうせいみゝかたむけてゐると、どれも〴〵みんめるほどめづらしくて、いても〳〵つくせぬなぞなんぞのやうにおもはれる。 何時いつにかになる。 それといて、何處どこすみからくらくなつてたのかとあやしむさへなく、またあたまうへくわツす。 偶々たま〳〵餘處よそからものいて、はじめ戰鬪せんとう三日目みツかめわかるが、それもそばからわすれてしまふ。 如何どうやられもけもせぬのべたらの一じつのやうで、くらときもあれば、あかるいときもあるが、いづれにしても滅茶苦茶めちやくちやで、薩張さツぱりわけわからない。 さう[Pg 19]してだれおそれない。 ぬといふのが如何どんことだか、それもわからない。

 三日目みツかめだつたか、四日目よツかめだつたか、おぼえがないが、一寸ちよツと胸壁きょうへきかげよこになつてぢると、たちまれい馴染なじみの、しかし不思議ふしぎものえる。 それは靑色あをいろ壁紙かべがみすこしばかりと、わたしのとめた小卓こテーブルうへ埃塗ほこりまぶれの手着てつかずのびんで、隣室りんしつにはさいせがれるやうだが、姿すがたえぬ。 たゞ此時このときテーブルうへ綠色みどりいろかさたランプがとぼつてゐたから、よひ夜中よなかだつたにちがひない。 で、かうしたところ眼前がんぜんとまつてうごかぬから、わたしながいこと、心靜こゝろしづかに、ため[Pg 20]つすがめつびんのグラスにちらつく火影ほかげ壁紙かべがみながめて、こゝろうちで、もうよるだ、時分じぶんだのに、何故なぜばうないのだらうとおもつてゐた。 で、また壁紙かべがみながめてると、唐草からくさに、銀色ぎんしよくはなに、格子かうしのやうなものに、くだのやうなものと――や、わが居間ゐまながら、かうも見識みしつてゐやうとはおもけなかつた。 時々とき〴〵いて、處々ところ〴〵うつくしいあかるいしまはいつた眞黑まつくろそらながめては、またぢて、さら壁紙かべがみびんひかるのをて、もうよるだ、時分じぶんだのに、何故なぜばうないのだらうとおもふ。 一ちかくで砲彈はうだん破裂はれつした。 其時そのときなにやら兩足りやうあしにふわりと[Pg 21]れたとおもふと、だれだか大聲おほごゑで、砲彈はうだん破裂はれつしたおとよりも上手うはてこゑで、ワッとさけんだ。 だれられたなとおもつたが、起上おきあがりもせんで、わたし凝然ぢツとあからめもせず靑色あをいろ壁紙かべがみびんながめてゐた。

 やが起上おきあがつて、あるまはり、指揮しきをしたり、ひとかほのぞむだり、照準せうじゆんめたりしたが、こゝろでは矢張やツぱり、何故なぜばうないのだらう、とおもつてゐた。 一傳騎でんきその理由わけいたら、ながいことなんだか事細ことこまかに説明せつめいしてれて、二人ふたり點頭うなづきあつた。 傳騎でんきわらつた。 其面そのかほると、ひだりまゆ釣上つりあげて、背後うしろだれかにくすぐツたい目交めまぜをしてゐたが、背後うしろ[Pg 22]にはだれかのあしうらえたばかりで、ほかにはなにえなかつた。

 此時このとき四邊あたりあかるくなつてたが、不意ふいにポツリとつてた。 なに、あめつても矢張やツぱり故鄉くにるやうなあめで、ほんのつまらん點滴しづくではつたけれど、不意ふいに、らずものときつてたので、みなれるのをおそれて、狼狽らうばいして射擊しやげき中止ちうしし、はうなに放散ほりちらかしていて、やたら無性むしやう其處そこらの物蔭ものかげむだ。 たツいまわたしものつてゐた傳騎でんきは、砲車ほうしやしたもぐむでちゞめてゐたが、――あぶない、いまにも壓潰おしつぶされるかもれないのに、[Pg 23]ふとつた砲手はうしゆは、なんおもつてか、戰死者せんししやふくぎにかゝつた。 わたし陣地ぢんちはしまはつて、蝙蝠傘かうもりがさだか、外套ぐわいたうだかをさがしてゐた。 かぶさるくもなかからあめしたのは隨分ずゐぶんひろ塲面ばめんだつたが、その塲面ばめん全體ぜんたいにふツとめう寂然しんとなる。 榴霰彈りうさんだんひと後馳おくればせにブンとんでて、パッと破裂はれつして、また寂然しんとなる。 寂然しんとなつたので、ふとつた砲手はうしゆあら鼻息はないきえる。 石塊いしころ砲身はうしんあめおときこえる。 かう寂然しんとしたなかで、ぱら〳〵といふしづかなあきめかしいあめおとき、濡土ぬれつちぐと、あさましい血羶ちなまぐさゆめまたゝめたやうながして、あめにき[Pg 24]らつく砲身はうしんれば、おさなころことでもない、初戀はつこひでもない、しめやかになつかしいなにかゞ、不思議ふしぎにもふと想出おもひだされる。 此時このとき遠方ゑんぱうでドンと最初さいしよの一ぱつ際立きはだつて音高おとたかると、一寸ちよツと寂然しんとしたのにせられてゐた氣味きみつて、みなかくから這出はひだす。 逃込にげこときのやうに、這出はひだとき唐突たうとつだつた。 ふとつた砲手はうしゆだれかをしかばす。 はうる、またる――と散々さん〳〵なやまされいたなうまたあかかすみひたとざされる。 あめ何時いつんだか、だれかなかつたが、砲手はうしゆ戰死せんししてそのむく〳〵とふとつたかほにくちてばむでも、點滴しづくれてゐたのをいまおぼ[Pg 25]えてゐるから、なんでも隨分ずいぶんながいことつてゐたにちがひない。

 …生若なまわか志願兵しぐわんへいだつたつが、わたしまへ直立ちよくりつして擧手きよしゆれいをしながら報告ほうこくするのをくと、司令官しれいくわんから、其隊そのたいはもう二時間じかんさゝふべし、されば援兵ゑんぺいおくるといふ命令めいれいださうだ。 わたし何故なぜばうはまだないのだらうとこゝろではおもいながら、くちでは何時間なんじかんでもさゝへておけるとこたへた。 さうこたへたとき何故なぜだかその志願兵しぐわんへいかほがふとまる。 大方おほかた非常ひじやう蒼褪あをざめてゐた所爲せゐだつたらう。 之程これほど蒼白あをじろかほことがない。 死人しにんかほだつて、此髭このひげのない[Pg 26]わかわかしいかほかられば、まだ紅味あかみがある。 かなら途中とちう度膽どぎもかれたのがなほらなかつたのにちがひない。 目庇まびさしげてるのは、このれた無雜作むざうさ手振てぶりで、そゞろになるほどおそろしさをまぎらさうとしてゐたのだらう。

おそろしいのか?」といひながら其手そのてれてると、ぼうのやうにこはばつてゐたが、當人たうにんかすかに莞爾にツことしたばかりで、なんともはなかつた。 いや、むし口元くちもと微笑びせふ眞似まねをしたばかりで、にはたゞ初々うひ〳〵しさ、おそろしさがひかるのみ、其外そのほかにはなにかつた。

[Pg 27]おそろしいのか?」とわたしまたやさしくつてた。

 志願兵しぐわんへいなにはうとして口元くちもとうごかしたとき不思議ふしぎな、奇怪きくわいな、なんとも合點がてんかぬことおこつた。 みぎほうへふわりと生溫なまぬるかぜ吹付ふきつけて、わたしはガクッとなつた――たゞ其丈それだけだつたが、眼前がんぜんには今迄いままで蒼褪あをざめたかほつたところに、なんだかプツリとたけつまつた、眞紅まつかものえて、其處そこから鮮血せんけつせんいたびんくちからでもるやうに、ドク〳〵とながれてゐるところは、まづ繪看板ゑかんばんだ。 で、そのプツリとれた眞紅まつかものからがドク〳〵とながれるところに、かほでニタリとわらつてあかわらひ[Pg 28]名殘なごりえる。

 これには見覺みおぼえがある。 これたづねてやうやたづてたのだ。 其處そこらのげ、あし千切ちぎれ、微塵みぢんになつた、奇怪きくわい人體じんたいうへいてえるものなにかとおもつたら、これだつた、あかわらひだつた。 そらにもそれえる。 太陽たいやうにもえる。 いまこのあかわらひ地球全體ちきうぜんたいひろがるだらう。

 みなもう平氣へいき瞭然はつきり狂人きちがひのやうに…

(斷篇第三)

 …物狂ものくるほしさとおそろしさとだ。

 [Pg 29]風聞ふうぶんると、てきにも味方みかたにも精神病せいしんびやう患者くわんじやおびたゞしいものだとふ。 我軍わがぐんでも精神病舎せいしんびやうしや四棟よむね出來できた。參謀部さんぼうぶつたとき副官ふくゝわんせてれたが…

(斷篇第四)

 …へびのやうにからく。 げんその友人いうじんてのはなしに、鐵條網てつでうもうの一たんがプツリとれて、ピンと跳返はねかへつて、クル〳〵とへいにんからいた。 軍服ぐんぷく突拔つきぬいてにく喰込くひこむから、へい悲鳴ひめいげて、狂氣きやうきごところまはつてゐるうちに、一人ひとり[Pg 30]しまつたが、その死骸しがいあと二人ふたり引摺ひきずつてころまはる。 やがてきてゐるのは一人ひとりとなる。 生殘いきのこつたのが、二人ふたり死骸しがい突離つきはなさうとするけれど、死骸しがい附纏つきまとつてて、一しよころがり、三にんからだうへになりしたになりしてゐるうちに、ふと一にパタリとうごかなくなつてしまつたさうだ。

 ともはなしだと、この鐵條網てつでうもうひとつで二千からの戰死者せんししやしたとふ。 みな鐵條網てつでうもうらうとして、へび卷付まきつかれたやうに、進退しんたい自由じいううしなつてゐるところを、大小だいせう彈丸だんぐわんあめごと間斷かんだんなくあびけられたのだ。 おそろしいともなんとも云樣いひやうがない。 げる[Pg 31]方角はうがくわかつてゐたら、臆病風おくびやうかぜ吹卷ふきまくられて此時このとき攻擊こうげき總崩そうくづれになつたらうが、なにしろ十重二十重とへはたへ鐵條網てつでうもう張渡はりわたしてある。 必死ひつしになつてそれやぶると、今度こんどそこくひ打込うちこんだ狼穽らうせいいくつとなくつてあつて、これまた迷宮同樣めいきうどうやうとあるから、みなうしなつてしまつて、げる方角はうがくかなかつたのだとふ。

 或者あるものまつた盲目めくらのやうになつて、漏斗形じやうごがたしたふかあなみ、とがつたくひさき芋刺いもざしになつて、虚空こくうを掴むで藻搔もがく。 宛然さながら玩具おもちや道化人形どうけにんぎやうをどるやうだ。 其上そのうへまたては突刺つゝさゝるから、まだ溫味ぬくみのある、あるひつた、血塗ちみどろからだがうよ〳〵と[Pg 32]もりあがつて、あなぱいになつてしまふ。 其處そこにも此處こゝにもうで如龜々々によき〳〵突出つきでてゐて、痙攣けいれんおこしてヒク〳〵してゐる指先ゆびさきなんにでもしがみく。 一おちたら、られない。 こはばつてかにはさみのやうになつた數百すひやくゆびが、無性むしやうあし引掴ひつゝかみ、ふく引掴ひつつかみ、おのうへへと引倒ひきたふしていて、眼肉がんにくゑぐり、くびしめる。 が、大抵たいていさけにでもつてゐるやうに、正面まとも鐵條網てつでうもう目蒐めがけて駆出かけだし、引掛ひつかゝつてわめさけんでゐるうちに、彈丸たまあたつて往生わうじやうしてしまふ。

 さうはいふものゝ、醉漢ゑひどれのやうになるのは一ぱんことで、鐵條網てつでうもうあしからめられゝば、だれでも[Pg 33]おほいのゝしつたり、あるひわらつたりする。 さうして其儘そのまゝんでしまふ。 このはなしをしたをとこも、あさからまずはずでゐたのださうだが、不思議ふしぎ氣持きもちで、おそろしいおそろしいでくら最中さなかに、一寸ちよつと無性むしやう愉快ゆくわいになる――おそろしいのが愉快ゆくわいなのだ。 だれだかとなりでうたうたしたから、一しよになつてうたつてゐると、やが其處そこらのもの皆仲間みなゝかまはいつて立派りつぱ合唱がつしやうになる。 拍子ひやうし中々なか〳〵そろふ。 なにうたつたか、おぼえがないが、なんでもかう愉快ゆくわい舞踏歌ぶたううたのやうなものだつたとふ。 で、うたつてゐると、其處そこらが血塗ちみどろ眞紅まつかになる。 そらまで眞紅まつかえて、天地間てんちかん[Pg 34]なにか一大變異だいへんい奇怪きくわい變化へんくわおこつたやうな氣勢けはひで、もの綾色あいろわからなくなる。 水色靑みづいろあをなどゝいふおだやかなれたいろえてしまつて、太陽たいやう眞紅まつかにベンガラいろえる。

あかわらひだ」

 とわたしつたが、相手あひて其意味そのいみ了解のみこめんで、

「さう、わらひもした。 今話いまはなしたとほりだ。 宛然まるで皆酒みンなさけつてるやうだつた。 いや、舞踏ぶたうつたらう。 なんでもなにつた。 すくなくもそのにんへい藻搔もがところは、宛然まるで舞踏ぶたうのやうだつた。」

 いまでも判然はつきりおぼえてゐるさうだが、此男このをとこむね[Pg 35]通創くわんつうさうけてたふれてからも、失神しつしんするまでは、舞踏ぶたうだれかと足拍子あしびやうしそろへるやうに、あしをピク〳〵とつてたさうだ。 いまとなつて此日このひ攻擊こうげき憶出おもひだすとめう氣持きもちがして、おそろしいことおそろしいが、う一ぺん彼樣あんおもひをしてたいやうなもするとふ。

さうしてまたむねへ一ぱつひたいのか?」

 とわたしがいふと、

馬鹿ばかへ! たび彈丸たまふとはきまつとりやせん。 そんなこといふけど、きみ目覺めざましいはたらきをしてさ、勲章くんしやうもらふのもわるくないぞ。」

 [Pg 36]さういふ其身そのみはなとがつて、顴骨くわんこつて、くぼむで、きいろいかほをして仰向あふむきにて、てもなく死人しにんだのに、まだ勲章くんしやうゆめてゐるのだ。 もう化膿くわのうして、ひどねつで、三日みツかてばあななかころがしまれて、死人しにん仲間なかまはいらなければなるまいに、ながらいてゆめて、莞爾々々にこ〳〵して、勲章くんしやううはさをしてゐるのだ。

「それはうと、阿母おツかさんのとこ電報でんぽうつたか?」

わたしいてた。

 すると、ハッとした樣子やうすで、けはしい眼色めつき忌々いま〳〵しさうにわたしかほながめたなり、相手あひてだまつてしま[Pg 37]たから、わたしだまつてゐた。 負傷者ふしやうしやうめいたり、譫言うはごといつたりするのがみゝく。 やがわたし起上たちあがつてかうとすると、ともねつつてもちからけぬで、しツかわたしにぎつて、にくちたえるやうなで、かなしさうにぢツわたしかほ視詰みつめて、如何いかにも途方とはうれたといふていで、

きみたい如何どうしたつてふンだらう? え、きみ如何どうしたツてふンだらう?」と恟々おど〳〵しながら引張ひツぱつて、しきりにこたへせまる。

なにが?」

なにがつて、一たい今度こんど戰爭せんさうさ。 はゝぼくかへるの[Pg 38]つてるのだ。つてたつて、きみ如何どうなるもんか…國家こくかため――其樣そんことはゝにやわかりやせずさ。」

あかわらひだ。」

「また! きみ串戯じやうだんばかりつてるけれど、ぼく眞面目しんめんもくだよ。 如何どうにかして納得なつとくさせたいけれど、納得なつとくさせやうがない。 まあ、きみ如何どんことつて寄越よこすとおもふ? そりや、じつどくだ。 手紙てがみ文句迄もんくまで白髮しらがだ。 しかし、きみも」、とめづしさうにひとあたまながめて、指差ゆびさしをして、きふわらした。

きみ禿したなあ! つてるか?」

[Pg 39]かゞみいもの。」

「いや、しかし、白髮しらがになるやつ禿はげになるやつ大分だいぶるぞ。 おい、かゞみしてれ、かゞみを! あゝ、ぼくなんだか白髮しらがえてさうでならん。 かゞみしてれ。」

 譫語うはごと言出いひだして、いたりわらつたりする。わたし病舎びやうしやしまつた。

 その夕方ゆふがた園遊會ゑんいうくわいひらかれた。 不思議ふしぎわびしい園遊會ゑんいうくわいで、來會者らいくわいしやうちには死人しにんかげまじつてゐた。 くにでのピクニックのときのやうに、夕方ゆふがたあつまつてちやはずだつたので、湯沸ゆわかし工面くめんをして、レモンや[Pg 40]コップまで用意よういして、矢張やツぱりピクニックのときのやうに、トあるした會塲くわいぢやうめた。 で、一人ひとりづゝ、また二人ふたりにん連立つれだつて、常談じやうだんなど言合いひあつてはなしながら、みなたのしみにして浮浮うき〳〵にぎやかにつてたが、るときにだまつてしまつて、るべくかほ見合みあはせないやうにする。 かうして生殘いきのこつたものばかりつてると、なんとなく無氣味ぶきびだ。 みなるもあさましい薄汚うすきたない服装なりをして、惡性あくせい疥癬かいせんでもむでゐるやうに、身體中からだぢうをぼり〳〵く。 かみひげ延次第のびしだいで、やつつて、見慣みなれたむかし姿すがたはないから、湯沸ゆわかしなかに、かほあはせてると、はじめてつたやう[Pg 41]氣持きもちがして、愕然はツとする。 うしなつてうろ〳〵するこの人々ひと〴〵うちに、馴染なじみかほはないかとたづねてたが、一人ひとりかつた。 わく〳〵として落着おちつきがなく、起居たちゐあらかどつて、一寸ちよツとしたおとにもびくりとし、えずうしろてはなにかにけ、何處どこかポカンと、不思議ふしぎあなく、そのあなのぞいてるも無氣味ぶきみなので、はげしい手眞似てまねこれふさがうとするなど、如何どうしてもらぬ餘所よそひとで、馴染なじみがない。 こゑまでがかはつてゐる。 はげしく、稜立かどだつて、えいやつとものふそれが、やゝもすれば聲高こはだかになつたり、らちもない高笑たかわらひになつて、めやうにも[Pg 42]められぬ、といつた調子てうしかはつてゐるのはそればかりでなく、にも馴染なじみがなく、入日いりひにも馴染なじみがなく、みづ異臭異味いしういみびたかはつたみづで、宛然さながら死人しにんと一しよひとつて、何處どこ別世界べつせかいへでもたやうに、えるものみな神秘しんぴで、おそろしかげのやうなもの朦朧もうらう其處そこらに滿ちてゐる。 入日いりひかげばむでつめたく、何處どこ明味あかるみもない眞黑まつくろ雨雲あまぐもが、つたやうに、おもたさうに、其上そのうへからかぶさつて、したには大地だいち黑々くろ〴〵と、ひとかほ尋常たゞならぬひかりけてきいろく死人色しびといろえる。 みな湯沸ゆわかしてゐたが、湯沸ゆわかしえて、はらにはきいろくすご[Pg 43]入日いりひひかり反射はんしやし、陰々いん〳〵として此世このよものではないらしく、なんだか本體ほんたいわからぬ、奇怪きくわい湯沸ゆわかしであつた。

此處こゝ何處どこだ?」とだれだかつたが、恟々おど〳〵した恐怖きやうふ滿ちたこゑだつた。 だれだか溜息ためいきをした。 と、わく〳〵してゆびほねらすものがある、わらものがある、をどあがつてテーブルの周圍まはり急遽せか〳〵まはものもあつたが、此頃このごろうして急遽せか〳〵ほとんさぬばかりにあるまはひと見掛みかける。 さうしてみなめうだまつてゐる、ものつてもくちうち沸々ぶつ〳〵うばかりだ。

[Pg 44]戰地せんちさ」、と高笑たかわらひしてゐたのがこたへて、さらまたわらしたが、えぬこえで、うふ〳〵と秩序だらしなくわらところは、なにかゞ咽喉のどつまつたやうだ。

なに可笑をかしいンだ?」と、だれだつたか、向腹むかはらてゝ、「こら、さんか!」

 すると、わらつてゐたのがまたさら咽喉のどものつまつたやうに、フゝとわらつて、さうして大人おとなしくだまつてしまつた。 段々だん〴〵薄暗うすぐらくなつてて、雨雲あまぐもあつし、きいろく透徹すきとほるやうなたがひかほやツ見分みわけられるほどになつた。 だれだつたか、

「トキニ「大長靴おほながぐつ」は何處どこつたらう?」

[Pg 45]大長靴おほながぐつ」と渾名あだなばれたのは、小造こづくりのくせに、おほきな水浸みづしまずの長靴ながぐつ穿いてゐる士官しくわんだつた。

たツいま此處こゝたツけが…大長靴おほながぐつ何處どこる?」

 みなわらした。 その笑聲わらひごゑがまだまぬうちに、暗黑くらやみからおこつたやうなとがごゑで、

せ! 馬鹿ばかな! 大長靴おほながぐつ今朝けさ偵察ていさつられたのをらんか?」

「そんなはずはない。 たツいま此處こゝたンだもの。」

「そんながしたンだ。 おい、湯沸ゆわかしそば先生せんせい、レモンをひとつてれんか。」

[Pg 46]ぼくにも! ぼくにも!」

「レモンはみなになつた。」

「そりや不都合ふつがふだ」、と忌々いま〳〵しさうに、なさけなさゝうに、ほとんかぬばかりに、小聲こごゑつて、「レモンをたのしみにしてたンだのに。」

 れいのがまたえぬこゑしまりなくわらしたが、もうだれめるものもなかつた。 が、きにわらんで、さらまたフゝとわらつて――と、だまると、だれだつたか、

明日あす攻擊こうげきか。」

 すると、幾人いくたりかのこゑで、忌々いま〳〵しさうにしか[Pg 47]た、

せ、そんなはなしは! 攻擊こうげきくそるもんか!」

「だつて君逹きみたちだつてらんことはあるまい…」

せツてツたら、せ! ほかはなしいぢやるまいし。 なんだ、そんなこと!」

 入日いりひかげえた。 雨雲あまぐもあがつて、何處どことなくあかるくなり、ひとかほみな見覺みおぼえのあるかほになつた。 今迄いまゝで周圍まはりをグル〳〵まはつてをとこ落着おちついて、其處そこ椅子いすこしおろして、

いまごろくにぢや如何どんなだらう?」

 だれふともなくつたのだが、其聲そのこゑなに[Pg 48]めんぼくなさゝうに微笑につこりしたひゞきがあつた。

 と、また薄氣味惡うすきみわる合點がてんかぬ光景くわうけいになつて、其處そこらのものこと〴〵へんえるから、みなたまらなく夢中むちうになつて、一にコツプを推除おしのけ、たがひかたうでひざさはつて、饒舌しやべし、わめはじめ、しばら紛紛ごたごたしてゐたが、ふとまたくちつぐむでしまつた。 へん光景やうす矢張やツぱりへんでならぬ。

くにぢやア?」とだれだか暗黑くらやみからわめいた。 くにうはさはじまると、ハツトして、忌々いま〳〵しくもなるし、むねもわく〳〵するので、こゑまでが皺嗄しやがれたふるごゑになる。 で、饒舌しやべしたが、時々とき〴〵言葉ことば差支さしつかへる。 [Pg 49]もう國言葉くにことばわすれてゐるやうで。 「くにぢやア?くにとはなんだ? くに何處どこかにるのか? ひとものつてるうちくちすな。 すと、打發ぶツぱなすぞ。 ぼくだつて、くに時分じぶんにや、毎日まいにちつかつたもんだ――よろしいか、湯槽ゆぶねれて――を一ぱいれてつかつたもんだ。 ところがいまぢや毎日まいにち身體からだかんから、あたま雲脂ふけたまる。 雲脂ふけたまつて、結痂かさぶたのやうなもの出來できて、身體中からだぢうなんだかふやうで、むづがゆくツて〳〵…ぼかあか氣狂きちがひになりさうだ。 それだのにきみくにうはさはじめたな? ぼくはもう畜生ちくしやうだ、自分じぶんながら愛想あいそきる、自分じぶんとはおもへん[Pg 50]くらゐだ。 人間にんげんうなると、もうぬのも其樣そんなにおそろしくなくなる。 それに君逹きみたち擊出うちだ榴霰弾りうさんだんあたまれさうになるンだ、――あたまが。 何處どこけてつたつて、みんなぼくあたまあたるンだから。 それだのにきみくにうはさはじめたな? くにとはなんだ? 矢張やツぱりまちつたり、うちつたり、ひとたりするンだらう? ぼくはもう戸外おもてるのも御免ごめんだ。 つともない! 此處ここ湯沸ゆわかしるけど、湯沸ゆわかしるのもきまりがわるい、――湯沸ゆわかしるのも。」

 れいのがまたわらした。 だれだか大聲おほごゑに、

くそツ! ぼかくにかへる。」

[Pg 51]くにかへる?」

きみ軍人ぐんじん本分ほんぶんわすれたな? …」

くにかへる? おい〳〵、此處こゝくにかへりたいもの一人ひとり出來できたぞ。」

 みなドットわらつた。 不氣味ぶきび叫聲さけびごゑきこえたが――またみなくちつぐむでしまつた。 矢張やツぱりへんでならない。 わたしばかりぢやない、幾人いくたりたからないが、其塲そのば居合ゐあはしたものみなさうかんじた。 そのへん氣勢けはひが、薄暗うすぐら奇怪きくわいからせまつてる、いは挟間はざま置忘おきわすられて、ひんしたものるかもれぬ、陰々いん〳〵眞黑まつくろ谷間たにまからも立騰たちのぼる、およばぬあやしのそらからも[Pg 52]りる。 みなおそろしさにきたそらはなく、だまつてえた湯沸ゆわかしかこむでつてゐたが、あたまうへには漫々まん〳〵邊際へんさいもないくろかげ此世このよあツして、さんとしておともせぬ。 と、たちまち、ツイ間近まぢかの、多分たぶん聯隊長れんたいちやう宿舎しゆくしやあたりとおもはれるところで、軍樂ぐんがく彈奏だんそうはじまつて、無性むしやういた高調子たかてうしもの音色ねいろよる寂寞せきばくやぶつて、火花ひばなのやうにパツとおこる。 あま高過たかすぎ、あま愉快過ゆくわいすぎるほどきふ亂調子らんてうしで、無性むしやうきそつてかれてゐる。 大方おほかた彈奏者だんそうしやにも聽手きゝてにも、矢張やツぱり吾々われ〳〵同樣どうやうに、漫々まん〳〵邊際へんさいもないくろかげ此世このよあつするのがえるのだらう。

 [Pg 53]そのオーケストラのなか喇叭らツぱいてゐるものだけは、まさしく自分じぶんに、自分じぶんなうに、みゝに、もうこの邊際へんさいもない無言むごんかげ宿やどしてゐるやうにおもはれる。 けはしいやぶれたやうな喇叭らツぱおとが、駆巡かけめぐり、躍上をどりあがり、おとはなれて何處いづくともなく、おそろしさにおのゝき〳〵、ともなものもなくひとくるつてく。 ほか樂器がくき音色ねいろこの喇叭らツぱおとかへりみておどろいたやうに、つまづきつ、たふれつ、きつ、しどろもどろにともなくつてく。 それがあま高過たかすぎ、あま愉快過ゆくわいすぎるほど調子てうしで、これではあま眞闇黑まつくらがり谷間たにまにも接近せつきんぎる、――いは狭間はざま置忘おきわすられてひん[Pg 54]ものるかもれぬのに。

 私逹わたしたちしばらくえた湯沸ゆわかし周圍まはりつて、だまつてゐた。

(斷篇第五)

 …もうねむつてゐたら、ドクトルがそツつゝいておこすから、わたしさますがいなあツといつて跳起はねおきた。 だれでもおこされると、こゑてたものだつた。 で、天幕テントそと駈出かけださうとするわたしを、ドクトルはしかつて、して謝罪わびをいふ。

唐突だしぬけおこしてすみませんでした。 おねむからうとは[Pg 55]おもつたが…」

なにしても五晝夜ちうやになるンですもの…」と、わたしつたが、半分はんぶんゆめで、其儘そのまゝまた昏々うと〳〵となつた。 しばらくてゐたやうだつたが、ドクトルがわたし橫腹よこはらあしそつつゝき〳〵またはなこゑみゝはいる。

「しかしむをんので。 貴方あなたもおつらからうが、實際じつさいむをんので。 どうもわたしにや……安閑あんかんとしてれん。 どうもわたしにやまだ負傷者ふしやうしや取殘とりのこしてあるやうにおもはれて…」

負傷者ふしやうしやとは? 今日けふンち收容しうようしてゐたぢやないですか? わたしおこさんだツてさゝうなものだ。 あんま[Pg 56]ひどい! わたしは五晝夜ちうやなかつたのだ。」

「まあ、おこつたものでない」、とドクトルはくちうちつて、無器用ぶきよう手附てつきわたしあたまばうかぶせてから、「みんなんでしまつてゝ、いくおこしても、きんのですもの。 機關車きくわんしや車輛しやりやうが七だい用意よういしてあるのだが、つて行手ゆきてがない。 そりやわたしさつしる…が、何卒どうぞ、まあ、つてください。 みんなんでしまつてゝ、如何どうしてもかうとはん。 わたしだってコクリとなりさうで仕方しかたがないのだ。 何日いつたつけか、もうおぼえがないくらゐのもので、そろ〳〵幻覺げんかくはじまりさうながする。 まあ、寢臺ねだいをおりなさ[Pg 57]い、かたぱうあしから。 そう〳〵…」

 ドクトルは蒼褪あをざめたかほをしてふら〳〵してゐる。 一寸ちよツとでもしたたら、其儘そのまゝなん晝夜ちうや打通ぶツとほしにかねない樣子やうすだ。 わたしあし他愛たあいがない。 と、はなさき眞黑まつくろものが一れつえる。 それがあま突然とつぜんで、意外いぐわいで、からいたやうだつたから、なんでもあるきながら昏々うと〳〵してゐたにちがひないが、その眞黑まつくろもの汽車きしやだつた。 くらくてくはえなかつたが、そのそばをノソリ〳〵とだまつて彷徨うろついてゐるものがある。 機關車きくわんしやにも車輛しやりやうにも燈火あかりいてゐなかつた。 たゞふたをした火口ほぐちから朦朧ぼんやりした火影ほかげ薄赤うすあか線路せんろ[Pg 58]ちてゐたのみで。

なんですか、これは?」とわたし逡巡しりごみをした。

汽車きしやくのです、汽車きしやで。 いまはなしをもうわすれましたか?」とドクトルがいふ。

 さむばんでドクトルはふるへてゐる。 わたしもそれをると、身體中からだぢうくすぐられるやうな氣持きもちで、矢張やツぱりガタガタふるへる。

ひどいなあ!わたし見立みたつてれてくのはひどい」、とわたし大聲おほごゑにいふと、

しづかに、しづかに」、とドクトルはわたしうでおさへた。

 だれだか暗黑くらやみから、

[Pg 59]この鹽梅あんばいぢやありたけはうで一せい射擊しやげきをやつたつて、みんなビクともしないな。 てき矢張やツぱり寢込ねこんでゐるだらうて。 いまならそばつて片端かたツぱしから引括ひツくゝれる。 おれいま哨兵せうへいそばとほつてたのだが、先生せんせい一寸ちよツとひとかほたばかりで、なんともはん。 凝然ぢツとしてゐた。 屹度きツと矢張やツぱりてゐたんだらう。 くつんのめらないでたものさ。」

 とつてあくびをした。 で、さら〳〵とふくれるおとのしたのは、大方おほかたのびをしたのだらう。 わたし車輛しやりやうのぼらうとしてむねそのはしけると――たちまゆめつてしまつた。 だれだかうしろから持上もちやげる[Pg 60]やうにしてせてれたが、わたしそのひと蹴飛けとばして、またこけた。 と、ゆめうちにこんなはなし斷續とぎれ〳〵きこえる。

「六ウエルストつてからだ。」

わすれたのかランプを?」

「いや、彼奴あいつくまい。」

此處こゝ寄越よこせ。すこあと退却すさらせた。 さうだ。」

 汽車きしや居去ゐざる、なにかガタ〳〵とる。 安樂あんらくよこになつてういふおといてゐると、わたし次第しだいめてたが、ドクトルはかへツ寢入ねいつてゐる。 そのにぎつてると、死人しにんそれのやうに頽然ぐたりとし[Pg 61]おもたい。 汽車きしやはもううごして、心持こゝろも震動しんどうしながら、探足さぐりあしくやうに、用心ようじんしつゝ徐々そろり〳〵すゝむ。 看護手かんごしゆ醫學生いがくせいがランプにとぼすと、そのひかり車室しやしつ羽目はめくろあなてらされた。 憤々ぷん〳〵おこりながら、醫學生いがくせいが、

馬鹿ばか々々〳〵しい! いま時分じぶんつたつて仕樣しやうがない。 貴方あなた先生せんせい寢込ねこまないうちおこしてくださらんか?寢込ねこぢまつたら、もう駄目だめです。 ぼくおぼえがある。」

 二人ふたりして搖覺ゆりおこしたら、ドクトルは起直おきなほつて不思議ふしぎさうにキヨロ〳〵してまた寢倒ねこけやうとするのを、[Pg 62]どツこい、うはさせなかつた。

今頃いまごろウオツトカを一ぱいキユウと引懸ひツかけるなんぞはわるくないな」、と醫學生いがくせいがいふ。

 で、コニヤクを一口ひとくちづゝむだら、睡氣ねむけ奇麗きれいれてしまつた。 黑々くろ〴〵おほきい四かく薄赤うすあかくなり、つひ赤々あか〳〵てらされて、小山こやまむかふのそら一杯いつぱい火影ほかげ深々しん〳〵うつる。 宛然さながら眞夜中まよなかたやうだ。

「あれは遠方ゑんぱうですな。 二十ウエルストもはなれたところだ。」

さむい、」といつてドクトルはくひしばつた。

 [Pg 63]學生がくせい一寸ちよつとそとのぞいてわたしまねくから、のぞいてたら、地平線ちへいせん處々ところ〴〵ぼつあかおともさせずしづまりかへつてゐる兵火へいくわうつりが、それからそれへと連續れんぞくして、宛然さながら十の太陽たいやうが一るやうで、もう左程さほどくらくもない。 遠方ゑんぱう山々やま〳〵黑々くろ〴〵なみのうねつたやうに起伏きふくして劃然くつきり浮出ふきだし、ちかくのものみなしんめりとしたしづかなひかりけて赤々あか〳〵える。 學生がくせいかほても、矢張やつぱそまつたやうにあかく、此世このよひといろでない。 飛散ひさんして空氣くうきとなりひかりとなつたやうにおもはれる。

負傷者ふしやうしや餘程よつぽどりますか?」

 [Pg 64]くと、學生がくせいつて、

狂人きちがひおほいのです。 負傷者ふしやうしやより狂人きちがひはうおほいのです。」

本當ほんたう狂人きちがひが?」

うそ狂人きちがひといふのもいでせう。」

 と此方こちら振向ふりむいた學生がくせい目差めざし凝然ぢつすわつて、物凄ものすごく、つめたい恐怖きやうふちて、れい日射病につしやびやうたふれたへい目差めざし其儘そのまゝであつた。

好加減いゝかげんことを…」とかほそむけると、

其樣そんことつて、ドクトルも矢張やつぱくるつてますぞ。 まあ、一寸ちよつと御覽ごらん。」

 [Pg 65]ドクトルには私逹わたしたちはなしきこえないやうだつた。 土耳古トルコじんのやうに箕踞あぐらをかいて、ふら〳〵しながら、くちびる指先ゆびさきおともさせずふるはせてゐるその目差めざし矢張やツぱぢツすわり、茫然ぼツにぶけたやうだつたが、

さむい、」といつて微笑にツこりした。

貴方あなたがたはじつひど人逹ひとたちだ!」とわたし大聲おほごゑつて車室しやしつすみき、「なんだつてわたし引張ひツぱしたんです?」

 だれなんともはなかつた。 そら深々しん〳〵益々ます〳〵あかくなつてく、それを學生がくせいながめてゐる。 頸窩ぼんのくぼ[Pg 66]ちゞれてゐるのも若々わか〳〵しい。 これてゐると、何故なぜ繊細かぼそをんな此毛このけせゝつてゐるやうにおもはれてならぬ。 それがまたしやくさはつて、つひ學生がくせいまで小面憎こづらにくくなつてて、かほると、むねがむかつく。

きみ何歲いくつです?」といつても返答へんたふをしない。 振向ふりむきもしない。

 ドクトルはふら〳〵しながら、

さむい!」

 學生がくせい餘所よそいたまゝで、

ぼくなんだ、ぼく此世このよ何處どこかにまちいへ大學だいがくるとおもふと…」

 [Pg 67]ぷつりと言葉ことばじりつて、これでひたいことみなつくしたやうにだまつてしまふ。 ふと唐突だしぬけ汽車きしやとまつたので、わたし羽目はめ衝突ぶツかつた。 がや〳〵と人聲ひとごゑがする。 みないそいでそとた。

 機關車きくわんしやまへ線路せんろうへなによこたはつてゐる。 たいしておほきなものでもなかつたが、それからヌツとあしが一ぽんてゐた。

負傷者ふしやうしやですか?」

「いや、戰死者せんしゝやです。 首無くびなしだ。 しかし、こりや如何どうしてもまへ燈火あかりけずにやられん。 これぢや轢潰ひきつぶす。」

 [Pg 68]あし突張つツぱつたもの線路せんろぐわいしたら、虛空こくうむで駈出かけだしでもするやうに、一寸ちよツとちう踏反ふんぞつて、ポンと眞暗まツくらみぞなかはまつてしまつた。 燈火あかりく――と、もう機關車きくわんしや眞黑まつくろえる。

「おゝい!」とだれだか小聲こごゑ如何いかにも氣疎けうとさうにぶ。

 今迄いまゝできこえなかつたのが不思議ふしぎくらゐだが、何處いづくともなく方々はう〴〵呻聲うめきごゑきこえる。 高低たかひくのない、なにかをくやうな、はゞのあるだけ不思議ふしぎ悠然ゆツたりした――のをとほして、もう如何どうなとなれとしたやうな呻聲うめきごゑだ。 今迄いまゝで隨分ずいぶん喚聲わめきごゑ呻聲うめきごゑいたこともあ[Pg 69]るが、此樣こんなのをいたことがない。 朦朧ぼんやり薄紅うすあか地面ぢつらにはなにえないから、うめくのは大地だいぢか、それともかげてらされた大空おほぞらかとあやしまれる。

「四ウェルストた」、と機關士きくわんしがいふ。

あのこゑむかふのはうでするのだ」、とドクトルは行手ゆくてす。 學生がくせい愕然ぎよツとして徐々そろ〳〵此方こちらき、

なんですかあのこゑは? いや、どうも、いてをられん!」

「ま、かう。」

 で、私逹わたしたち機關車きくわんしやまへつてあるいてつた。 銘々めい〳〵かげつながつてながく〳〵線路せんろうへつたが、[Pg 70]かげくろくはない、薄朦朧うすぼんやりあかかった。 暗黑まつくろそらはしに、處々ところ〴〵兵火へいくわがしんめりとおともさせずしづまりかへつてえる、それがうつるからだ。 行程ゆくほどれい物凄ものすごい、なにうめくともれぬ、奇怪きくわい呻聲うめきごゑ愈々いよ〳〵はげしくなりまさつて、血潮ちしほあか空氣くうきうめくのか、乃至ないし天地てんちうめくのかとばかりに、薄氣味うすきみがわるい。 浮世うきよには關繫かけかまひなさそうに、あやしく、間斷かんだんなくうめこゑけば、ときとしては野中のなか螽斯きり〴〵す單調たんてう暑苦あつくるしさうにく、なつ野中のなか螽斯きり〴〵すこゑ髣髴はうふつたることもある。 で、段々だん〴〵死骸しがい澤山たくさんになる。 ざツとあらためては線路せんろぐわい投出なげだしたが、みなもう何事なにごとにも頓着とんぢやく[Pg 71]ない、ものどうぜぬ、頽然ぐたりとした死骸しがいで、そのころがつてゐたあとには、吮込すひこまれて血潮ちしほくろあぶらぎつて汚點しみのやうにえる。 はじめはかずむでゐたが、其中そのうち間違まちがへたから、それなりにしてしまつた。 死骸しがい隨分ずゐぶんつた、――夜氣やきみづごとく、其處そこら一めんおしなべて呻聲うめきごゑだらけの、氣味きみわるよるにしてから、あますぎほどつた。

なんだあれは?」とドクトルがさけんで、だれおどつもりなのか、こぶしかためてつてせて、「一寸ちよツと――いて御覽ごらん…」

 もうやがて五ウェルストになる。 呻聲うめきごゑ愈々いよ〳〵判然はつきり[Pg 72]際立きはだつてて、もう此聲このこゑ引歪ひきゆがめた口元くちもとえるやうな心地こゝちがする。 薄紅うすあかもや此世このよものともおぼえぬあやしき底光そこびかりふくんであやまよなかへ、私逹わたしたちおそる〳〵看入みいつたときほとん足元あしもと線路せんろしたで、すくひよぶぶがごとく、くがごとく、たかうめこゑがする。 こゑぬし負傷者ふしやうしや見付みつかつたが、手提てさげかげてらされた其面そのかほれば、面中かほぢうばかりかとおもはれるほどおほきなだつた。 うめんで私逹わたしたちかほ手提てさげ旋次せんぐりそのうちには、人影ひとかげ火影ほかげみとめてよろこんできやうせんと[Pg 73]するいろほかに、ほそれがまぼろしえやうかと、おそれてきやうせんとするいろうごいてゐた。 あるひかざしてこゞかゝつたひと姿すがたが、血塗ちみどろゆめうちにもや〳〵となつたことが、幾度いくたびるのかもれぬ。

 すゝまんとして、たちままた二人ふたり負傷者ふしやうしや出遭であつた。 一人ひとり線路せんろうへたふれてゐて、いま一人ひとりみぞなかうめいてゐた。 此等これら收容しうようするとき、ドクトルはいかりわなゝかせて、此方こちらき、

如何どうです?」

 といつてかほそむけた。 數步すうほすると、むかふから輕傷者けいしやうしやが、片手かたて片手かたてさゝへて、一人ひとりあるいてた。 仰向あふむいて私逹わたしたち衝當つきあたりさうだつたから、みち[Pg 74]ひらいてとほしてやつたが、一かうかぬらしい。 おそらく私逹わたしたち姿すがたはいらなかつたのであらう。 機關車きくわんしやまへでト立止たちどまつてぐと轉開かはしてそのよこて、今度こんど車輛しやりやう沿いてく。

「こら、おまへその汽車きしやれ!」とドクトルがけたが、返答へんたふもしなかつた。

 此等これら手始てはじめとして、あさましい姿すがたやが線路せんろうへにもそばにもしきり出遭であつて、深々しん〳〵あか兵火へいくわ照反てりかへしたは、たましひでもはいつたやうに、一めんにざわつきし、大叫喚だいきうくわん號泣がうきふ呪咀じゆそ呻吟しんぎんこゑがクワツとおこる。 隆然むつくりたかくなつたくろものかげうごめきの[Pg 75]打廻うちまはところれば、まだゆめながらかごされたかにのやうに、手足てあしつて、可怪をかしげなかたちをして、どたりとしてうごぬのもあれば、しどろに覺束おぼつかなく藻搔もがくのもあつて、どれも〳〵人らしくない。 あるひだまつてひなり次第しだいになるのもある、あるひうめき、き、惡體あくたいいて、この血羶ちなまぐさ人間にんげん生死しやうしあづからぬらしい光景やうすも、かうした深傷ふかでうたのも、死駭しがいなかひと取殘とりのこされてゐるのも、みな我我ひと所爲せゐでもるやうに、すくはうとする我々われ〳〵嫉視しつしするのもある。 車室しやしつにはもう負傷者ふしやうしやがなく、私逹わたしたちてゐるふくまでグッチョリれて、[Pg 76]宛然さながら血雨けつううち立盡たちつくしてゐたやうになつたのに、まだ負傷者ふしやうしやはこんでて、よみがへつたやうにえる何時いつまでも物凄ものすごうごめきわたる。

 或者あるもの自分じぶんり、或者あるものはふら〳〵としてけては起上おきあがり〳〵る。 なかにも一人ひとりほとんはしつてたのがあつた。 と、ると、かほはひしやげて、ひとのこつたばかりが物凄ものすごいすさまじいひかりたゞ湯上ゆあがりのひとのやうに、ほとんど一をもけてゐない。 わたし衝退つきのけて、ひとでドクトルをさがし、あツといふ無手むず左手ゆんで胸倉むなぐらつて、

「うぬ…者面しやツつら打曲はりまげるぞ!」

 [Pg 77]と、かうひとわめいていて、それから小突こづきながら、悠々ゆツたりと、そのくせ口汚くちぎたなくどくづく。

貴樣きさまつらをグワンとやるのだ。 このド畜生ちくしやうめ!」

 ドクトルは振放ふりはなして、ヤツと立向たちむかひ、いきつまらせ〳〵のゝしつた。

野郞やらう軍法ぐんぱふ會議くわいぎけるぞ! 監倉かんさうだぞ! ひと職務しよくむ邪魔じやましやがつて… この野郞やらう! この畜生ちくしやう!」

 なかはいつて引分ひきわけたが、引分ひきわけられてもへいのゝしまず、しばらくはたゞ

「こン畜生ちくしやう! 者面しやツつら打曲はりまげるぞ!」

 [Pg 78]とばかり。

 わたしはもうへられなくなつたから、一ぷくしてやすまうと、片脇かたわき退いた。 手首てくびのりはパサ〳〵にかはいて、くろ手袋てぶくろ穿めたやうに、ゆびもぎこちなく、マッチやシガレットをつい取落とりおとす。 やうやすと、烟草たばこけむり平常いつものやうにもなくへんえて、そのあぢまつたかはつてゐる。 こんな烟草たばこあとにもさきにもんだことがない。 そのとき學生がくせい看護手かんごしゆそばた。 一しよ汽車きしやつてあのをとこだのに、なんだか數年すねんぜんつたひとのやうにおもはれて、さて何處どこつたかゞおもせない。 學生がくせいひたかゞとけて[Pg 79]行進マーチ步調ほてうあるいてたが、わたし身體からだしに何處どこともなくとほくのそらながめて、

「これだのにみんなてゐるのだ。」

 となんだか落着おちつきはら[Pg 80]つてゐる。 わたし自分じぶんことのやうに憤然やつきとなつて、

「だつて、きみ十日とをか獅子しゝのやうに奮鬪ふんとうしたのだもの、そのはずぢやないか?」

「これだのにみんなてゐるのだ。」

 と學生がくせいわたし身體からだしにそらながめながら、反覆くりかへしていつて、さてわたしかほのぞむやうにして、人差指ひとさしゆびはなさきり〳〵、矢張やツぱりにべもなく落着おちつきはらつた調子てうしで、

いてきなさい、く。」

なにを?」

 學生がくせい愈々いよ〳〵かほのぞむで、理由わけありさうに人差指ひとさしゆびり〳〵、辻褄つじつまつたはなしつもりらしく、矢張やツぱひとことをいふ。

いてきなさい、く。 みんなにもつてもらひたいのだ。」

 きツわたし見据みすゑたまゝ、も一人差指ひとさしゆびつてせて、ピストルを取出とりだすや、ドンと一ぱつわれわが顳顬こめかみ擊込うちこんだ。 けれどもわたしすこしもおどろかず、[Pg 81]へいきでシガレットをひだり持易もちかへて、ゆびその創口きずぐちさはつてて、汽車きしやはうへ行つた。

「あの學生がくせいはピストルで自殺やりましたぞ。もつともまだいきはあるやうだが…」

 とわたしがドクトルにいふと、ドクトルはわれわがあたま武者振むしやぶいて、うなるやうに、

馬鹿ばかめ!… もう汽車きしやは一ぱいだ。 彼處あすこにもいま自殺やりさうなのが一人ひとりるのだ。 わたしだつてうだ」、と忌々いま〳〵しさうにしかるやうにつて、「自殺やりかねない。 まつたく! だから、貴方あなたは――あるいてつてもらひませう。 もうせる餘裕せきがない。それ不服ふゝくなら、[Pg 82]こくはつなさい。」

 とわめき〳〵餘所よそいてしまつた。 いま自殺やりさうだといふをとこそばつてたら、それは看護手かんごしゆ矢張やツぱり學生がくせいらしかつた。 ちながら車輛しやりやう羽目はめひたへ押當おしあてゝ、かたなみたせていてゐる。

くな〳〵」、とわたしそのなみかたつた。

 が、振向ふりむきもせず、返答へんたふもせず、いてゐる。 ると、頸窩ぼんのくぼ自殺じさつした學生がくせいのそれのやうに若々わか〳〵しく、矢張やツぱ無氣味ぶきびだ。 酔漢よひどれむさものでもいてるやうに、意久地いくぢなく兩足りやうあし踏擴ふみはだけてゐたが、[Pg 83]くびすぢまみれてゐたのは大方おほかたおさへたからだらう。

くなとへば!」とわたし癇癪聲かんしやくごゑ振立ふりたてた。

 と、その看護手かんごしゆ蹌踉よろ〳〵車輛しやりやうはなれて、投首なげくびして、老人らうじんのやうにまるくし、私逹わたしたちてゝいて、何處どこともなく闇黑くらやみうちく。 何故なぜだか、わたしそのあといて、汽車きしやあとにして、何處どこ目的めあてともなく、しばらく二人ふたりあるいてつた。看護手かんごしゆいてゐるらしかつたが、わたしなんだかわびしくなつて、泣出なきだたいやうな氣持きもちがする。

一寸ちよツとて!」と大聲おほごゑつてわたし立止たちどまつた。

 [Pg 84]が、看護手かんごしゆまるくして、おもたさうな足取あしどりく。 かたすぼめてあし引摺ひきずり〳〵姿すがたは、宛然さながら老人らうじんだ。 やがあかるえてもりもせぬ薄紅うすあかもやうちその姿すがたえて、わたし一人ひとりになつてしまつた。

 左手ゆんでとほ朦朧もうろうとして一れん火影ほかげながれるやうにぎてく。 汽車きしやもどつてくのだ。 わたしんだものしにかゝつたものなか一人ひとり取殘とりのこされたのだが、んだものしにかゝつたもの收容しうようもれになつたものはまだ何位どのくらゐあつたかれぬ。 ちかくは寂然しんとしてゴソリともいはぬけれど、はなれてはたましひるやうにザワ〳〵とうごめく――と、さ、一人ひとりだからおもはれた[Pg 85]のかもれぬ。 かく呻吟しんぎんこゑえぬ。 子供こどもくやうな、夥多あまた子犬こいぬてられてこゞなむとしてくやうな、繊細かぼそい、便たよりないこゑ地上ちじやうめんひろがつて、これいてると、するどい〳〵際限はてしもないこほりはりなう突徹つきとほされて、そろり〳〵と拔差ぬきさしされるやうな氣持きもちがして…。

(斷篇第六)

 …それは味方みかたであつた。 最後さいごの一ケげつ命令めいれい計畫けいくわく齟齬くひちがひ、てき味方みかた行動かうどうもつれ〳〵てめう工合ぐあひであつたが、ういふなかでも敵襲てきしふのあること[Pg 86]豫期よきしてゐた。 てきといふのはすなはだい軍團ぐんだんである。 で、味方みかたすで攻擊こうげき準備じゆんびをはつたときたれだか雙眼鏡さうがんきやうると、味方みかた制服せいふくけてゐるのが判然はつきりえるとして、十分後ぷんごにはそのうたがひがれ、愈愈いよ〳〵味方みかたちがひないとなると、みなホツとしてうれしくおもつた。 先方さきもそれと心附こゝろづいたていで、悠々いう〳〵ちかづいてる。 その落着おちついたところに、相手あひて矢張やツぱ思掛おもひがけぬ邂逅であひよろこんで微笑びせうしてゐるおもかげいてえる。

 で、てき發砲はつぱうしたときには、なんことだかしばらくは合點がてんかずに、榴霰彈りうさんだん銃丸じうぐわんあられごとそゝ[Pg 87]またゝ死傷者ししやうしややまきづなかで、私逹わたしたち矢張やツぱり莞爾莞爾にこ〳〵してゐた。 だれだかてきだとさけぶ。 てきくと、――わたしおぼえてゐるが、――成程なるほど相手あひててき制服せいふくてき制服せいふく味方みかたのとはちがふと、みないた。 で、ぐさま應戰おうせんする。 このへん戰鬪せんとうはじまつてから、十ぷんつたころであらう、わたし兩足りやうあしもがれて、いたときには、もう病舎びやうしやて、手術しゆじゆつむだのちであつた。

 戰鬪せんとう結果けつくわひといてると、みな取留とりとめぬ氣休きやすめばかりつてゐるが、さつするところ敗北はいぼくしたにちがひない。 それにしても、うなればわたしはもう後送こうそう[Pg 88]される、かくいのちつなめた、壽命じゆみやうらむかぎ長生ながいき出來できる、とおもふと、あししのにもうれしかつた。 が、一週後しうごやうやくはしいことわかると、また胡亂うろんになつて、かつおぼえぬ奇異きい恐怖きようふさらこゝろいだくやうになつた。

 矢張やツぱ味方みかたであつたらしい。 味方みかた味方みかたはう擊出うちだした味方みかた破裂彈はれつだんわたしあしもがれたのだ。 如何どうして此樣こん間違まちがひをしたのか、だれにもわからぬ。 なんだかめうことになつて如何どうしてかくらむで、おなぐんぞくする二聯隊れんたいが一ウエルストをへだてゝ相對あひたいして、相手あひててきと十ぶん思込おもひこみながら、まる[Pg 89]じかん同志打どしうちしてゐたのだ。 みなるたけそのうはさをするのをけて、すれば曖昧あいまいことばかりふ。 なによりも不思議ふしぎなのは、そのうはさをしても、大抵たいていいまだに同志打どしうちとはおもつてゐない。 いや、むし同志打どしうちみとめる、たゞ最初さいしよから同志打どしうちしたのでない、最初さいしよ實際じつさいてき相手あひてにしてゐたのだが、全戰線ぜんせん〳〵紛糾こぐらかつたまぎれに、そのてき何處どこへかえて、我々われ〳〵つひ味方みかた彈丸たまかぶつたのだ、とおもつてゐる。 なかにはかくさずうと明言めいげんして、事實じゞつだとおもひ、事實じゞつらしいとおもほどことならべて、つぶさにその次第しだいかたものもある。 わたし如何どうして此樣こん間違まちがひおこつたのか、いま[Pg 90]なつてもまだ確乎しかとしたことへぬ。 最初さいしよときには我軍わがぐん赤線あかすぢりの軍服ぐんぷくまぎれなかつたのが、其後そのゝちたらたしか黃筋きすぢてき軍服ぐんぷくになつてゐたのだ。 たゞ如何どうしてかもなくみなこの間違まちがひわすれて、しんてきたゝかつたやうに思込おもひこんでしまつたから、いつはもなくそのとほりを通信つうしんいておくったものおほい。 それは歸國後きこくごわたしんでつてゐる。 で、最初さいしよこのとき負傷ふしやうした我々われ〳〵むかふと、世間せけんひと樣子やうすすこめうで、なんとなく負傷者ふしやうしやほど同情どうじやうせてれぬらしかつたが、その區別わけへだてえてしまつた。 たゞこれるゐしたこと其後そのごつたし、また實際じつさい敵方てきがたにも某隊ぼうたい[Pg 91]某隊ぼうたいとが夜中やちう同志打どしうちをしてほとん全滅ぜんめつしたといふ事實じゞつつてれば、我々われ〳〵矢張やツぱり間違まちがつて同志打どしうちしたといふに不思議ふしぎはないとおもふ。

 わたし手術しゆじゆつけたドクトルはヨードホルムや烟草たばこけむり石炭酸せきたんさんにほひのする、いつても黃味きみびたしろ斑髭まだらひげなか莞爾莞爾にこ〳〵してゐる、乾枯ひからびたやうな骨張ほねばつた老人らうじんであつたが、ほそくしてふには、

貴方あなた其中そのうち後送こうそうされやうが、仕合しあはせなことだ。 どうもなんだかへん鹽梅あんばいですからな。」

如何どうしてゞす?」

[Pg 92]如何どうしてといふこともないが、どうもへん鹽梅あんばいですわい。 私逹わたしたちつた時分じぶんには此樣こんなこじれたことはなかつた。」

 二十餘年よねんぜん最後さいご歐洲おうしう戰役せんえき從軍じうぐんしたひとで、其頃そのころうはさをしては得意とくいになる。 が、今度こんど戰爭せんさう理由わけわからぬとかつて、始終しじゆう懸念けねんさうな樣子やうすでゐるのだ。

「どうもへんですわい、」と溜息ためいきをして、かほしかめて烟草たばこけむりなか雲隱くもがくれをしたが、「らうことなら、わたしかへりたい。」

 と、ひとかほのぞむやうにして、きいろい烟脂やに[Pg 93]だらけの髭越ひげごしに、

「ま、てゐて御覽ごらんいま大變たいへんことになつて、一人ひとりだつてきちやかへれなくなるから。 わたしはじみなやられる。」

 と老眼らうがんわたしかほちかくにゑて、此人このひと矢張やツぱりキョトンとする。 これると、百千の建物たてものが一くづかゝつたほどわたしたまらなくおそろしくなつて、慄然ぞツとして、小聲こゞゑで、

あかわらひだ。」

 この意味いみわかつたのは此人このひとはじめてゞあつた。 きふ首肯うなづいて、

[Pg 94]まつたくだ。 あかわらひだ。」

 で、ひたわたし寄添よりそつて、きよろ〳〵しながら年寄としよりくせとして諒々くど〴〵さゝやくのだが、さゝやたび先窄さきすぼまりの半白ごましほ頰髯ほゝひげうごく。

貴方あなた後送こうそうされるのだから、おはなしするが、なんですか、貴方あなた瘋癲ふうてん病院びやうゐん狂人きちがひ喧嘩けんくわをするのをことりますか? い? わたしる。 喧嘩けんくわをするところ矢張やツぱり無病むびやうひとのやうだ。 ね、無病むびやうひとのやうだ。」

 と幾度いくたび理由わけありさうにこの文句もんく反覆くりかへす。

「で、如何どうしたといふのです?」

 [Pg 95]わたし矢張やつぱり恟々きよと〳〵しながらこゑひそめてくと、

如何どうしたといふのでもないが、矢張やつぱり無病むびやうひとのやうだ。」

あかわらひだ。」

みづ打掛ぶつかけて引分ひきわけるのです。」

 あめ度肝どぎもかれたこと憶出おもひだして、わたししやくさはつたから、

貴方あなたくるつたンだ!」

「が、貴方あなた以上いじやうぢやない。 えうするに、以上いじやうぢやない。」

 と、とがつたおいひざいて、ヒゝとわらつた。 こ[Pg 96]いや意外いぐわい笑聲わらひごゑ名殘なごりを、ばさ〳〵にかはいたくちびるにまだとゞめたまゝ、肩越かたごしひとかほ尻眼しりめけて、幾度いくたびくすぐつたい目交めまぜをする。 なにおそろしく可笑をかしなことがあるが、それをつてゐるもの二人ふたりぎりほかにはたれいとつた調子てうしだ。 それから魔術師まじゆつし手品てじな使つかふやうに、大業おほげふ高々たか〴〵げて、スウとかろそれおろして、そツと二ほんゆび夜着よぎの、切斷せつだんしなかつたらわたしあしるべきところおさへて、

「この意味いみわかりますか?」

 とひそ〳〵とく。 さらまた大業おほげふ理由わけりさう[Pg 97]負傷者ふしやうしや幾側いくかはかにわかれて寢臺ねだいてゐるのをして、また、

「この意味いみ說明せつめい出來できますか?」

負傷者ふしやうしやでさ。」

負傷者ふしやうしや」、と反響はんきやうのやうに反覆くりかへして、「あしもない、うでもない、はらには風穴かざあなけられて、むね微塵みじんくだかれて、眼球がんきうゑぐられてゐる――この意味いみわかつてゐるのですな? よろしい。 ぢや、この意味いみわかるでせう?」

 といて、年齡とし似合にあはず飜然ひらり身輕みがる逆立さかだちをして、あし釣合つりあひつてゐる。 しろ治療服ちれうふく[Pg 98]まくれて、かほ眞紅まつか充血じうけつしたが、さかになつたへん目色めつきで、喰入くひいるやうにぢつわたしかほながら、やつと、途切とぎれ〳〵に、

「この意味いみも…矢張やつぱり…わかりますか?」

「もう好加減いゝかげんになさい。 さんと、ぼくこゑてるから。」

 とわたしおびえた小聲こゞゑつた。

 ドクトルは飜然ひらりあしおろして、自然しぜん位置ゐちふくし、さらわたし寢臺ねだいそばすわつて、フウといきをしながら、われ一人ひとり心得顏こゝろえがほに、

だれにもこの意味いみわからない。」

[Pg 99]昨日きのふまた砲戰はうせんつたさうですな?」

りました。 一昨日をとゝひつた、」とドクトルは其通そのとほりといふこゝろうなづいてせる。

 わたし欝々くさ〳〵して、

「あゝ、かへりたい! ね、ドクトル、わたしはもうかへりたい。 到底とて此樣こんとこにやられん。 もうわたしにやたのしい家庭かているともおもへなくなりさうだ。」

 ドクトルはなにかんがへて返答へんたふをしなかつた。 で、わたし泣出なきだした。

「あゝ、わたしにはあしい。 彼樣あんな自轉車じてんしやつたり、あるいたり、けたりするのがきだつたが、[Pg 100]もうあしい。 みぎひざばうつけてゆすぶると、ばうわらつたツけが、もう此樣こんなにつちや…あゝじつひど奴等やつらだ! これぢやかへつたつて、仕方しかたがない。 まだたつた三十だのに… じつひど奴等やつらだ!」

 となつかしいあしはや逹者たつしやあししのんで、わたし直泣ひたなきにいた。 だれひとあしつてつた、如何いかなる權利けんりつてつてつた!ドクトルは餘所よそながら、

ういふことがある。 昨日きのふてゐたら、氣違きちがひのへい此方こつち陣地ぢんちまぎんでた。 てきへいなんで[Pg 101]す。 ほとん丸裸まるはだかで、散々さん〴〵ぶちのめされて樣子やうすで、引搔傷ひツかききずだらけだ。 宿無やどないぬなんぞのやうにガツ〳〵してゐる。 頭髮かみひげ蓬々ぼう〳〵えて、もつともこれはおたがひことだが、野蠻人やばんじんか、此世このよひらけたての人間にんげんか、乃至ないしさるかといつたやうなやつだ。 るやら、むやら、うたうたつたり、大聲おほごゑわめいたりして、兎角とかく喧嘩けんくわりたがる。 で、ものはしてから、もと野原のはら逐返おひかへしてしまつたが、こんな連中れんちううでもするほか仕方しかたがないですからな。 あゝいふ連中れんちうだ、每日まいにち每晚まいばんぼろ〳〵した薄氣味うすきみわる幽靈いうれいのやうなふうをして、やまなか彷徨うろつまはるのは。 雨風あめかぜ[Pg 102]さらされ放題はうだいさらされて、みちところあてもなくつたりたりして、る、わらふ、わめく、うたう。 こんなのが二人ふたり出遭であへば喧嘩けんくわをする――それとも出遭であつてもかずに行違いきちがつてしまふかもれんが。 一たいなにつてきてるのかわからん。 おそらくなにはずにるのぢやないかとおもはれるが、なにつてゐるなら、死骸しがいだ、――每晚まいばんツぴてやま咬合かみあつて唁々きやん〳〵吠立ほえたてる、あのくらふとつた野良犬のらいぬと一しょになつて、死骸しがいつてるのだ。 每晚まいばんあらしさましたとりか、みつともない恰好かつかうをしたのやうに、たかつてる。 さむしのぎにかゞりでもけば、[Pg 103]三十ぷんたぬうちに、ぼろ〳〵したふうの、すごい、かじざるのやうなやつがガヤ〳〵とつてる。 てきかとおもつてそれ發砲はつぱうすることもあるが、ときとしては其奴等そいつらわけわからんことをワイ〳〵いふそのこゑおびやかされるので、肝癪かんしやくおこして故意わざ遣付やつつけることもある…」

「あゝ、かへりたい!」とわたし大聲おほごゑつてみゝふさいだが、すごはなし綿わたへだてゝくやうに、ものこもつて隱々いん〳〵と、散々さん〴〵なやまされた惱髓なうずゐさらひゞいてる。

「かういふ連中れんちう大分だいぶる。 あるひ谷底たにぞこちたり、[Pg 104]あるひ正氣しやうき健全けんぜんひとためまうけた狼穽らうせいおちいつたり、あるひ戰塲せんぢやう取殘とりのこされた鐵條網てつでうまうくひさき引掛ひつかゝつたりして、一何百なんびやくとなくぬ。 進退しんたいはうのある正氣しやうき戰鬪せんとうまぎむで、いつも先頭せんとうつて奮鬪ふんとうするところは、如何いかにも勇士ゆうしのやうだが、其代そのかは味方みかた刄向はむかふこともめづらしくない。 わたしこの連中れんちうつた。 わたしいまたゞちがひかゝつてゐるばかりだから、うしてすわつて貴方あなたはなしをしてゐるのだが、これで全然すつかりくるつたとなると、わたしますな。 おほいさけぶ。 おほいさけんでこの勇敢ゆうかん可怕おそろしいといふことをらぬ武士逹ぶしたちあつめて、[Pg 105]さうして全世界ぜんせかいむかつて宣戰せん〳〵する。 樂隊がくたいさきてて、軍歌ぐんかうたつて、欣〻きん〳〵としてまちむら乗込のりこむ。 我々われ〳〵足跡そくせきいたところこと〴〵眞紅まつかになる、すべてのもの火輪くわりんごとつてをどりををどる。 生殘いきのこつたもの馳加はせくはゝつて、わが精銳せいえい雪崩なだれのやうにすゝめばすゝほど人數にんずうして、さうしてつひこの世界せかいを一さうするのだ。 なんだと? ひところしてはならん? 民家みんかくな?掠奪りやくだつするな? だれ其樣そんことをいふ?」

 とくるつたドクトルはもう絕叫ぜつきうするのであつた。 胸部けうぶ腹部ふくぶ擊碎うちくだかれたもの眼球がんきうゑぐされたもの乃至ないしあし切斷せつだんされたものの、今迄いまゝでねむつてゐたやうな[Pg 106]きずいたみが、この絕叫ぜつきうこゑ呼覺よびさまされてうづす。 はゞのある、鍋底なべぞこでもくやうな、くやうな唸聲うなりごゑ病舎内びやうしやないわたつて、あをい、きいろい、つかつた、あるひい、あるひ地獄ぢごくもどりかとおもはれるほどしたゝかたちそんじたひとかほが八ぱうから此方こちらく。 此等これらうめきつゝみゝかたむけるほかには、開放あけツぱなしの戶口とぐちから漠々ばく〳〵此世このよおほ眞黑まつくろ暗黑やみそつうちのぞむ。 くるつた老人らうじん兩手りやうてべてさら絕叫ぜつきうした、

だれ其樣そんことふ? なんの、我々われ〳〵あへころす、あへく、掠奪りやくだつする。 我々われ〳〵屈托くつたく愉快ゆくわい勇士ゆうしむれだ。 てき建物たてものでも、大學だいがくでも、博物館はくつぶくわんでも、[Pg 107]手當てあた次第しだい破壞はくわいする。さうしてその破壞はくわいあとで、わらひちたかれ軍士ぐんし我々われ〳〵をどりををどるのだ。 瘋癲ふうてん病院びやうゐん我々われ〳〵本國ほんごくしようしてからに、まだくるはぬ奴等やつら我敵わがてきみとめ、あべこべにこれ狂人きやうじんぶのだ。 さうして百せんしようの、いつも悅喜滿面えつきまんめん英雄えいゆう此方このはうが一てん萬乗ばんじようきみとしてこの世界せかいのぞとき如何いかにもこゝろゆくばかりの笑聲わらひごゑ天地てんちあひだとゞろわたるのだ!」

「それがあかわらひだ!」とわたし大聲おほごゑしてドクトルのはなしつて、「たすけてれェ! またあか笑聲わらひごゑきこえる!」

[Pg 108]諸君しよくん!」とドクトルは不具かたは幽靈いうれい呻聲うなりごゑげてゐるやうな人逹ひとたちむかつて、「諸君しよくん! やが我々われ〳〵となれば、つきあかくなる、あかくなる、毛物けものあか愉快ゆくわいとなる。 あましろいと、あましろいとな、それ、そのかは引剝ひンむいでやらうといふものだ… 諸君しよくんむだことがるか? すこ黏々ねば〳〵するものだ、すこ生溫なまあたゝかなものだ、其代そのかは眞紅まつかものだ。 さうしてわらふと、眞紅まつか愉快ゆくわい笑聲わらひごゑきこえる!…

(斷篇第七)

 [Pg 109]ひどい! 亂暴らんばうことをする。 赤十字せきじふじ神聖しんせいで、世界せかいいづれの國民こくみんこれむかつて敬意けいいはらはんものはない。 なにへいせてはまいし、なん手出てだしも出來でき負傷者ふしやうしやつた列車れつしやということてき承知しようちなら、地雷ぢらいせてあること警告けいこくすべきはずでないか? 可哀かわいさうにみな故鄉こきやうゆめてゐたらうに…

(斷篇第八)

 …中央ちうあう湯沸ゆわかし、正銘しやうめいまぎれのない湯沸ゆわかし、それが湯氣ゆげところ機關車きくわんしやのやうだ。 ひどい湯氣ゆげでランプのホヤまですこくもつたくらゐで、茶碗ちやわん矢張やはりむか[Pg 110]しながらの、そと藍色あゐいろの、なかしろい、中々なか〳〵見事みごと茶碗ちやわんで、結婚けつこんときもらものだ。 おくぬしさい姉妹きやうだいだが、氣立きだて立派りつぱ婦人ふじんだ。

みなまだ滿足まんぞくでゐるかい?」と奇麗きれい銀製ぎんせいさぢ茶碗ちやわん砂糖さとう搔廻かきまはしながら、わたし心元こゝろもとなさゝうにくと、

「あの、ひとこはれましたの」、とさい何氣なにげなくこたへた。 さい此時このとき湯沸ゆわかし龍頭りうづねぢつてゐたが、見事みごとにスウとほとばしる。

 わたし高笑たかわらひをした。

 をとうとが、

[Pg 111]なに可笑をかしいのです?」

「なに、なんでもない。 それよりか、う一書齋しよさいれてツてれ。 なに勇士ゆうしためだ、面倒めんだうれ! 留守中るすちうらくをしてゐたらうが、もう駄目だめだぞ。 これからはおれがウンと使つかつてやる。 」で、無論むろん常談じやうだんに、ともよ、いそがむ、たゝかひに、いさみててきいそがむ…とうたした。

 みなわたしこゝろさとつて微笑びせうしたが、さいだけは俯向うつむいてぬひとり奇麗きれい布巾ふきん茶碗ちやわんいてゐた。 書齋しよさいくと、水色みづいろ壁紙かべがみや、あをかさかぶつたランプや、水差みづさしつたちひさなテーブルがまたく。 [Pg 112]水差みづさしすこちりよごれてゐた。

 わたし浮立うきたつて、

「あの水差みづさしみづすこし…」

いまむだばかりぢやりませんか。」

「まあ、い、いでれ。 それから、おまへな」、とさいむかつて、「ばうれてすこつぎつてゝれんか。 たのむ。」

 で、わたしはグビリ〳〵と、たのしみながら、みづむだ。 つぎにはさいばうるのだが、姿すがたえない。

「もうよろしい。 さあ、此方こツちへおで。 だが、もう[Pg 113]おそいのに何故なぜばうないのだ?」

「おかへンなすつたのがうれしいのですよ。 ばうや、おとうさんのそばへおで。」

 しかしばう泣出なきだしてはゝすそかくれた。

何故なぜばうくのだらう?」とわたしはうろ〳〵と視廻みまはして、「一體いつたい前逹まへたち何故なぜ其樣そんあをかほをしてだまつてるのだ? 影法師かげぼふしのやうに、始終しゞうひとあとにばかりいてる…」

 おとうと高笑たかわらひをして、

だまつてやしません。」

 いもうと合槌あひづちつて、

[Pg 114]「お饒舌しやべり仕通しどほしよ。」

「どれ、わたしはお夜食やしよく仕度したくかゝらう」、とはゝ倉皇そゝくさつた。

「いや、だまつてゐる」、とわたしはふツとそれ相違さうゐないと思込おもひこむで、「あさから一言ひとことだつてお前逹まへたちものふのをいたことがない。 おればかり饒舌しやべつたり、わらつたりしてよろこんでるのだ。 おれかへつててもよろこんでれんのか? 何故なぜみなたけおれかほぬやうにするのだ? おれ其樣そんなかはつたか? そりやかはりもしたらうが…かゞみひとつもえんぢやないか? みな片付かたづけてしまつたのか? かゞみつてれ。」

[Pg 115]「は、いまつてまゐりますよ」、とさいはいつて、つたぎり中々なか〳〵もどらんで、かゞみ小間使こまづかひつてた。 かほうつしてると、汽車きしやつてゐたとき停車塲ていしやぢやうとき矢張やはりあのかほで、すこけたやうだが、格別かくべつかはつたこともない。

ちつともかはつてやせんぢやないか?」

 とすましていふと、そばもの大層たいそうよろこんだ。 何故なぜだかみなわたし大聲おほごゑてゝ氣絕きぜつでもしさうにおもつてゐたらしい。

 いもうと笑聲わらひごゑ段々だん〳〵たかくなつて、狼狽あわてゝつてしまつたが、おとうと狼狽らうばいした樣子やうすもなく、落着拂おちつきはら[Pg 116]て、

「さう、そんなにかはつちやゐません。 たゞすこ禿げたばかりで。」

くび滿足まんぞくいてるのが見付みつものだとおもはなきやならん」、とわたし平氣へいきこたへて、「それはさうと、みな何處どこつたのだらう――一人ひとり二人ふたりちして。 おまへもうすこうちうち引張ひツぱまはしてれんか。 じつこの椅子ゐす便利べんりだ。 まるおとがせん。 いくした?おれうなりや仕方しかたがない、かね糸目いとめけんで此樣こん義足ぎそくはう、もツといのを…や、自轉車じてんしやが!…」

 [Pg 117]かべかゝつてゐる。 空氣くうきいてあるから、護謨輪ごむわしなびてゐたが、まだ眞新まツたらしだ。 後輪あとわ護謨ごむすこどろ干乾ひからびていてるのは一番いちばん最後しまひつたときどろだ。 おとうとだまつて椅子ゐすすのをめてゐた。 わたしにはそのだまつてゐるこゝろ立止たちどまつてゐるこゝろめたから、不機嫌ふきげんかほをして、

おれはう聯隊れんたい生殘いきのこつた將校しやうかう四人よにんほかない。 おれ非常ひじやう幸運かううんだ…自轉車じてんしやはおまへらう。 明日あすになつたら、おまへ部屋へやつてつとくがい。」

「さうですか。 ぢや、もらつときませう」、とおとうと素直すなほこといて、「さうですとも、にいさんは[Pg 118]かううんだ。 市内しないでも人口じんこう半分はんぶん忌中きちうひとだそうですからな。 そりやあしなんだけれど…」

「さうとも。 おれ郵便配逹いうびんはいたつぢやなしな。」

 おとうとはふと立止たちどまつて、

如何どうしたんです? くび大層たいそうふるへるぢやりませんか?」

「なに、なんでもない。 なほちまふ、醫者いしやつてゐた。」

ふるへますな?」

「う、ふるへる。 なに、なほちまふ。 まあ、してれ。 ひとところるときて不好いかん。」

 [Pg 119]家内かないものみな佛頂面ぶつちやうづらをしてゐるので、わたし不愉快ふゆくわいでならなかつたが、でもとこだんになると、またうれしくなつてた。 結構けつこう寢臺ねだいだ。 四年前よねんぜん結婚けつこん間際まぎはつた寢臺ねだいうへ本式ほんしきとこつてれる。 きよいシーツをいて、それからまくらゑて、夜着よぎける――その事々こと〴〵しい爲體ていたらくてゐると、可笑をかしくてなみだこぼれる。

 さいむかつて、

「さ、着物きものがせてれ。 それからかすのだ。 あゝ、心持こゝろもちだ!」

「は、只今たゞいま。」

はやく!」

「は、只今たゞいま。」

[Pg 120]如何どうしたンだ?」

「は、只今たゞいま。」

 さいわたし背後うしろ化粧臺けしやうだいそばつてゐた。 其方そのはう振向ふりむいてやうとしたけれど、かなはない。 と、不意ふいさいおほきなこゑさけんだ。 此樣こんなこゑ戰塲せんぢやうでなければないといふほどおほきなこゑさけんだ、

なさけないぢやりませんか!」

 さうしてわたし飛付とびついたまゝ、其處そこたふれて、ありもせぬわたしひざかほうづめやうとして、慄然ぞツとしたや[Pg 121]うにいて、またすがいて、すこしばかりのこつたもゝ接吻せつぷんしながら、きながら、

「あんな滿足まんぞく身體からだだつたのに!…まだ三十ぢやりませんか。 わか立派りツぱかただつたのに、此樣こんなになつてしまつて、なさけないぢやりませんか! 本當ほんたう殘酷ざんこく人逹ひとたちだ。 貴方あなた此樣こんなにすれば、何處どこいのでせう? なん必要ひつえうつたのでせう? やさしい貴郞あなた此樣こん姿すがたにしてしまつて…わたしももうもうなさけなくツて…」

 この泣聲なきごゑ聞付きゝつけてみなけてた。 はゝも、いもうとも、乳母うばみな駈付かけつけてて、みないた、なんだかつて、[Pg 122]わたしあしところころがつて、みな大泣おほなきにいた。 おとうと部屋へや入口いりぐち蒼白あをじろかほをしてつてゐたが、これあごをわな〳〵ふるはせて、金切かなきごゑ振絞ふりしぼつて、

其樣そんなにかれると、わたし氣違きちがひになりさうだ――氣違きちがひに!」

 はゝはゝわたし椅子ゐすそばにひれしてゐたが、もうおほきなこゑないとえて、わづかに皺嗄しやがごゑてゝ、あたま車輪しやりん打當うちあて〳〵いてゐた。 で、其處そこまくらゑて夜着よぎけた淸潔きれい寢臺ねだいえる。 四年前よねんぜん結婚けつこん間際まぎはつた寢臺ねだいだ…

[Pg 123]

(斷篇第九)

 …わたし湯槽ゆぶねつかつてゐた。 おとうとつたり、たり。 タオルや石鹼しやぼん取上とりあげて、近々ちか〴〵近視眼ちかめそばつてつたり、またもともどしたりして、せま部屋へやなかでまご〳〵してゐたが、やがかべむかつて、指先ゆびさき壁土かべつちせゝりながら、

「ま、かんがへて御覽ごらんなさい。 すうねんすうねんあひだ慈悲じひだの、分別ぶんべつだの、論理ろんりだのといふことをしんで、ひと意識いしきあたへた以上いじやうは、――なにはさていて、意識いしきあたへた以上いじやうはですな、其丈それだけ應報おうはう[Pg 124]きつとけりやならん。 そりや殘忍ざんにんになれんではない。 無感覺むかんかくになつて、ても、なみだても、ひとくるしむのをても、平氣へいきでゐるやうに、らうとすればなれる。 たとえば、うしぶた屠殺者とさつしや或種あるしゆ醫者いしやあるひ軍人ぐんじんなぞがそれでさ。 が、しかし、一たん眞理しんり認識にんしきしたもの眞理しんりてゝしまこと出來できるでせうか? わたし出來できんとおもふ。 子供こどもときから動物どうぶつくるしめるな、なさけれ、とをしへられてゐるのです。 んだ書物しよもつといふ書物しよもつにはみないてあるのです。 だから今度こんど戰爭せんさうなやまされるひとると、わたしどくで〳〵たまらない。 わたし戰爭せんさう呪咀じゆそ[Pg 125]する。 が、段々だん〳〵日數ひかずつにれ、ひとぬのや、くるしむだりながしたりするのがめづらしくなくなつてると、不斷ふだん感覺かんかくにぶつたやうな、道義心だうぎしん麻痺まひしたやうな鹽梅あんばいで、餘程よほどなにつよ刺戟しげきでもけなきや、むねこたへない。 が、それでも、戰爭せんさう其物そのものとは如何どうしても折合をりあこと出來できん。 元來ぐわんらい沒常識ぼつじやうしきこと理解りかいする――そんなことわたしあたまでは出來できない。 百まんひと一所ひとところあつまつて、一々はふつて進退しんたいしていのち取合とりあふ、さうしてみなおなじやうにくるしいおもひをして、おなじやうに不幸ふかううへになる、――それになん意味いみります? まる狂人きちがひ[Pg 126]しよゐぢやりませんか?」

 とおとうと此方こちら振向ふりむいて、近視きんしの、すこ愛度氣あどけないで、返答へんたふでも催促さいそくするやうに、ぢツわたしかほた。

あかわらひさ」、とわたし快活くわいくわつつて、ボシャリ〳〵とやつてゐた。

じつはね」、とおとうとしたしらしくつめたいわたしかたせると、素肌すはだれてゐたので、吃驚びつくりしたやうに、引込ひつこめて、「じつはね、わたしはどうも氣違きちがひになりさうで、心配しんぱいでならんのです。 わたしには一たい如何どうしたことだか、事由わけわからん。 わからんで、おそろし[Pg 127]い。 だれ事由わけつてかせてれるといのだが、だれ一人ひとりそれ出來できものがない。 にいさんは戰爭せんさう實地じつち目擊もくげきしてなすつたんだ。 事由わけはなしてください。」

「そんなことおれらん!」

 と戯言じやうだんらしくつてボシャリ〳〵やつてゐると、おとうとかなしさうに、

矢張やツぱりわからん? ぢや、わたしはもうだれちからりられないのだ。 ひどいなア! わたしにやもうことわること見界みさかひかない、――なに分別ふんべつだやら、無分別むふんべつだやら、わたしいまあまへるふうで、そツにいさんの[Pg 128]咽喉のどけて、グツと締上しめあげたら、如何どうだらう?」

馬鹿ばかつてる! だれ其樣そん眞似まねをするやつるもんか!」

 おとうとつめたいむで、かすかにわらつて、

にいさんが彼地あツちころわたしよるないことつた、――はないで。 すると、へんになつて、おのでもつて阿母おつかさんも、いもうとも、下女げぢよも、いぬも、みな叩殺たゝきころしてしまはうかとおもふ。 無論むろんおもふばかりで、其樣そんこと氣遣きづかひはないが…」

られちやたまらん」、とわたし莞爾につこりして、ボシャリ[Pg 129]ボシャリとやつてゐると、

「それからまたナイフだ。 すべ銳利えいり晃々ぴか〳〵するものがあると、危險けんのんでならん。 わたしがナイフをつたら、屹度きつとひとりさうながする。 だつて、銳利えいりなナイフだつたら、りたくなるに不思議ふしぎはないでせう?」

もつとも次第しだいだ。 おまへ餘程よほど變物へんぶつだな。もうすこしてれ。」

 おとうと龍頭りうづひねつて、してから、また、

「それからまた群衆ぐんじゆだ。 ひと大勢おほぜいあつまつてると、わたし心配しんぱいでならん。 ばんそとおほきなこゑでもして騷々さう〴〵[Pg 130]いと、私は愕然ぎよツとして、はじまつたのぢやないかとおもふ、斬合きりあひが。 ひとが二三にん立話たちばなしをしてゐる。 はなしすぢわからないと、いまにもその人逹ひとたち大聲おほごゑてゝ飛蒐とびかゝつて斬合きりあひはじまりさうにおもはれてならん。 それに貴兄あなた御存ごぞんじだらうが」、と仔細しさいありげにわたしみゝそばかほつてて、「新聞しんぶんると、人殺ひとごろしの記事きじだらけでせう? それがみなへん人殺ひとごろしばかりだ。 十にん十種といろといふけれど、うそです。 ひと良智りやうちといふものはひとつで、その良智りやうち段々だん〴〵くもしたのです。 まあ、わたしあたまさはつて御覽ごらん非常ひじやうあついから。 まるのやうだ。 けれども此奴こいつときとするとつめたく[Pg 131]なつて、あたまなかすべこほつたやうな、かじけたやうな、おそろしい、コチ〳〵の、こほりのやうなものになつてしまことるのです。 わたし如何どうしても氣違きちがひになりさうだ。 わらごとぢやない、本當ほんたう氣違きちがひになりさうだ。 もう十五ふんになりますよ。 好加減いゝかげんにおなさらんと…」

「もうすこし。 もう一ぷんばかり。」

 むかしのやうに湯槽ゆぶねつかつて、おとうとことにはこゝろめずに、みゝれた其聲そのこゑきながら、すこ綠靑ろくしやういたどう龍頭りうづだの、見慣みなれたかべ模樣もやうだの、たなじゆんならべた寫眞しやしん機械きかいだのと、ふる馴染なじみのあ[Pg 132]る、有觸ありふれた、平凡へいぼんものばかりだけれど、これてゐると、なんともへず心持こゝろもちい。 また寫眞しやしん硏究けんきうはじめて、平凡へいぼんおだやかなけいうつしたり、ばうあるところわらところや、惡戯いたづらするところつたりする。 足無あしなしでもこれなら出來できる。 文壇ぶんだん名著めいちよや、思想界しさうかいあたらしい功程こうていや、や、平和へいわ題目だいもくにしてぶんつくるのだ。

「ほツ、ほツ、ほ!」といつて、わたしはボシャリボシャリとつた。

如何どうしたんです?」

 とおとうと吃驚びつくりして顏色かほいろへたから、

[Pg 133]「なに、たゞ… うちうしてゐるのが愉快ゆくわいだもんだからね。」

 おとうと微笑びせうした。 その樣子やうす如何いかにもわたし赤兒あかご年下としゝたもののやうにおもつてゐるらしかつたが、其癖そのくせわたしよりみツしたなのだ。 さうして自分じぶん大人おとなぶつてぢツ考込かんがへこんだところは、なに年來ねんらい思惱おもひなやむ一大事だいじでもりさうな樣子やうすだつた。

 やがてくびすくめて、

げやうにも、迯路にげみちがない。 每日まいにちほとんおなじ時刻じこく新聞しんぶんひとかよひをめて、人間にんげんみな愕然ぎよツとする。 其時そのときみな種々いろ〳〵氣持きもちになつて、かんがへたり、[Pg 134]いたり、くるしむだり、おそれたりするから、わたしすがどころがない。 まるなみまれる木片こツぱか、旋風つむぢかぜかれたごみといふうへになる。 尋常じんじやうやう凡境ぼんけうはなれたくはないが、無理むり引離ひきはなされて、每朝まいあさ屹度きつとちう振下ぶらさがつてあしした眞暗まつくらおそろしい狂氣きやうきふち洞開ほげときがある。 わたし其中そのうち此淵このふちなかおちる、ちなきやならん理由わけがある。 にいさんはまだ事情じゞやうんなさらないのだ。 新聞しんぶんみなさらんし、種々いろ〳〵かくしてこともあるし、――にいさんはまだ事情じゞやうんなさらないのだ。」

 おとうとつたことわたし戯言じやうだんにしてしまつた。 戯言じやうだん[Pg 135]しても、可厭いや戯言じやうだんだが、だれでもちがふと、戰爭せんさうのやうな氣違沙汰きちがひざたえんところ出來できて、此樣こん不吉ふきつことひたがるものだから、わたし戯言じやうだんにしてしまつた。 つかつてボシャリ〳〵つてゐる此時このときには、戰塲せんぢやう目擊もくげきしたことすべわすれたやうになつてゐたのだ。

「いや、かくすなら、かくしてくがいが、――しかしもうやう」、と何心なにごゝろなくわたしつたので、おとうと微笑びせうして、下男げなんんで、二人ふたりしてわたしからして着物きものせてれた。 で、香氣かをりたかちやわたしのとめて線入すぢいりのコツプでむで、なんの、[Pg 136]あしがなくても、きてゐられる、とおもつた。 ちやむでから、書齋しよさいれてつてもらつて、つくゑむかつて、仕事しごとかゝ用意よういをした。

 戰爭前せんさうまへまである雜誌ざつし外國文學ぐわいこくぶんがく評論ひやうろん受持うけもつてゐたから、いま手近てぢかあを鳶色とびいろ種々いろ〳〵表紙へうしいた、なつかしい、淸潔きれい書物しよもつやまむである。 うれしさもうれしい、なんともへずたのしみで、ぐにになれなかつたから、書物しよもつひろげては、そツでゝゐた。 其時そのときわたしかほには微笑びせうたゞよつた。 屹度きつと馬鹿氣ばかげ微笑びせうだつたらうが、引込ひツこめること出來できないで、活字くわつじや、唐草からくさや、簡素あツさりした、すこしも[Pg 137]ぞくきのない、見事みごと挿繪さしゑなぞをながめてゐた。 みな非常ひじやう工夫くふうこらしたもので趣味しゆみがある。 たとへば、この文字もじなど、簡單かんたんで、恰好かつかうくて、たくみに出來できてゐる。 せんせんとがからつたところ調和てうわがあつて、ものこゝろかたところおほい。 これあんすには、幾干いくらひと刻苦こくゝして、硏究けんきうして、何程どれほど才能さいのう趣味しゆみめてあるか、わからん。

「さあ、仕事しごとしなきや」、とわたし眞面目まじめになつてつた。 わが仕事しごとながらおろそかにはおもへぬ。

 で、ペンを取上とりあげてだいかうとすると、いとくゝつたかへるのやうに、かみうへまはる。 ペン[Pg 138]かみ突掛つツかゝつて、バリ〳〵といつて、跳反はねかへつて、止度とめどなくよこれて、毟散むしりちらしたやうな、まがりくねつた、えたいのわからぬ、まづせん出來できしまふ。 わたしこゑてず、うごきもせず、一大事だいじひたせまるをおぼえて、ひやりとしていきめてゐると、晃々きら〳〵あかるいかみうへをどつて、ゆびが一ぽん々々〳〵わなわなとふるへる。 そのふるへるところに、便たよりない、物狂ものぐるほしい恐怖心きようふしんきてをどつてゐる。 どうやらゆびだけがまだ戰塲せんぢやう居殘ゐのこつて、そらうつ火影ほかげ血糊のりて、言語ごんごえたいたみをうめさけぶそのこゑいてゐるやうだ。 ゆびわたしからだはなれて、たましひこもり、[Pg 139]みゝとなり、となつたのだ。 こゑをもず、うごくこともせず、わたしつめたくなつて、晃々きら〳〵きよ白紙はくしうへゆび躍廻をどりまはるのをながめてゐた。

 寂然しんとしてゐる。 家内かないものわたし仕事しごとをしてゐるとおもふから、物音ものをとさせては邪魔じやまにならうと、みな閉切しめきつてある。 うごくこともかなはぬわたしひと室内しつないて、大人おとなしくふるへるのをながめてゐた。

「なに、なんでもない」、わたし大聲おほごゑつた。 書齋しよさい掛離かけはなれて寂然しんとしたなかで、こゑ皺嗄しやがれていや響渡ひゞきわたる。 狂人きちがひこゑのやうだ。 「なに、なんでもない。 文句もんく口授くじゆすりやい。 ミルトンも復樂園パラダイス、リゲーンド[Pg 140]ときにや、盲人めくらだつたとふ。 おれはまだものかんがへること出來できる。 これがなによりだ。 これさへかなへば、文句もんくはない。」

 で、盲目まうもくのミルトンのこと意味いみふかなが文句もんく仕立したてゝやうとしたが、言葉ことば紛糾こぐらかつて、めのかぬ活字くわつじのやうに、ほろ〳〵とこぼちて、やうや文句もんくすゑになつたとおもころには、もうはじめはうわすれてゐる。 其時そのとき如何どうして此樣こんことになつたのか、何故なぜミルトンとかいふひとことへん無意味むいみ文句もんく仕立したてやうとしてゐるのか、懷出おもひださうとしてたが、憶出おもひだせなかつた。

[Pg 141]復樂園々々々パラダイス、リゲーンド〳〵」、と反覆くりかへしてたが、なんことだか、わからない。

 そこでかんがへてると、わたしは一たい物忘ものわすれをするやうになつた。 めう放心はうしんしてゐて、見識みしつたひとかほをも見違みちがへる。 尋常じんじやうはなしをしてゐてさへ言葉ことば見付みつからんで、ときとすると言葉ことばおぼえてゐても、どうしても意味いみわからんこともある。 やが今日けふにちこと瞭然はつきりむねうかんでたが、なんだかめうな、みじかい、ぶつりとれた、わたしあしのやうな一にちで、加之しか處々ところ〴〵ポカンとあないたへんところがある。 これはながいこと意識いしきえてゐた、あるひ無感覺むかんかくであつ[Pg 142]あひだだから、其時そのときこと憶出おもひださうとしても、何一なにひと憶出おもひだせない。

 さいばうとおもへば、わすれてゐる。 それをまた不思議ふしぎともなんともおもはない。 そつ小聲こごゑつてた、

細君さいくん!」

 落着おちつきわるい、此樣こん塲合ばあひもちひたことのないこの言葉ことばひくひゞいて、返答へんたふをもたんで、えてしまふ。 寂然しんとしてゐる。 家内かないものこゝろなく物音ものおとをさせてわたし仕事しごと邪魔じやまをすまいとしてゐるのだ。 寂然しんとしてゐる。 如何いかにも學者がくしや書齋しよさいらしい。 しづかで、[Pg 143]居心ゐごゝろくて、觀念くわんねんをもいざなへば、作意さくいもよほ便たよりともなる。 あゝ、みなおれことおもつてゝれると、わたし染々しみ〴〵うれしくおもつた。

 …で、感興かんきよう神來しんらい感興かんきよういてた。 あたまなかぱツ照出てりだして、創造さうざうちからせたあつひかり世界せかいうへおとときはなり、うたる。 はなうただ。 わたし徹夜よツぴてペンをかなかつたが、つかれをおぼえなかつた。 雄大ゆうだい神來しんらい感興かんきようつばさして、縱橫じゆうわう無碍むげ翔廻かけめぐつて、ぶんつくつた。 天地間てんちかんの一だい文章ぶんしやうだ、千ざい不磨ふま文章ぶんしやうだ。 はなり、うたる。 はなうただ…。

[Pg 144]

(後篇、斷篇第十)

 …あにさいは前週ぜんしう金曜日きんえうびつた。 反覆くりかへしていふが、これはあにためにはおほいなる幸福かうふくである。 總身そうみのわな〳〵とふるへる、亂心らんしんした、足無あしなしの不具者かたはもの製作せいさくなつうかされてゐるところ無氣味ぶきみ無氣味ぶきみだつたが、慘澹みじめでもあつた。 其夜そのよからまるつき絕食ぜつしよく椅子ゐすけたまゝ書通かきとほしてゐた。 すこしでもつくゑから引離ひきはなせば、いてのゝしる。 かはいたペンでかみうへ搔廻かきまはしては、一まい々々〳〵撥退はねのけるそのはやさはおどろかすばかりで、いて〳〵くる。 一[Pg 145]すゐもしない。 催眠劑さいみんざい多量たりやうませて、やつと二幾時間いくじかんとこかせたことがあるばかりで、それからはもうくすりもその製作せいさく狂熱きやうねつおさへるちからうしなつた。 當人たうにんのぞみまかせて、終日しうじつまどカーテンいたまゝ、ランプはとぼしばなしで、らしくせかけたなかで、あにはシガレットをくゆらしくゆらし、いてゐた。 はたからては、すこぶ自得じとくていであつた。 健康けんかうひとにも此程これほどきようつたかほわたしはまだことがない。 豫言者よげんしや大詩人だいしじんといふ面相かほつきであつた。 ひどやつれて、死人しにん行者ぎようじやのやうに、蠟色らふいろ透徹すきとほつたはだになり、かみまつたしろくなつて、この物狂ものぐるほしい仕事しごとはじ[Pg 146]ときは、まだ〳〵わかかつたが、これをはころには、すで老翁らうをうになつてゐた。 ときとしてはいつになくいそいでときがある。 すると、ペンがかみ突掛つツかゝつてれるけれど、かない。 かういふときには、けられんので、あやまつて一寸ちよつとでもさはれば、發作ほつさおこつて、くやら、わらふやらする。 滅多めつたにはないが、ときにはしばらくこゝろかゝくももないやうに、こゝろよげに打寛うつくつろろいで、機嫌きげんよくわたしはなしをすることもある。 いつも其時そのとき屹度きつと、おまへだれだ、なんといふ、文學ぶんがくはじめてからもう餘程よほどになるか、とく。

 それがむと、今度こんどは、自分じぶん記憶力きおくりよくうしなつて、[Pg 147]もう仕事しごと出來できぬかとおもつて、滑稽こつけいにも吃驚びツくりしたが、さうおもしたからぐにはなうただいに、千古せんこ大作たいさくかゝつて、この馬鹿ばからしい取越苦勞とりこしくらう立派りツぱ根底こんていからくつがへしたといふはなしになつて、いつもきまつた文句もんくで、たいくだして其事そのことはなしてかせる。

無論むろんわたしいまひとみとめられやうとはおもはん」、となにいてない白紙はくしやまふるへるせて昂然かうぜんとはするが、さりとてあへげきした樣子やうすはなく、「が、未來みらいだ、――未來みらいではわたし理想りさうみとめられるときもあらう。」

 戰爭せんさうことは一言出いひだしたことがない。 つま子供こども[Pg 148]こと其通そのとほり。 はてしのない、まぼろしのやうな仕事しごとまつたたましひ打込うちこんでしまつて、これよりほかには眼中がんちうなにもないやうにおもはれた。 そばあるいても、はなしをしても、一かうかぬらしく、いつも感興かんきようつて一しん不亂ふらんになつたかほをして、ちつとのその面相かほつきあらためない。 みな眠入ねいつてゐるよる寂然しんとしたなかで、あに一人ひとりはてしのない狂亂きやうらんいとつてむことをらぬその樣子やうす慄然ぞつとするほどで、わたしはゝとのほかには、そばものもなかつた。 或時あるときわたし偶然ひよツと本當ほんたうなにくかとおもつて、かはいたペンのぺんりに鉛筆えんぴつあてがつてことがあつたが、かみのこつたふであと[Pg 149]見れば、矢張やはりたゞのむしつたやうな、まがりくねつた、えたいのわからぬ、みにくせんであつた。

 いきえたのはよるで、矢張やはり執筆中しつぴつちうであつた。 わたしあに心持こゝろもちつてゐたから、れたのに格別かくべつおどろきもしなかつた。 ひど文筆ぶんぴつこひしがつてゐたのは、まだ戰地せんちからの手紙てがみにも微見ほのみえてゐたことで、かへつてからもそれすなはいのちであつたが、このねがひと、くるしいた、つかてた、甲斐かひないなう撞着どうちやくしては、破滅はめつきたすべき運命うんめいであつた。 わたしあに此晚このばん運盡うんつきてぬまでの心持こゝろもち次第しだいうてなり精確せいかくしるたとおもふ。 かくこゝわたし[Pg 150]戰爭せんさうについてしるしたところは、んだあにはなしざいつたので、はなし大抵たいてい辻褄つぢつまはないでまぎらはしかつたけれど、たゞ或時あるとき或折あるをり光景くわうけいふかなうみてえなかつたとえて、ほとんはなしまゝ書取かきとれば、それで事足ことたつた。

 わたしあにあいしてゐた。 あにいしごとわたし心頭しんたうよこたはつて、その無意味むいみことなうあつしてくるしい。 かねて蜘蛛くものやうにあたまつゝ不思議ふしぎもののあるうへに、さらけて締付しめつけられるやうだ。 家族かぞくみな田舎ゐなか親戚しんせきところつてしまつてわたし一人ひとりいへのこつてゐたが、此家このいへちひさな一軒建けんだてで、[Pg 151]大層たいそうあにつてゐた。 召使共めしつかひどもにはみなひまつてしまつたから、每朝まいあさ隣家となり門番もんばん煖爐だんろ焚付たきつけにるばかりで、あとわたし一人ひとりきりだ。 宛然まるで重窓ぢうまど隙間すきま締込しめこめられたはひのやうに、狂廻くるひまはつてはへだてのへんものはなく。 透徹すきとほつてえるけれど、これが中々なか〳〵やぶれない。如何どうしても此家このいへ迯出にげだされぬやうながする、おもはれる。 かう一人ひとりになつてみると、戰爭せんさうことになつて、片時へんじわすれられん。 けぬなぞか、にくつゝめぬれいというやうに、それが目前もくぜんひかへてゐる。 これに種々しゆ〴〵かたちけてる。 あるひうままたがつた骸骨がいこつあるひ[Pg 152]雨雲あまぐもなかからいてて、そつ大地だいぢつゝむおぼろげなかげるが、どうてもわたしけたとひこたへにはならないで、えずむねとざつめたいのろ恐怖きようふねんむでも〳〵つくされぬ。

 わたし戰爭せんさうといふものゝ意味いみがわからぬ。 これでは矢張やはりあにのやうに、乃至ないし戰地せんちから後送こうさうせられておほくのひとのやうに、氣違きちがひにならねばなるまいが、それはさうおそろしいともおもはぬ。 わたし本心ほんしんうしなふのは、番兵ばんぺい勤務きんむたふれるやうなもので、名譽めいよことだとおもふ。 たゞ、しかし、じり〳〵とたるみなく狂氣きやうきになつてくのがつらい。 なにおほきなものふか[Pg 153]ふちおちいるやうな刹那せつな氣持きもちつらい、はらはたむし想念おもひへぬいたみをいだくのがらい…わたしこゝろもくしてしまつた、絕入たえいつて、もうあたらしい生命いのちこと出來できぬ。 しかし想念おもひはまだきてゐる、まだ※[#立+宛]《もが》いてゐる、かつてはサムソンのごとつよかつたのが、いま小兒せうにのやうに繊弱かよわくて便たよりない。 わたしわたしあはれな想念おもひいたましい。 時々とき〴〵鐵輪てつわなう締付しめつける苦痛くつうえぬときには、まちの、廣小路ひろこうぢの、人通ひとどほりのおほところ驀然まつしぐら駈出かけだしてつて、大聲おほごゑよばはつてみたくなる、

たツいま戰爭せんさうめろ! めんと…」

 [Pg 154]めんと、如何どうする? 人間にんげんまどひくべき言葉ことばるか? かういへば、あゝと、おなやう壯語さうごして、癖言くせごとへばへる。 あるひ人間にんげんまへひざまついていたら? すうまんひと泣聲なきごゑゆすつても、なんかひもないでないか? あるひ人間にんげんまへ自殺じさつしてせたら? 自殺じさつ每日まいにちすう千といふひといのちおとしても、なんかひもないでないか?

 かうして自分じぶんちからでは奈何いかんともすることが出來できぬとおもふと、わたしそゞろになる、――のろところ戰爭せんさうかぶれて、その狂味きやうみびてる。 あにはなしのドクトルのやうに、妻子さいし珍寶ちんぱう諸共もろとも人間にんげん栖家すみか[Pg 155]きたくなる、そのところみづどくとうじたくなる、所有あらゆる死人しにんくわんから引出ひきだして亡骸なきがらけがれたひと寢臺ねだいうへ抛付なげつけたくなる。 汝等なんぢら人間にんげんつまいだ情婦じやうふいだいてねむごとくに、死骸しがいいだいてねむれ!

 あゝ惡魔あくまになりたい! 地獄ぢごくさんたる有樣ありさま此世このようつして、人間にんげんけてりたい。 人間にんげんゆめつかさどつて、ひとおや笑顏ゑがほをしてねむらむとしては、其子そのこに十切掛きりかけるとき眞黑まつくろ姿すがたをしてその面前めんぜんにヌツクとつてやりたい…

 わたしはどうしてもくるふ。 たゞ、くるふなら、はやくるへ、――一こくはやくるへ…

[Pg 156]

(斷篇第十一)

 …俘虜ふりよで、恟々おど〳〵した、ふるへてゐる一だんひとだ。 これ車室しやしつから引出ひきだしたとき見物けんぶつうなつた、――みじかい脆弱やにこくさりつないだ、おほきな、意地いぢわるいぬごとうなつた。 うなつてから、だまつてかたいきをしてゐると、俘虜逹ふりよたち衣囊かくしれ、しろせてびるやうに微笑びせうしながら、ひし目白押めじろおし押塊おしかたまつてく。 それをると、いまにも背後うしろからながぼうすねところをビシヤリとられるといふひと足取あしどりだ。 が、なか一人ひとり落着おちついて、微笑にツこりともせず、險相けんさうかほ[Pg 157]をしてものがある。 わたし視合みあはせたときそのくろうち公然あからさま衣着きぬきせぬ媢嫉にくしみめた。 此男このをとこわたしいやしんでゐて、此奴こいつなにるかれたものでない、とおもつてゐたにちがひない。 わたし獲物えものたぬこのをとこらうとしたら、かならこゑをもてず、手向てむかひも辯解いひわけもしなかつたらう。 わたしなにをするかれたものでない、とおもつてゐたにちがひない。

 も一此男このをとこ視合みあはせたくなつて、見物けんぶつとも駈出かけだしてつた。 俘虜逹ふりよたち收容所しうようじよはいときねがひかなつて、其男そのをとこひらいて戰友せんいうみなとほしてから、自分じぶんうちはいらうとして、とまたわたしかほ[Pg 158]た。 くろい、おほきな、ひとみつたに、無限むげん恐怖きようふ狂氣きやうきとをうかべて、如何いかにもくるしさうで、これては是程これほど不幸あじきない心持こゝろもちになつてゐるひとるまいとおもはれた。

「あれは何者なにものです、あのへん眼付めつきをしてゐるをとこは?」

 と護送ごさう兵士へいしたづねてると、

士官しくわんです。 狂人きちがひなんで。 あゝいふのは澤山たくさんります。」

名前なまへは?」

だまつてゝ名前なまへはんのです。 ほか俘虜ふりよ[Pg 159]んといふから、大方おほかた餘所よそのがまぎんでたんでせう。 もう一くびくゝらうとしたのをたすけたことがあるんで、や、どうもけられない!…」

 と兵士へいしはそのけられないといふこと手眞似てまねでしてせて、うちかくれてしまつた。

 で、かうばんになつてから、この俘虜ふりよことかんがへてみると、あゝしてひと敵中てきちうる。 如何どんあははされるかもれない、とおもつてゐる。 味方みかたても、つたかほ一人ひとりもない。 だまつて、浮世うきよひまくのを辛抱强しんばうづよつてゐるのだが、それにしても如何どう狂人きちがひとはおもへぬ。 臆病おくびやうでもなさゝうだ。 [Pg 160]みなたましひはずぶる〳〵ものでゐるなかで、ひと昂然かうぜんとしてゐる。 おそらくその仲間なかまをも仲間なかまおもつてゐまい。 如何どん心持こゝろもちでゐるだらう? のぞむでを言ふまいといふ、その絕望ぜつばうふかさははかられぬ。 つたとてなんえきがある? いま是迄これまでいのち覺悟かくごして、人間にんげん眞價しんかさとつたには、周圍まはり如何どんなにさわいだとて、わめいたとて、また威嚇ゐかくしたとて、眼中がんちうにもう人間にんげんはない、てきもなければ、味方みかたもない、――といつたになつてゐるのだらう。 此男このをとこうへ聞糺きゝたゞしてみたら、一數萬すまん戰死者せんししやした此頃このごろおそろしい戰鬪せんとうとき捕虜ほりよにな[Pg 161]つたので、捕虜ほりよになるとき抵抗ていかうしなかつたとふ。 何故なぜ武器ぶきつてゐなかつたのを、それとはかずに一兵卒ぺいそつけんふるつて斬付きりつけると、起上おきあがりもせず、ほこにしてさへぎりもしなかつたが、きずあさかつた。 きずあさかつたのは、此男このをとこにしたら生憎あいにくことだつた。

 しかしまつた狂人きちがひでないともへぬ。 護送ごさう兵士へいしもさういつたが、かういふのは澤山たくさんるさうな…

(斷篇第十二)

 …そろ〳〵はじまつた。 昨夜さくやあに書齋しよさいはいると、[Pg 162]あに安樂椅子あんらくゐすもたれて、書物しよもつうづまつたつくゑむかつてゐる。 手燭てしよくけると、まぼろしえてしまつたが、しばらくはその安樂椅子あんらくゐすにはかゝになれなかつた。 はじめうちおそろしかつた、――ガランとした室内しつないに、なにえずさら〳〵といふおとや、ぱち〳〵とものはねおとがして薄氣味うすきみわるかつたが、しかあになら他人たにんにはましだとおもふと、むし居心ゐごゝろくなつた。 が、それでも此晚このばん徹宵よツぴて椅子ゐすはなれなかつた。 はなれたら、あにけさうにおもはれて。 へやときは、背後うしろかずに、いそいでた。 家中うちゞう燈火あかりけたものか――いや、それにもおよぶまい[Pg 163]か? 燈火あかりなにかゞえたら、無氣味ぶきみだらう。 此儘このまゝだと、まだ多少たせううたがひそんしてこと出來できる。

 今日けふ手燭てしよくつて部屋へやはいつたら、椅子ゐすにはだれけてなかつた。 してみると、昨夜ゆうべたゞかげがちらりとしたばかりでつたのだ。 また停車塲ていしやばつてみると、――もう此頃このごろでは每朝まいあさことにしてゐるのだが、つてみると、味方みかた瘋癲ふうてん患者くわんじやばかりをせた車輛しやりやうがある。 けずにべつ線路せんろうつしてしまつたが、それでもまどから幾人いくにんかのかほえた。 みなおそろしいかほであつた。 こと一人ひとり患者くわんじやかほ法外はふぐわいびて、レモンのやうにきいろく、[Pg 164]明放あけツぱなしの眞黑まつくろくちすわつたと、どうても「無殘むざん」をおもてきざむだやうなかほで、わたしこれうばはれてしまつたほどだつたが、ひたわたし眞向まむかひにつて、ぢつくびゑて、其儘そのまゝまゆひとうごかさず、じろぎもせずに、うご汽車きしやとも行過ゆきすぎてしまつた。 これが停車塲ていしやば仕合しあはせうちのあのくら戶口とぐち此面このかほえたら、わたし到底とてれなかつたらうとおもふ。 いてたら、後送こうさうされた瘋癲ふうてん患者くわんじやは廿二めいだつたとふ。 愈々いよ〳〵流行りうかうするものとえる。 新聞しんぶんでは一向噂かうゝはさもせぬが、市内しないでも徐々そろ〳〵其萠そのきざしえるやうだ。 はた締切しめきつた眞黑まツくろ馬車ばしや[Pg 165]折々をり〳〵かける。 今日けふにち彼方此方あちこちで六だい見掛みかけたが、大方おほかたわたしいまあれことであらう。

 新聞紙しんぶんし每日まいにち軍隊ぐんたい輸送ゆさう必要ひつえうく。 さらなが必要ひつえうがあるとふ。 如何どういふわけだか、わたし愈愈いよいよわからない。 昨日きのふ奇怪きくわいばん論文ろんぶんむだ。 そのせつに、國民中こくみんちうにも軍事探偵ぐんじたんてい賣國奴ばいこくど謀叛人むほんにん澤山たくさんるから、銘々めい〳〵戒心かいしんして十ぶん注意ちういしなければならんが、國民こくみん公憤こうふんてらされては、この極惡人等ごくあくにんらつひ其跡そのあとくらますことは出來できまいとあつた。 この極惡人等ごくあくにんらとは如何どん人逹ひとたちことで、如何どん惡事あくじはたらいたのだらう? 停車塲ていしやば電車でんしやつたら、[Pg 166]車中しやちうへんはなしいた。 大方おほかたその極惡人逹ごくあくにんたちうはさをしてゐたのだらう。

「さういふ奴等やつら裁判さいばんなにつたものぢやない、卒然いきなり絞罪かうざいしよしツちまふがいのです、」と一人ひとりつて、胡亂うろんさうにみな視廻みまはしたつひでに、わたしかほをもちらりとて、「謀叛人むほんにん絞殺やツつけるにかぎる。」

用捨ようしやなくな」、といま一人ひとり合槌あひづちつて、「もう散散さんざん用捨ようしやしてつてますからな。」

 わたし電車でんしや飛降とびおりてしまつた。 みな戰爭せんさうにはかされてゐる、あの人逹ひとたち矢張やはりうだらうに、――これはまた如何どうしたことだ? 如何どうやらあかきり大地だいぢつゝ[Pg 167]ひとさへぎり、まこと世界せかい破滅はめつちかづいたやうに段々だん〴〵おもはれてる。 あにたといふあかわらひれだ。 かなたのみどろの赤黑あかぐろくなつたから、狂亂きやうらんかぜいてて、大氣たいきなかにそのつめたい氣息いぶきつたはるをおぼえる。 わたし屈强くつきやうをとこだ、やまひ身體からだこはしたため腦髓なうずゐとろけてたのではないが、病毒びやうどく傳染でんせんしてわたしこゝろなかばはもうわたし自由じいうにならぬ。 これはペストよりわるい、ペストよりおそろしい。 ペストなら、まだ何處どこへかかくれるはふもある、なにかしら豫防法よばうはふほどここと出來できるが、遠近えんきんもなく、障隔へだてもなく、何處どこへでもとほ思想しさうにはかくれるみちがない[Pg 168]ではないか?

 ひるはまだしのげるが、よるになると、わたし人並ひとなみゆめやつこになつてしまふ、――そのゆめまたおそろしい狂氣染きちがひぢみたゆめで…

(斷篇第十三)

 いたところ私鬪しとうおこなはれて、無意味むいみおびたゞしくながす。 いさゝかの衝動しようどうにも無法むはふ腕力わんりよく沙汰ざたになつて、ナイフや石塊いしころ棍棒こんぼうひらめき、相手あひてかまはず手當てあた次第しだい打殺ぶちころす。 鮮血せんけつ兎角とかくほとばしりたがつて、なんもなく滾々こん〳〵ながれる。

 [Pg 169]その百姓ひやくしやうは六にんで、丸込たまごめしたぢうかたげたへいが三にん護送ごさうしてく。 みな如何いかにも百姓ひやくしやうじみた、粗末そまつな、野蠻人やばんじん髣髴はうふつたる、原始的げんしてき服裝ふくさうで、宛然まるで粘土ねばつちでツちたやうな別種べつしゆかほをして、かみひげもくしや〳〵とかたまつてむし毛物けもののやうで、それがさかゆる市街しがいを、紀律きりつたゞしい兵士へいし護送ごさうせられてところは、むかし奴隸どれいまのあたりにるやうだ。 みな戰地せんち召集せうしふせられてくので、銃劍ぢうけんにはてきず、屠所としよかれるうしのやうに、つみかほをしてキョトンとしてく。 最先まつさきくのは頰髭ほゝひげえぬ、たか若者わかもので、鵞鳥がてうのやうなひよろ[Pg 170]ながくびへ、ちひさなあたまゑてゐる。 枯枝かれえだのやうな身體からだ前屈まへこゞみにして、凝然ぢつ足元あしもと睇視みつめた目色めつき地中ちちう喰入くひいりさうだ。殿しんがりくのはひくい、ひげだらけの、年配ねんぱいをとこだつたが、もう反抗はんかうする氣力きりよくもないらしく、思慮しりよのない目色めつきをして、あし汲付すひつくのか、喰付くひつくのか、兎角とかくはなれかねて、烈風れつぷうむかつたやうに、そらしてく。 一うつすにも、兵士へいし背後うしろからぢう臺尻だいじり小突こづかれて、やツ片足かたあし引離ひきはなし、わな〳〵しながら踏出ふみだすけれど、片足かたあし附着くツついてゐて中々なか〳〵はなれない。 兵士へいしいやかほをして不機嫌ふきげんさうだ。 もうながいことうして[Pg 171]くらしく、ぢうかたげたふりにも、田舎漢ゐなかものらしく内輪うちわおもひ〳〵にある足取あしどりにも、困憊がツかりして萬事ばんじ抛遣なげやりにしてゐるところがある。 意味いみもなく、思切おもきわるく、だまつて百姓等ひやくしやうら反抗はんかうするので、紀律きりつかたまつたあたまぼツとなり、何處どこなんためくのか、もうわからなくなつたといふ樣子やうすだ。

何處どこれてくのです?」とわたしが一ばんはづれへいくと、そのへい愕然びくツとしてわたしかほた。 ギロリとしたするど目色めつきられたときには、まさしく銃劍ぢうけん突付つきつけられて、その切先きツさきむねへグサとさつたやうな氣持きもちがした。

[Pg 172]そばつちや不好いかん! 退け! 退かんと…」

 れい年配ねんぱいをとここの瞬間しゆんかんひまじようじて迯出にげだした。 チョコ〳〵と小走こばしりにはしつて、路端みちばたさく根方ねかたへ、かくれるつもりなのか、つぐなんだ。 しん動物どうぶつでも此樣こんとぼけた狂人染きちがひじみたことはすまい。 へいおほいいかつた。 つか〳〵とそばつてこゞむと、ぢう左手ゆんで持易もちかへるや、右手めてなにやはらかいひらたいものおとがピシャリとした。 またピシャリといふ。 ひと環集たかつてる。 わらこゑわめこゑがする…

(斷篇第十四)

 [Pg 173]土間どまの十一にた。 右左みぎひだりからだれうでだかにひたはさまれながら、周圍まはり見廻みまははすと、ズツとむかふまで一めんぢツゑたひとくび薄暗うすぐらなかならんでゐるのが、舞臺ぶたい火影ほかげけてぼツあかえる。 かうしたせまところ此樣こんなひとまつてゐるのをてゐると、次第しだいおそろしくなつてる。 みなだまつて舞臺ぶたい臺詞せりふいてゐる、――あるひなに餘所事よそごとかんがへてゐるのかもれぬが、多人數たにんずなので、だまつてゐても、俳優はいゝうおほきなこゑよりもきこえる。 せきをする、はなむ、衣摺きぬずれおとあし踏易ふみかへるおとがする。 ふかあら息氣いきづかひのおとさへ判然はツきりきこえたが、[Pg 174]この息氣いきづかひのため空氣くうき生溫なまあたゝくなるのだ。 かうしてゐるひとみな死人しにんになるときにはなる、みなあたまくるつてゐる、――とおもふと、彌竪よだつ。 丁寧ていねいとかしたあたましろかたいカラーのうへしかゑてなりしづめてゐるところに、狂氣きやうき暴風雨あらしいまにも吹起ふきおこりさうな氣味きみがある。

 隨分ずゐぶん人數にんずだつたが、これがみなおそろしい人逹ひとたちで、加之しかわたしところから出口でぐちまで餘程よほどある、――とおもふと、ゆびさきまでつめたくなつた。 みな落着おちついてゐるけれど、大聲おほごゑに、「火事くわじだ! …」といつたら…とおもふと、慄然ぞツとする。 薄氣味うすきびわるいけれど、[Pg 175]なんだかしきりにつてたくてたまらなくなる。 いまでも其時そのときこと憶出おもひだすと、ゆびさきまでつめたくなつて冷汗ひやあせる。 はうとおもへば、へんことはない。 起上たちあがつて、背後うしろ振向ふりむいて、大聲おほごゑういふのだ、

火事くわじだツ! にげろ〳〵、火事くわじだツ!」

 さうしたら、いま那麽あゝ落着おちついてゐる手足てあしきふ狂氣きやうき取付とりついてふるす。 みなをどあがり、さけし、畜生ちくしやうのやうに、たけつて、つま姉妹あねいもうと母親はゝおやるのもわすれて、不意ふい盲目めくらになつたやうに、彼方此方あちこち彷徨うろ〳〵し、そゞろになり、はて香水かうすゐかほり[Pg 176]たかいあのしろたがひ咽喉のど締出しめだす。 ぱツ塲内ぢやうないあかるくして、だれだか眞蒼まつさをかほをしたもの舞臺ぶたいからなんでもりません、火事くわじでもなんでもりませんとよばはると、おのゝくやうに斷續だんぞくした樂聲がくせい思切おもひきつてはなやかにおこるけれど、もう其樣そんものみゝものはない。 ドタバタとたがひ咽喉のどひ、あるひ婦人ふじんあたまつ、手數てすうけてたくみに結上ゆひあげたかみをポカ〳〵とつ。 たがひみゝ引捥ひンもぎり、はな喰缺くひかく。 衣服きものなに引裂ひきさかれて赤躶まるはだかになるけれど、くるつてゐるから、はぢはぢともおもはない。 平生ひごろ吾神わがかみあがめる、淚脆なみだもろい、やさしい、うつくしい婦人逹ふじんたち泣聲なきごゑ[Pg 177]て、足元あしもと便たよりないもだえ、かねての男氣をとこぎたのみにしてひざ縋付すがりつくのに、そのうつくしいかほげたところ忌々いま〳〵しさうに撲曲はりまげて、自分じぶん出口でぐちやうと焦心あせる。 をとこはいつでも人殺ひとごろしをりかねぬ。 その長閑のどか上品じやうひんめかしてゐるのは、しよくいた動物どうぶついのちかゝ大事だいじもないと安心あんしんして落着おちついてゐるのにぎぬ。

 で、見物けんぶつ半分はんぶん死骸しがいになつて、ぼろ〳〵した服裝なり人逹ひとたち一塊ひとかたまり、出口でぐちところにわな〳〵と、畜生ちくしやうはぢいたやうなかほをしてふるへながら、苦笑にがわらひをしてゐるときわたし舞臺ぶたいて、ういつてわら[Pg 178]てやるのだ。

「みんなわたしあにころしたむくひだとおもひなさい。」

 ね、かういつてわらつてやるのだ、

「みんなわたしあにころしたむくひだとおもひなさい。」

 なに大聲おほごゑわたし獨言ひとりごとつたとえて、此時このとき右隣みぎどなりのひと忌々いま〳〵しさうに身動みうごきをして、

「シッ! 邪魔じやまになつてきこえやしない。」

 わたし浮々うき〳〵する。 串戯ふざけてたくてたまらない。 事有ことありげな、生眞面目きまじめかほつくつて、其方そのはうつてくと、

なんです? 何故なぜ其樣そんなひとかほるのです?」

[Pg 179]其人そのひと胡亂うろんさうにく。

しづかに」、とわたしくちびるばかりをうごかしてさゝやく。

ひどくキナくさいでせう? 火事くわじですぜ。」

 者奴しやつ中々なか〳〵氣丈者しつかりもの分別ふんべつやつえて、こゑてなかつた。 さツと顏色かほいろへると、うし膀胱程ばうくわうほどおほきな眼球めだま飛出とびだしてほゝさがほどになつたけれど、それでもこゑてなかつた。 そつと起上たちあがつて、わたしにはれいはずに、わく〳〵して蹌踉よろけながら、それでもかずに出口でぐちはうく。 此中このなか迯出にげだしていのちたすかる價値ねうちるのは自分じぶんばかりと己惚うぬぼれて、ほかもの火事くわじいてその[Pg 180]迯路にげみちふさぐをおそれてゐたらしい。

 わたし氣色きしよくわるくなつてたから、矢張やはり芝居しばゐしまつた。 此處こゝ正體しやうたいあらはすのはまだはやいともおもつたので。 で、そと戰地せんち方角はうがくながめてみると、そらしんとして、火影ほかげうつよるくも長閑のどかしづかにたゞよつてゐる。 そらまちあましづかなのにだまされて、「みんなゆめで、戰爭せんさうなにるんぢやないのかもれん」、とわたしおもつた。

 が、曲角まがりかどから子供こども飛出とびだして、なんだかうれしさうに大聲おほごゑで、

「そーら滅茶苦茶めちやくちや大戰爭だいせんさう! 大變たいへん討死うちじにだい![Pg 181]電報でんぱうつておんな。 今夜こんや電報でんぱうだぜ。」

 街燈がいとう火影ほかげむでると、戰死せんし四千とある。 芝居しばゐ見物けんぶつだつて千以上いじやうかつたらう。 うちかへ途々みち〳〵も、四千の死骸しがい〳〵と、始終しじゆう其事そのことばかりをおもつてゐた。

 かうなると、ガランとしたうちはいるのが氣味きみわるい。 かぎあな押入おしいれて、なにはぬたひらなながめたばかりで、もうひとまぬ眞暗まツくら部屋へや々々〴〵のこらずこゝろうかぶ。 いま其中そのなかをキョロ〳〵しながら帽子ぼうしかぶつたもの一人ひとりとほところだ。 不知ふち案内あんない通路かよひぢではないけれど、まだ梯子段はしごだんのぼときから、マッ[Pg 182]チをつて、手燭てしよく見付みつけるまでとぼつゞけてゐた。 あに書齋しよさいへはもうかぬ。 書齋しよさい在形ありがたまゝ全然そツくりひた締切しめきつて、ぢやうおろしてある。 わたし食堂しよくだう引越ひツこしてゐたが、今夜こんやその食堂しよくだうるのだ。 食堂しよくだうはう居心ゐごゝろい。 話聲はなしごゑや、笑聲わらひごゑや、食器しよくきにぎやかなおとがまだ太氣中たいきちうこもつてさうにおもはれる。 時々とき〴〵かわいたペンさきのさら〳〵と紙上しゞやうはしおと判然はつきりきこえることもある。 寢臺ねだいよこになると…

(斷篇第十五)

 …にもかぬゆめだけれど、おそろしいゆめだ。 [Pg 183]さながらふたほねがれて、なうおほものもなく露出むきだしになつたやうに、物狂ものぐるほしい血羶ちなまぐさ今日けふ此頃このごろむごたらしさを、はせられるまゝんでくことをらぬ。 ちゞんでれば、は二アルシンをふさぐにぎぬけれど、こゝろ世界せかいをもつゝむ。 所有あらゆるひと所有あらゆるひとみゝき、戰死者せんししやともに、負傷ふしやうして置去おきざりにされたものともかなしみ、ひとながわたしいたみをかんじてなやむ。 ものまでもるやうに、とほものさへちか顯然まざ〳〵えて、さらしたなう苦痛くつう際限さいげんがない。

 子供こども々々〳〵ちいさな子供こども、まだつみらぬ子供こども

 [Pg 184]その子供等こどもら町中まちなか戰爭さんさうごツこをして、ひつはれつしてゐるうちに、だれだかほそをさないこゑでもうものがある。 わたしおそろしさもおそろしく、いやいや氣持きもちになつて、なにむねをどるやうにおぼえた。 うちかへれば、よるになつて、夜火事よくわじのやうにえるゆめに、このいたいげなつみ子供等こどもらが、ちひさな人殺ひとごろろしの惡黨あくたうむれになつたとた。

 なんだか眞赤まツかふと火焰くわえんげて物凄ものすごえるけむりうちに、くび大人おとなの、加之しか惡黨あくたうらしく、どう不具かたは子供こども變化へんぐゑらしいものうごめく。 山羊やぎたはむれるやうに、身輕みがろくピョン〳〵跳廻はねまはつてゐるくせに、[Pg 185]病人びやうにんのやうなくるしさうな息氣いきづかひをする。 ひきかへるのそれにくちを、パクリといてはわなゝかせ、躶身はだかみ透徹すきとほるやうな皮越かはごしにあかながれるのがえて、その子供等こどもらあそたはむれながら、ちつたれつする。 ちひさくて何處どこへでももぐむから、此程これほど無氣味ぶきみものわたしかつことがない。

 わたしまどからのぞいてゐるのを、ちひさい一人ひとりみとめるや、莞爾にツこりして、うちはいりたさうな目色めつきをしながら、

其處そこくよ。」

たら取殺とりころすだらう?」

[Pg 186]其處そこくよ。」

 たちまさツ顏色かほいろへて、白壁しらかべ攀登よぢのぼところ宛然まるでねずみだ、えたねずみだ。 ちてチゝとく、またちよこちよことかべはしる。 その變化へんくわはげしいこと、あはただしいこと、まよふばかりだ。

 したからなら、もぐめる、――とおもつてわたし慄然ぞツとすると、さうおもひとこゝろむだやうに、ねずみ細長ほそながくして、尻尾しツぽさきをひらめかしながら、表口おもてぐちしたくら隙間すきまもぐむ。 わたし夜着よぎかぶつてかくれてゐると、ちひさなやつちひさな素足すあしおとぬすみ〳〵、くら部屋へや々々〴〵たづまはおとがす[Pg 187]る。 そろり〳〵と、躇躊ためらひがちに、わたし部屋へやしのつて、つひなか這入はいつてたが、それぎりしばらくはガサともゴソともはないから、寢臺ねだいそばなにやうともおもへぬ。 たちまだれだかちひさな夜着よぎはしくるものがある。 室内しつないつめたいがヒヤリとかほれ、むねれる。 わたしはしかと夜着よぎおさへてゐたが、夜着よぎ止度とめどなく其處そこぢうからめくれて、あしみづへでもつかつたやうに、きふつめたくなる。 やが兩足りやうあしともつめたいくら部屋へやなか便たよりなくよこたはれば、ねずみはそれをながめてゐる。

 かべ一重ひとゑへだてゝにはいぬ啼聲なきごゑがして、トむと、[Pg 188]くさりのぢやら〳〵といふおとがして、いぬ小舎こやもぐむだやうだ。 ねずみだまつてわたし素足すあしながめてゐる。 それがそばるのはおのづかれる。 たまらなくおそろしくて、死神しにがみ抱窘だきすくめられたやうに、身體からだすくみ、いしはかなんぞのやうに、ぢツうごかなくなるにつけても、それはれるが、大聲おほごゑてること出來できたら、わたし此市このまちどころか、世界中せかいぢう呼覺よびさましたかもれん。 たゞこゑ中途ちうと立消たちぎえをしてぬので、大人おとなしく凝然ぢツとしてゐたが、ちひさいつめたい手先てさきがむづ〳〵と身體中からだぢう這廻はひまはつて、咽喉元のどもとせまる。

[Pg 189]たまらん!」と片息かたいきになつて、わめいてまたゝさます。 深々しん〳〵としてれいあるがごとく、くらくてもえたが、わたしまた眠入ねいつたらしかつた…

なに心配しんぱいすることはないよ」、とあに寢臺ねだいはしこしおろした。 亡者もうじやでもおもたくて、寢臺ねだいがギシ〳〵といふ。 「なに心配しんぱいすることはない。 みなゆめだ。 咽喉のどめられるやうながするので、おまへじつだれない眞暗まつくら部屋へやでグッスリ寢込ねこんでるのだ。 ね、わたし書齋しよさいいてるのだ。 なにいてるのか一こうらんもんだから、お前方まへがたわたし狂人きちがひあつかひにして失禮しつれい眞似まねをしてゐるけれど、もううなりや打明うちあ[Pg 190]けやう。 わたしじつあかわらひのこといてるのだ。 おまへえるか?」

 なにやらおほきな眞紅まツかだらけのものわたしうへかぶさつて、のない口元くちもとでゲタリとわらつてゐる。

「これがあかわらひだ。 地球ちきう狂氣きちがひになると、かういふ笑方わらひかたをするものだ。 おまへつてるだらう、地球ちきうちがつたことは? もうはなうたもなくなつて、地球ちきうまるい、すべツこい、眞紅まツかな、かはいたあたまのやうなものになつてしまつた。 えるか?」

えます。 いまわらつてます。」

地球ちきう腦髓なうずゐがえらいことになつてしまつたから、[Pg 191]ごらん眞紅まツかなところはかゆとでもひさうだ。 滅茶々々めつちや〳〵になつてしまつた。」

なにわめいてる。」

いたいのだ。 もうはなうたもないからな。 さあ、おれがおまへうへつかるぞ!」

つかつちや、おもたい、氣味きみわるい。」

んだものなら、きてるものうへのツかるべきはずだ。あツたかいだらう?」

あツたかです。」

心持こゝろもちか?」

にさうだ。」

[Pg 192]さましてワッといへ。さましてワッと。 おれはもうく…」

(斷篇第十六)

 戰鬪せんとうはじまつてから、もう八日目かめになる。 すぐしう金曜きんえうはじまつて、土曜どえう日曜にちえう月曜げつえう火曜くわえう水曜すゐえう木曜もくえうぎて、また金曜きんえうそれぎたが、まだ戰鬪せんとうまぬ。 兩軍りやうぐん兵數へいすうまん、それが相對あひたいして一退かずに、すさまじいおとてゝ、息氣いきをもがず破裂彈はれつだんふので、刻々こく〳〵生人せいにん死人しにんになつてく。 段々だん〳〵轟々ごう〳〵えず空氣くうきゆす[Pg 193]その砲聲はうせいに、そら動搖どよんで眞黑まツくろ夕立雲ゆうだちぐもび、雷霆らいていあたまうへはためくけれど、てき味方みかた此處こゝ先途せんどちつたれつしてゐる。 ひとは三晝夜ちうやねむらんと、やまひものおぼえぬやうになるといふのに、してこれはもう一週間しうかんねむらずにるのだから、みな狂氣きちがひになつてゐる。 であるから、くるしいともおもはない、退かうともしない、一人ひとりのこらず討死うちじにしてしままでは、奮鬪ふんとうせんとするのだ。 風聞ふうぶんると、某隊ぼうたいでは彈藥だんやくきて、いしひ、こぶしひ、いぬのやうにつたとふ。 この戰鬪せんとう參加者さんかしや生還せいくわんするものがあつたら、おほかみのやうにきば[Pg 194]えてゐやうも知れぬが、おそらく生還者せいくわんしやるまい、みなくるつてゐるから、一人ひとりのこらず討死うちじにしてしまはう。 みなくるつてゐる。 あたまなか顚倒てんたふしてなにわからなくなつてるから、きふにグルッと方向むきへさせられたら、てきおもつて味方みかた發砲はつぱうしかねまいとおもはれる。

 奇怪きくわいうはさがある…奇怪きくわいうはさで、おそろしくもあるし、ことでないとむしらせたから、みなあをくなつて、ひそ〳〵とさゝやく。 あゝ、あにかせたい、みなあかわらひうはさだ。 けば、まぼろしの部隊ぶたいあらはれたとふ。 いづれもなにから何迄なにまで生人せいじんちつともちがはぬ[Pg 195]亡者もうじや集團しふだんだ。 くるつた人逹ひとたち霎時しばしゆめむすときひるれた黃泉よみくもたゝかひ眞最中まツさいちうに、忽然こつぜんあらはれて、まぼろしのはう發砲はつぱうして、あやしの砲聲はうせいそらゆすると、きてはゐるが、くるつた人逹ひとたちが、こと不意ふいなのにうしなつて、死物狂しにものぐるひにそのまぼろしのてきたゝかひ、おそれて取逆上とりのぼせて、一しゆん白髮しらがになり、紛々ふんぷんんでく。 まぼろしのてき忽然こつぜんとしてあらはれて、また忽然こつぜんとしてせる。 と、寂然しんとなつたあとれば、散々さん〴〵かたちそこなはれたまだ生々なま〳〵しい死骸しがいが、狼藉らうぜき地上ちじやうよこたはつてゐる。 てきはたして何者なにものだつた[Pg 196]らう? てきはたして何者なにものだつたかを、わたしあにつてゐるはずだ。

 二度目どめ戰鬪せんとうをはつて、四下あたり寂然ひツそりとなる。 てき遠方ゑんぱうだ。 それだのに、闇夜やみよ突然とつぜんドンと一ぱつおびえたやうな筒音つゝおとがする。 それツと跳起はねおきて、みな暗黑くらやみなか發砲はつぱうする、――しばらく、何時間なんじかんといふあひだしんとして音沙汰おとさたのない暗黑くらやみなか發砲はつぱうする。 暗中あんちうなにみとめたのか? おそろしくも物狂ものぐるほしい無言むごん姿すがたげんした無氣味ぶきびものそもそ何者なにものだ? これつてるものあにわたしとだけで、まだほかひとらない、たゞかんずるだけはかんじてるとえて、あをくなつて此樣こんことをいふ、「如何どうして狂人きちがひおほいの[Pg 197]でせう? 此樣こんなに澤山たくさん狂人きちがひつたことはまだいたことがない。」

此樣こんなに澤山たくさん狂人きちがひつたこといたことがない」といつて、みなあをくなる。 いまむかしかはらぬとおもつてたいのだ。 あまねひと良智りやうち無理むりおさへてちから銘々めい〳〵果敢あへないあたまうへへはおよばぬとおもつてゐたいのだ。

むかしだつて、何時いつだつて、戰爭せんさうはあつた、しかしかつ此樣こんことはない。 戰爭せんさう生存せいそん理法りはふだ」、とういつてみなすまして落着おちついてゐるけれど、其癖そのくせみなあをくなつてゐる、みな醫者いしやさがしてゐる、みな狼狽うろた[Pg 198]へたこゑで、みづを、はやみづを、とさけんでゐる。

 ひとみなうちうご良智りやうちこゑくまいとして、無意味むいみことあらそけてその分別ふんべつにぶくのをわすれやうとして、ならば白痴たはけになりたいとおもふ。 戰地せんちでは刻々こく〳〵ひと今日けふ此頃このごろわたし如何どうしても安閑あんかんとしてゐられぬから、其處そこぢう世間せけん駈廻かけまはつて、ひとはなし隨分ずゐぶんいた、なに、戰爭せんさう遠方ゑんぱうだ、我々われ〳〵には關係くわんけいはないといつて、故意わざとらしく微笑びせうするひとかほ隨分ずゐぶんた。 が、それよりもおほ出逢であつたのは、虛飾きよしよくつた眞實しんじつ恐怖きようふである。 心細こゝろぼそにがなみだである、「この狂暴きやうばう殺戮さつりくはいつめるの[Pg 199]だ!」といふ、絕望ぜつばう物狂ものぐるほしい叫聲さけびごゑである。 ひとおほいなる良智りやうちちから一杯いつぱいはらわたしぼられて、最後さいご祈禱きたう最後さいご呪咀じゆそとなときこの叫聲さけびごゑはつする。

 ひさしいこと、あるひ數年すうねんになるかもれぬが、足踏あしぶみしなかつた去方さるかたで、狂氣きやうきになつて後送こうさうせられた一將校しやうかう出逢であつた。 同窓どうさうともだのに、わたし見違みちがへたくらゐで、みのはゝさへわからなかつたとふ。 一ねん墳穴つかあなうまつてゐてふたゝ此世このよたとて、かうはあるまいとおもはれるほどかはやうで、あたましろく、まつたしろくなつてしまつてゐた。 面貌かほだちあまかはつてもゐなかつたが、だまつて聽耳きゝみゝてゝゐるその[Pg 200]かほつき世離よばなれして、人間にんげんとは緣遠えんどほおそろしげなので、言葉ことばけるさへ無氣味ぶきびになる。 如何どうしてちがつたのだといふと、親戚しんせき聞込きゝこんだところでは、かれたい豫備隊よびたいとなつて、となりの聯隊れんたい突貫とつくわんしたことがある。 大勢おほぜいけながら、ウラー、ウラーとわめく。 大聲おほごゑわめくので、ほとん銃聲じうせいきこえなくなつたほどだつたが、其中そのうちにふと銃聲じうせいむ、――ウラーがむ。 寂然しんはかごとしづかになつたのは、てき陣地ぢんちはしいて、彌〻いよ〳〵白兵戰はくへいせんはじまつたのだ。 かれ此時このとき寂然しんとなつたのにへなかつたのだとふ。

 いまではそばはなしをしたり、さけんだり、さわいだりし[Pg 201]てゐると、落着おちついて聽耳きゝみゝてゝなにかのきこえるのをつてゐるが、一寸ちよツとでもしづかになると、われ我頭わがあたまむしりつくやら、かべ家具かぐ駈上かけあがらうとするやら、癲癇てんかんめいた發作ほつさおこして藻搔もがく。 親戚しんせきおほいので、其等それらかはる〴〵病人びやうにん取卷とりまいてさわいでやつてゐるが、それでもよるがある、ながおとのせぬよるがあるから、父親ちゝおやよる引受ひきうける。 これも矢張やツぱり白髮しらがあたますこへん親仁おやぢだが、チクタクのおとたか時計とけいいくつとなくかべ掛連かけつらねて、たがひちがひに間斷しツきりなくときたせてゐたが、近頃ちかごろではえずパチパチといふやうなおと仕掛しかけてゐるさう[Pg 202]な。 まだ二十七だから、全快ぜんくわいするとおもつて、のぞみ將來しやうらいけてゐるから、いまでは家内かないむし陽氣やうきである。 軍服ぐんぷくせないが、瀟洒さつぱりした服裝なりをさせて、ともなくないやうにいてやるから、白髮しらがでこそあれ、面相かほだちはまだ若々わか〳〵しく、擧動きよどうちからけたやうに悠然ゆツたりひんく、物思ものおもがほぢツ注意ちういしてゐるかたちむしうつくしい。

 始終しじうはなしいて、わたしそばつて、そのをとこ蒼白あをじろい、え〳〵とした、もうやいば揮翳ふりかざすこともないはず接吻せつぷんしたが、これにはたれそばだてるものもなかつた。 たゞともわかいもうと微笑びせうふくむで[Pg 203]わたしたばかりだつたが、それからはそのむすめが、許嫁いひなづけでもあるやうに、わたしあと追廻おひまはして、此世このよ掛易かけがへのないをとこのやうにわたししたふ。 あましたはれるので、わたし不覺つい眞暗まツくらなガランとしたうちに、獨居ひとりゐよりもいやおもひをしてゐることはなさうとしたほどだつたが、ひとこゝろといふものは愛想あいそきるものだ。 何時いつだつて絕望ぜつばうしてゐることはない。 むすめはからひで差向さしむかひになつたとき其人そのひとやさしく、

「まあ、貴方あなたのお顏色かほいろわるいこと! した出來できてますよ。お加減かげんでもわるいのですか? それともお兄樣あにいさまがお可哀かわいさうでならないの?」

[Pg 204]あにばかりぢやない、人間にんげんみな可哀かわいさうです。 もツとすこ加減かげんわるいが…」

あた貴方あなたあに接吻せつぷんなすつたわけつてますよ、――みんなかなかつたやうですけど。 あの、なんでせう、あに狂氣きちがひだから、それでゞせう?」

「さうです。 狂氣きちがひだから、それでゞす。」

 むすめぢツ思案しあんしづむ、――その樣子やうすあに酷肖そツくりであつた、――たゞ逈然ずツわかいばかりで。

あたし」、とむすめ言淀いひよどむでサツと赤面せきめんしたが、伏目ふしめにもならないで、「あた貴方あなたのお接吻せツぷんしたいわ。 [Pg 205]ゆるしてくだすつて?」

 わたしむすめまへひざいて、

祝福ブレツスしてください。」

 むすめいさゝ顏色がんしよくへていたが、くちびるばかりでさゝやくのをくと、

あた信者しんじやぢやないわ。」

わたしだつてもそれはうだ。」

 むすめ一寸ちよツとわたしあたまれた。 それがむと、

あた戰地せんちつてよ。」

「それもいでせう。しかし到底とてへられまい。」

[Pg 206]「それは如何どうだかれないけど、だつて貴方あなたあにうだけど、戰地せんちひとだつて打遣うツちやつてわけにはきますまい? つみなにもない人逹ひとたちですもの。 貴方あなたわたしわすれちやくださらない?」

けツして。貴孃あなたは?」

あたしもそんなら、御機嫌ごきげんよう!」

「もう二とはおかゝれまい。 御機嫌ごきげんよう!」

 にも狂氣きやうきにももつとおそるべきところがある、――それをわたし經過けいくわしたやうな心持こゝろもちがして、ホッとした。 落着おちついた。 ひさぶり昨日きのふは、おそろしいともなんともおもはず、平氣へいきうちはいつて、あに書齋しよさい[Pg 207]けて、そのかたみつくえたいして、しばらく椅子ゐすつてゐた。 夜中よなかにドンとなにかにかれたやうな心持こゝろもちでふとさますと、かわいたペンさき紙上しじやうはしおとがしたが、わたしおどろかなかつた。 ほとん微笑びせうせぬばかりの心持こゝろもちになつて、こゝろうちで、

澤山たんときなさい。 ペンもかわいたのぢやない、――生々なま〳〵しい人間にんげん血潮ちしほふくんでゐる。 原稿げんかう白紙はくしのやうにえやうが、其方そのはうむしい。 なにいてないだけに無氣味ぶきみで、聰明さうめい人逹ひとたち種々いろんこと書立かきたてるよりも、戰爭せんさう理性りせいいておほくをかたる。 おきなさい、〳〵、澤山たんときなさい。」

 [Pg 208]今朝けさ新聞しんぶんむでると、まだ戰闘せんとうまぬので、わたしはまた薄氣味惡うすきみわるくなつてて、こゝろ落居おちゐず、宛然さながらなうなかなにかガタリとちたやうな心持こゝろもちがした。 そのなにかゞむかふからる、ちかくなる、――もうガランとあかるいうち敷居しきゐつてゐる。 あゝ、ひとなつかしい、何卒どうぞわたしことわすれてれるな。 わたしちがひさうだ。 戰死せんしまん戰死せんしまん

(斷篇第十七)

 …市内しないなんとなく血羶ちなまぐさい。 判然はつきりしたことわからぬけれど、なんだかおそろしいうはさがある…

[Pg 209]

(斷篇第十八)

 今朝けさ新聞しんぶんると、澤山たくさん戰死者せんししや姓名せいめいてゐるなかで、一人ひとりつた名前なまへがある。 それはわたしいもうと許嫁いひなづけの一將校しやうかうで、亡兄ばうけいと一しよ召集せうしふされたひとだ。 一時間後じかんご配逹夫はいたつふ投込なげこんでつた手紙てがみると、あにてたもので、表書うはがき書風しよふうわかつたが、その戰死せんししたいもうと許嫁いひなづけからたのだ。 死人しにん死人しにん手紙てがみ寄越よこしたのだ。 けれども死人しにんきてるひと文通ぶんつうしたよりまだましだ。 これはわたしげんつた婦人ふじんうへだが、その息子むすこ砲彈はうだん粉韲ふんさいされ[Pg 210]無殘むざん最後さいごげたのを新聞しんぶんつてから、まる一ケげつあひだ每日まいにちその息子むすこから手紙てがみる。 しほらしい息子むすこで、手紙てがみにはいつもやさしいこといてはゝなぐさめて、なに幸福かうふくのぞみありわか愛度氣あどけないことばかりつて寄越よこす。 此世このよひとではないけれど、これが惡魔あくま几帳面きちやうめんといふものか、每日まいにちがさず此世このよこといて寄越よこすから、母親はゝおやつひせがれ戰死せんししたのでないとおもした。 が、ふと音信おとづれえてから、一にち二日ふつか三日みつかぎ、それからも死默しもくつて、何時迄いつまでつても音沙汰おとさたがないので、母親はゝおや兩手りやうて古風こふう大形おほがたのピストルを取上とりあげて、[Pg 211]むねたま打込うちこんだとふ。 たすかつたやうにもいふが、わたしくはらぬ。 判然はつきりしたことかずにしまつた。

 わたししばらく封筒ふうとうながめてゐたが、かんがへてると、この封筒ふうとうかつ故人こじんれたことがあるのだ。 何處どこでかこれはうとして、ぜにたせて從卒じゆうそつを、何處どこかのみせつたのだ。 故人こじんこの手紙てがみふうをしてから、あるひ自分じぶんでポストへれたかもれぬ。 で、郵便いうびんといふ複雜ふくざつ機關きくわん運轉うんてんして、手紙てがみもり市街しがい餘所よそて、只管ひたすら目的地もくてきちしてはしる。 最後さいごあさ手紙てがみぬし長靴ながぐつ穿いた[Pg 212]とき手紙てがみはしつてゐた。 ぬし戰死せんししたときにも、手紙てがみはしつてゐた。 ぬしあな投込なげこまれて死骸しがいつちしたになつたときにも、消印けしいんびた灰色はいゝろ封筒ふうとうなかしのばせて、れいあるまぼろしごとく、手紙てがみもり市街しがい餘所よそつゝはしつて、かうしていまわたし手中しゆちうるのだ。

 手紙てがみ文句もんくしもとほり。 鉛筆えんぴつ幾片いくひらかのかみ切端きれはしいたもので、結末けつまついてゐない。 なに邪魔じやまはいつたものとえる。

⦅…いまとなつてはじめ戰爭せんさうおほいたのしむべき所以ゆえんつた。 利口りこうな、狡猾かうくわつな、裏表うらおもてのある、肉食にくしよく動物どうぶつ[Pg 213]ちう肉食にくしよく動物どうぶつより、はるかにあぢのある人間にんげんといふやつをころたのしみは、古風こふう原始的げんしてきたのしみで、鎭長とこしなへひと生命せいめいうばふといふことは、行星かうせいなんぞをげてテニスをるよりも、愉快ゆくわいなものだ。 きみあはれだ。 ぼくきみ僕等ぼくらともることをずして、無味むみ平凡へいぼんおくつて、無聊むりようくるしむうへになつたのをかなしむ。 きみ高尙かいしやう精神せいしんから、やすきをぬすんでられずして、ながもとめたところのものは、死地しちはいつてのちはじめられる。 ふといふこと、比喩ひゆやゝふるめかしいが、眞實しんじつかへつ這裏しやりる。 僕等ぼくらひざまでり、この赤葡萄酒あかぶだうしゆつて[Pg 214]チロ〳〵になつてゐる。 赤葡萄酒あかぶだうしゆとは名譽めいよあるぼく部下ぶかへいたはむれにめいじただ。 ひと生血いきちむといふ風習ふうしふは、ひとおもほど馬鹿氣ばかげたものではない。 古人こじん承知しようちしてつたことだ…⦆

⦅…からすいてゐる。 きみきこえるか、からすいてゐるぞ。 何處どこから此樣こんなんでたのだらう! そらくろほどだ。 天下てんか可畏物こはいものなしの僕等ぼくらならんで、からす宿とまつてゐる。 何處どこつてもいてる。 いつも僕等ぼくらあたまうへるから、くろレースのかさしてゐるやうで、またくろうごかげるやうだ。 一ぼくかほそばつゝつかうとした。 [Pg 215]きやつぼく死人しにん間違まちがへたのだらう。 からすいてゐる、すこになる。 何處どこから此樣こんなにんでたのだらう?⦆

⦅…昨夜ゆうべ僕等ぼくら睡耋ねぼけたてき鏖殺みなごろしにした。 かも仕留しとめるときのやうに、そつと、足音あしおとぬすんで、うまく、用心ようじんしてつてつたから、死骸しがいに一つつまづかず、とりたせなかつた。 幽靈いうれいのやうに、しのんでく、それをまたよるかくしてれる。 哨兵せうへいぼく片付かたづけてやつた、突倒つきたふしていて、こゑてぬやうに咽喉のどめたのだ。 すこしでもこゑてられたら、百年目ねんめだからなあ、きみ。 しかしこゑてなかつた。 [Pg 216]ころされるとおもつてゐるひまかつたやうだ。

 かゞりがぷす〳〵いぶつてゐる。 てき其側そのそばてゐた。 我家わがや寢臺ねだいたやうに、安心あんしんしててゐた。 其處そこ僕等ぼくらは一時間餘じかんよほふつたのだ。 らぬうちさましたのは幾人いくたりもなかつたが其樣そん奴等やつら悲鳴ひめいげて、無論むろんゆるしてれといつた。 喰付くひつきもした。 一人ひとりやつなんぞ、ぼくあたま引摑ひツつかむと、つかみやうがわるかつたので、ひだりゆびりをつた。 ゆびみ切られたが、其代そのかは見事みごとくび引捻ひンねぢつてやつた。 如何どうだ、きみ、これなら帳消ちやうけしになるまいか?いや、みな眠込ねこんでやがつたよ! ほね[Pg 217]れば、ポキンといふな、にくれば、ザクッといふのだ。 それから丸裸まるはだかにしていて、お四季施しきせ分配ぶんぱいをやつたが、きみ串戯じやうだんいふとおもつておこつちや不好いけないぜ。 きみ六かしいから、それぢや野武士臭のぶしくさいといふかもれんが、仕方しかたがないさ。 僕等ぼくらだつてほとんはだかだもの。 全然すツかり着切きゝつてしまつたのだ。 ぼくうからなんだかをんな上衣うはぎのやうなものてゐるのだ。 これぢや常勝軍じやうしようぐん將校しやうかうぢやなくて、なにかのやうだ。

 それはさうと、きみ結婚けつこんしたやうだつたな?それぢや、此樣こん手紙てがみちや、わるかつたらう。 しか[Pg 218]し…なあ、きみをんなかぎるぞ。 えい、くそぼくだつて靑年せいねんだ、こひかつしてゐるンだ!おツと――きみにも約束やくそくしたをんなが有つたつけな?きみ何處どこかの令孃れいぢやう寫眞しやしんぼくせて、これがぼく婚約こんやくしたをんなだとつたことがあるぜ。 寫眞しやしんにはなんだかかなしい、非常ひじやうかなしい、あはれなこといてあつたつけ。 さうしてきみいたぜ。 なにいたのだつけな? なんでも非常ひじやうかなしい、非常ひじやうあはれな、ちひさなはなのやうなこといてあつたつけが、なんだつけな? きみいたぜ、――いて〳〵、てたぜ… みツともない、將校しやうかうくせくなんて!⦆

[Pg 219]⦅…からすいてゐる。 きみきこえるだらう?からすいてるぞ。 なんだつて彼樣あんなくのだらう?…⦆

 此後このあと鉛筆えんぴつあとえてゐて、署名しよめいめかねた。

******

 不思議ふしぎだ。 此人このひと戰死せんししたのがれても、わたしちつともあはれとおもはなかつた。 かほ憶出おもひだすと、判然はツきりうかぶ。 やさしい、しほらしい、をんなのやうな面相かほだちで、ほゝ桃色もゝいろ眼中がんちうすゞしく、あさごといさぎよくて、ひげやはらかなむくで、これならをんなかほかざりにもなりさうにおもはれた。 書物しよもつや、はなや、音樂おんがくこのみ、すべ[Pg 220]粗暴そぼうこときらひで、などつくつてゐた。 批評家ひゝやうかあに中々なか〳〵たくみだといつてたくらゐだ。 が、このひとについてわたしつてゐるところおもしたのでは、どうもこの鴉啼からすなきや、夜襲やしううみや、調和てうわせぬ。

 …からすいてゐる…

 ふツと、またゝ調子てうしはづれのなんともひやうもないうれしい心持こゝろもちになつてみると、今迄いまゝでことみなうそで、戰爭せんさうないりはせん。 戰死者せんししやもなければ、死骸しがいもない。 思想しさう根底こんていゆるいで便たよりなくなるなぞと、其樣そんおそろしいことるのではない。 わたし仰向あふむけて、子供こどものやうにおそろしいゆめてゐる[Pg 221]のだ。 恐怖きようふあらされて寂然しんとなつた無氣味ぶきび部屋々々へや〳〵も、ひといたものともおもへぬ手紙てがみつたわたしも、みなゆめだ。 あにきてゐて、家内かないものみなちやむでゐる。 茶器ちやきものれておときこえる。

 …からすいてゐる…

 いや、矢張やはり事實じじつだ。 不幸ふかうなか――それが事實じじつではるまいか? からすいてゐる。 理性りせいうしなつた狂人きやうじんや、無事ぶじくるしむ文士ぶんしなどが、安直あんちよくもとめておもいた空言そらごとではない。 からすいてゐる。 あに何處どこるか。 氣品きひんたかい、溫順おんじゆんな、だれ[Pg 222]にも迷惑めいわくけまいと心掛こゝろがけてゐたひとだ。 あに何處どこる? さあ、忌々いま〳〵しい解死人げしにんめら、返事へんじをしろ! のろつてもらぬ惡黨あくとうめら、牛馬ぎうば屍肉しにくたかつたからすめら、なさけない愚鈍ぐどん畜生ちくしやうめら、――さあ、手前逹てまへたち畜生ちくしやうだ、――世界せかいひと面前めんぜん手前逹てまへたちいてるのだぞ! 何咎なにとがあつてあにころした?手前逹てまへたちかほがあるなら、頰打ほゝうちはしてやるところだが、手前逹てまへたちにはかほはない。 手前逹てまへたちのそれは肉食動物にくしよくどうぶつ鼻面はなづらといふものだ。 人間にんげんふうをしてゐても、手套てぶくろしたからつめえるでないか? 帽子ばうししたから畜生ちくしやうのひしやげた惱天なうてんえるでないか? いく[Pg 223]りこうさうなくちいても、手前逹てまへたちことには狂氣きちがひじみたところがあるわ。 繍錠さびぢやうのぢやら〳〵いふおとがするわ。 おれおれかなしみ、うれひ、侮辱ぶじよくせられた思想しさうちから有丈ありたけつくして、手前逹てまへたちのろふぞ、このなさけない愚鈍ぐどん畜生ちくしやうめら!

(最後の斷片)

「…生存上せいぞんじやう新生面しんせいめんひらくのは諸君しよくん任務にんむであります、」と辯士べんしさけむだ。 此人このひとは「戰爭せんさうめよ」といた文字もじしわでよれ〳〵になつたはたりながら、釣合つりあひつて、からうじてちひさな圓柱ゑんちううへ[Pg 224]つてるのだ。

諸君しよくん靑年せいねんである、諸君しよくん未來みらい生活せいくわつすべきひとである。 よろしくかくごと狂暴きやうばう慘酷ざんこくなること關係くわんけいつて、つて自己じこ生命せいめいたもつべきである。 未來みらい國民こくみんたね保全ほぜんすべきである、我々われ〳〵今日こんにち慘狀さんじやうるにしのびぬ。 これ目擊もくげきしては眼中がんちう血走ちばしるをきんぜぬ。 じつてん頭上づじやう落懸おちかゝ大地たいち足下そつかけるやうなかんがある。 諸君しよくん…」

 此時このとき群衆ぐんじゆ尋常ただならぬ動搖どよみつくつたので、辯士べんしこゑそれ消壓けおされてひとしきりきこえなくなつたが、まことたましひでもこもつてさうな、物凄ものすご動搖どよみであつた。

[Pg 225]りに我輩わがはいくるつてゐるとするも、我輩わがはいところ眞理しんりである。 我輩わがはいにはちゝがあり兄弟きやうだいがあるが、みな戰塲せんぢやう牛馬ぎうばしかばねごと腐敗ふはいしつゝある。 よろしくかゞりいて、あなつて、武器ぶき鑄潰いつぶしてめてしまふがい、軍人ぐんじんとらへてそのさんたる狂氣服きちがひふくいで、寸裂すんれつしてしまふがい。 我々われ〳〵最早もはやしのぶことが出來できぬ… 同類どうるゐにつゝあるのである…」

 トふところを、だれだか、なんでもたかをとこだつたが、撲飛はりとばしたので、辯士べんしがころ〳〵ところちる、はたさつとまたひるがへつて、またたふれる。 あと[Pg 226]紛々ごた〳〵となつてしまつたので、辯士べんし撲飛はりとばしたやつかほをツイみとめるひまもなかつた。 にはかに其處そこぢうみなうごして、揉合もみあひ、ひ、かへし、わめさけぶ。 石塊いしころ棍棒こんばうくうび、だれこぶしだか頭上づじやうひらめく。 群衆ぐんじゆれいあるなみほゆごとたけつて、わたしちう釣上つりあげたまゝ、數步すうほほかはこんでき、いやとほど垣根かきね打付ぶツつけて、また後戾あともどりして今度こんどはあらぬかたれ、到頭たうとうたかまき積上つみあげたのに推付おしつけてしまつたので、げたまきかしいで、あはや頭上づじやうくづちさうになる。 なにかパチ〳〵とはしやいだおとしきりにして、材木ざいもくにパラ〳〵とあた[Pg 227]ものがある。 と、しづまる――かとすると、またさらにワッとふ。 鰐口わにぐちいてさけぶやうな、ふとおほきなこゑで、人間にんげんばなれしてゐて物凄ものすごい。 またパチ〳〵とはしやいだおとがする。 たれだかそばたふれたから、るとところ眞紅まつかあなが二ツ洞開ほげて、滾々ごぼ〴〵ながれてる。 此時このときおもたい棍棒こんばうがブンとくうつてて、其端そのさきかほあたると、わたしころげたから、踏躪ふみにじあしあひだ無闇むやみ這脫はひぬけて空地くうちた。 それから何處どこかの垣根かきねえて、一つのこらずつめはがして、まき幾側いくかは積上つみあげたのへのぼつた。 なかで一かはからだおもみにくづれたのがつたので、わたくしはグヮラ〳〵[Pg 228]飛散とびちまき一緒いつしよ消飛けしとんで、四角しかくあなのやうななかちたが、からうじて其處そこ這出はひでると、轟々ぐわう〴〵パチ〳〵ワッとおとうしろから追蒐おひかけてる。 何處どこでか半鐘なんしやうる。 五階ごかいたていへでもくづれたやうな、おそろしいおときこえる。 黄昏たそがれ凝付こりついたやうに、中々なか〳〵よる景色けしきにならず、彼方かなた銃聲ぢうせい叫喚けうくわんこゑあかいろづいて夕闇ゆふやみあとへ〳〵押戾おしもどしたやうなおもむきがある。 最後さいごかき飛降とびおりると、其處そこはめくらかべ左右さいうしきられた、廊下らうかのやうな、まがくねつたせま橫町よこちやうわたくし其處そこ駈出かけだした。 しばらくけてつてたが、つんぼ橫町よこちやうで、行止ゆきどまりは垣根かきねそのむかうには[Pg 229]またまき材木ざいもくむだのが黑々くろ〴〵える。 で、まためばくづれて踏應ふみごたへのない嵩高かさだか積薪つみまき攀登よぢのぼつてはなんだか寂然しんとして生木なまきにほひのする井戶ゐどのやうなところち、ちてはまた這上はひあがつてゐたが、どうもうしろ振向ふりむいてになれない。 また朦朧ぼんやり薄赤うすあかかげして、くろずんだ材木ざいもく巨人きよじん亡骸むくろのやうにえるから、いてんでも、大抵たいてい樣子やうすれてゐる。 もうかほきず出血しゆつけつまつたが、かほ無感覚ばかになつて、わがかほのやうにはおもはれず、宛然さながら石膏せつかう細工ざいくめんかぶつてゐるやうな心持こゝろもちがする。 やがて眞闇まツくらあなちたときとほくなつてつひ正體しやうたい[Pg 230]うしなつたやうにもおもふが、しん正體しやうたいうしなつたのか、うしなつたやうながしたのか、どつちだつたかわからぬ、わたくしおぼえてるのは、たゞけてつたことばかりだ。

 それからしばらく街燈がいとういてゐぬらぬ町々まち〳〵駈廻かけまはつたが、何方どちらいても、眞黑まツくらな、んだやうないへばかりで、その寂然しんとした迷宮めいきううち脫出ぬけだすことが出來できなかつた。 方角はうがくけるのには、立止たちどまつて四下あたり視廻みまはすが肝腎かんじんだが、それが出來できない。 遠方ゑんぱうきこえる轟々ぐわう〳〵といふ物音ものおとや、ワッと人聲ひとごゑやゝともすると段々だん〴〵追付おひつきさうになる。 ときには[Pg 231]ふッとかどまがらうとして、正面まともそのこゑ打付ぶツつかることがある。 こゑ赤黑あかくろたまになつて舞揚まひあがけむりうちから赤々あか〳〵ひゞいてる。 それッと引返ひきかへして、またあとになるまではしる。 曲角まがりかど一條ひとすぢ燈火あかりしてゐたところがあつたが、そばくと、ふッとえてしまつたのは、何處どこかの商店しやうてんきふ閉切しめきつたのであつた。 ひろ隙間すきまから帳塲ちやうばだい片端かたはしなんだかおけのやうなものがえて、たちま寂然しんひそむだやうにくらくなつた。 その商店しやうてんからとほくははなれぬところむかうからけてひと出逢であつた。 暗闇くらやみでもう二足ふたあしあぶなく衝當つきあたらうとして、たがひ立止たちどまつた。 たれだからぬ[Pg 232]が、眞黑まツくろな…、身構みがまへをしたひと姿すがたえる。

きみ彼方あツちからたのか?」

「さうだ。」

何處どこくんだ?」

うちかへるのだ。」

「むゝ、うちへか?」

 相手あひてすこだまつてゐたが、突然いきなりわたし飛蒐とびかゝつて、推倒おしたふさうとする。 咽喉元のどもとさぐてやうと、まはつめたい指先ゆびさき衣服きものからまつてやツさもツさしてゐるひまに、わたくしはそのいて、振捥ふりもぎつていて駈出かけだした。 相手あひてひととほらぬ町筋まちすぢ靴音くつおとたか[Pg 233]くしばらく追蒐おツかけてたが、其中そのうちおくれてしまつた――大方おほかた喰付くひついてやつたところいたむだのであらう。

 如何どうしてか、フトわがまちた。 矢張やツぱり街燈がいとうもないまちで、家々いへ〳〵んだやうに、火影ほかげひとところもなかつたから、これがわがまちとはかずに駈通かけとほつてしまところであつたが、げてると、我家わがやまへだ。 が、わたくししばらく躊躇ちうちよしてゐた。 多年たねん住慣すみなれたいへではあるけれど、いきあらければかなしげにものひゞく、んだやうなかはつた町中まちなかると、我家わがやのやうにはおもはれない。 躊躇ちうちよしてゐるうちに、や、ころんだときかぎおとしはせぬかとおも[Pg 234]と、愕然ぎよツとしてそゞろになり、しやさがしてれば、なに、かぎ外隱袋そとがくしにあつた。 で、ぢやうをカチリとはせると、反響こだまたかへんひゞいて町中まちぢうんだやうないへが一さツひらいたやうな心持こゝろもちがした。

 …はじめ床下ゆかしたかくれてたが、それもわびしく、まへなにかちらついてえるやうで無氣味ぶきびだつたから、そツうちしのむだ。 暗黑くらやみ手探てさぐりで方々はう〴〵戶締とじまりをし、さて勘考かんかうすゑ道具だうぐ押付おしつけてかうとしたり、それをうごかすたびおそろしいおとがガランとした家中いへぢうひゞわたる。 これにまたきもひやして、[Pg 235]「えい、」と思切おもひきつて、「このまゝでなばね。 如何どうしてんだつて、ぬのはひとつだ。」

 洗面臺せんめんだいにまだ生溫なまあたゝかがあつたから、手探てさぐりでかほあらつて、布片きれいたら、かほかはれてきずがヒリ〳〵いたむ。 かゞみやうとして、マツチをけて、そのちら〳〵とよわ火影ほかげとほしてると、暗黑くらやみなんだかみにく無氣味ぶきびものて、わたくしかほをぢろりとたので、狼狽あわててマッチをてゝしまつた。 が、どうやらはながめツちやになつてるらしい。

「もうはななんぞ如何どうなつたつてかまはん。 滿足まんぞくだつて仕方しかたがない。」

 [Pg 236]かうおもふと、愉快ゆくわいになつてた。 芝居しばゐ盜賊ぬすびとやくでもつとめてるやうに、奇怪きくわい身振みぶり顏色かほいろをしながら、ブフエーへつて、殘物ざんぶつさがした。 さがすになに身振みぶりをする必要ひつえうはない。 それはさうともおもひながら、そのくせ面白おもしろくて身振みぶりめられなかつた。 ひどくかつえてゐるつもりで、矢張やツぱ奇怪きくわい顏色かほつきをしながら、ものつてた。

 眞暗まツくら寂然しんとしてゐるのが無氣味ぶきびだつたから、には覗窓のぞきけて、聽耳きゝみゝ引立ひツたてると、戶外そとはもう馬車ばしやひととほらぬから、はじめ矢張やはり寂然しんとしてゐるやうにおもはれて、もう銃聲じゆうせいむだらしい、――[Pg 237]おもそばから、かすかとほ人聲ひとごゑがする。 叫聲さけびごゑも、笑聲わらひごゑも、なにかグヮラ〳〵とくづれるおとも、ものまぎれずして、やがてそれが判然はつきりるやうにきこえてる。 そらると、赤黑あかぐろものがサッとんでく。 むかひの納屋なや庭先にはさき敷石しきいしも、犬小舎いぬごやも、矢張やはりぼッと薄赤うすあかそまつてえる。

「ネプツーン!」

そツまどからいぬんでた。

 犬小舎いぬごやではなにうご氣色けはひがなく、そばくさりれたのが赤黑あかぐろ煌々きら〳〵えるばかり。 が、遠方えんぱう叫聲さけびごゑや、なにやらのくづちるおとが、次第しだいたかくなつ[Pg 238]たから、わたし覗窓のぞきめてしまつた。

段々だん〳〵押寄おしよせてる!」

 かく塲所ばしよさがで、ストーヴのけたり、塗込ぬりご煖爐だんろさぐつたり、戸棚とだなけたりしてみたが、そんなものでははぬ。 部屋々々へや〳〵をもあるまはつてたが、書齋しよさいだけはのぞになれなかつた。 屹度きツとあに肱掛椅子ひぢかけいすこしけて、書物しよもつうまつたテーブルにむかつてるとおもふと、あンまり心持こゝろもちがしない。

 と、次第しだいあるいてゐるのはわたくし一人ひとりでないやうにおもはれてる。 まだ幾人いくたりちかくの暗黑やみだまつてある[Pg 239]いてゐるものがあつて、ほとんわたしれ〳〵になることもあるやうだ。 一其中そのうちだれやらのいき領元えりもとれて慄然ぞツ總毛立そうげだつたこともある。

だれだ?」とわたし小聲こゞゑでいつてたが、返事へんじがない。

 またあるすと、不気味ぶきびやつだまつてあといてる。 加減かげんわるいので、それでこんながするのだ、さうへばねつたやうだ――とおもふけれども、おそろしさを如何どうすることも出來できん。 寒氣さむけでもするやうに身體からだふるへて、あたまさはつてると、のやうにあつい。

[Pg 240]「チヨッ、書齋しよさいかう。 なんつても他人たにんよりかい。」

 あにはたして肱掛椅子ひぢかけいすつて、書物しよもつうまつたテーブルにむかつてたが、いま彼時あのときのやうにえもせぬ。 カーテンおろしたすきからそとあかりが薄赤うすあかしてゐるけれど、ものらすほどでもないから、あに姿すがたはぼんやりえる。 わたくしあにとははなれて、ソフアにこしおろして成行なりゆきた。 書齋しよさいしづかで、のべつにぐわうといふおとなにかのグッラ〳〵と崩落くづれおちるおと其處此處そここゝ叫聲さけびごゑかすかにきこえてゐたのが、次第しだいちか押寄おしよせてる。 赤黑あかぐろひかり益々ます〳〵つよくな[Pg 241]り、肱掛椅子ひぢかけいすつたあにの、眞黑まツくろな、鑄鐵いてつつくつたやうな半面よこがほが、そのほそあかせんうちえるやうになつたとき

にいさん!」

 とんでみた。

 が、だまつてる。 石碑せきひのやうに凝然ぢツ眞黑まつくろ居竦ゐすくまつてゐる。 隣室りんしつ床板ゆかいたがピシリとはぜて、きふめうしんとなる。 澤山たくさん死骸しがいなかにでもゐるやうだ。 おとおとみなえて、赤黑あかぐろひかりまでしんめりとしたかげ宿やどして、こツたやうにうごかなくなり、其色そのいろやゝうすれる。 このさびしさはあにからとおもつて、[Pg 242]其通そのとほりをふと、

「いや、おれ所爲せゐぢやない。まどのぞいて御覽ごらん。」

カーテン引除ひきのけて――わたしはたぢ〳〵となつた。

「おゝ、この故爲せゐか!」

家内かないんでれ。 あれはまだたことがないから」、とあにがいふ。

 あによめ食堂しよくだうなに裁縫さいほうをしてゐたが、わたしくと、はり縫物ぬひものして、はれるまゝ起上たちあがり、わたしあといてる。 窓々まど〳〵カーテンみんな引除ひきのけたら、薄赤うすあかひかりが、ひろ入口いりぐちて、おもひのまゝ室内しつないながむだが、何故なぜだかうちあかるくはならないで、矢張やはり[Pg 243]くらかつた、たゞまどだけ四角しかくあかおほきく燦然ぼツあかるくえた。

 みな窓際まどぎはつてあふいでると、いへかべ軒蛇腹のきじやばらから、のやうに眞紅まツかな、平坦たひらそらになつて、くもほしけずに、其儘そのまゝ地平線ちへいせん彼方かなたぼつしたやうにえる。 してれば、矢張やはり平坦たひら赤黑あかぐろ死骸しがいうづまつてる。 死骸しがいみな裸體はだかで、あし此方こちらけてるから、此方こちらからはたゞあしのうらと三かくあごしたえるばかりだ。 寂然しんとしてゐる――みな死骸しがいえて、際限はてしもない置去おきざりにされた負傷者ふしやうしやらしいもの一人ひとりえなかつた。

[Pg 244]段々だん〳〵えてる」、とあにふ。

 あに窓際まどぎはつてたが、はゝいもうと家内中かないぢうのこらず此處こゝる。 だれかほえなかつたが、たゞこゑでそれとれた。

「そんながするンだわ」、といもうとふ。

「いや、えてるのだ。 まあ、御覧ごらん。」

 成程なるほど死骸しがいえたやうだ。 如何どうしてえるのかと、凝然ぢツ注目ちうもくしてると、とある死骸しがいとなりの、今迄いままでなにかつたところに、フト死骸しがいあらはれた。 どうやら、みなからくらしい。 いたところがズン〳〵ふさがつてつて、大地だいちたちま微白ほのじろくなる。 微白ほのじろ[Pg 245]なるのは、あしのうら此方こちらけて、ならんでてゐる死骸しがいみな薄紅うすあかいからで、それにつれて室内しつないもその死骸しがいいろ薄紅うすあかあかるくなる。

「さあ、もう塲所ばしよがない」、とあにふ。

「もう此處こゝにも一人ひとりるよ」、とはゝがいふ。

 みな振向ふりむいてると、成程なるほど背後うしろにも一人ひとり仰反のけぞつてたふれてゐる。 と、たちまちそのそば一人ひとりあらはれ、二人ふたりあらはれる。 あとから〳〵いてて、薄紅うすあか死骸しがい行儀ぎやうぎよくならび、たちま部屋へや々々〳〵一杯いつぱいになる。

 保母ほぼが、

ぼツちやんたちのお部屋へやにもましたよ。 わたくし[Pg 246]まゐりました。」

 いもうとが、

げてきませう。」

 あにが、

出道でみちがない。 御覽ごらん、もう此通このとほりだ。」

 成程なるほど死骸しがい其處そこぢう素足すあし投出なげだし、うでつらねて、ギッシリつままつてゐる。 それがる〳〵うごめきして、ぎよツとするに、みな行儀ぎようぎよくならむだまゝ、むく〳〵と起上おきあがる。 あたらしい死骸しがいからいてて、もとからるのを推上おしあげたのだ。

「かうしてると、くびめられる。 まどから[Pg 247]ませう。」

 とわたしふと、あにが、

「いや、まどからはもうげられん! 駄目だめだ! それ、あれを御覽ごらん!」

 …窓外さうぐわいには、赤黑あかぐろひかりのつたなかあかわらひえる。


血笑記  終


明治四十一年八月五日印刷  血笑記奥付

明治四十一年八月八日發行   正價金八拾五銭

        著者     長谷川二葉亭

              東京市麹町區飯田町六丁目廿四番地

  不 許   發行者    西本波太

              東京市小石川區久堅町百八番地

  複 製   印刷人    山田英二

              東京市小石川區久堅町百八番地

        印刷所    博文館印刷所

     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 發行所   東京市麹町區飯田町  易風社

       六丁目二十四番地    振替口座 一二〇三四番


Transcriber's Notes(Page numbers are those of the original text)

誤植と思われる箇所は岩波書店発行二葉亭四迷全集第四巻(昭和三十九年 第一刷)を参照し以下のように訂正した。

原文 生若まなわかい (p.25)

訂正 生若なまわか

原文 たばかりて (p.59) 

訂正 たばかりで

原文 狂人きちちがひ (p.64) 

訂正 狂人きちがひ

原文 血潮ししほ (p.71)

訂正 血潮ちしほ

原文 れぼ (p.72) 

訂正 れば

原文 便たよりないこゑて (p.85)

訂正 便たよりないこゑ

原文 二本指ほんゆびて (p.96)

訂正 二本指ほんゆび

原文 きこる! (p.108)

訂正 きこえる!

原文 貴方あなた此樣こんにすれば (p.121)

訂正 貴方あなた此樣こんなにすれば

原文 折合をりあこと出來ん (p.125)

訂正 折合をりあこと出來でき

原文 一所ひところ (p.125)

訂正 一所ひとところ

原文 せんか (p.138)

訂正 せん

原文 かみ歿のこつた (p.148)

訂正 かみのこつた

原文 うて (p.149)

訂正 うて

原文 薄無味惡うすきみわるかつたが (p.162)

訂正 薄氣味惡うすきみわるかつたが

原文 ちらりとしたばかりてつたのだ (p.163)

訂正 ちらりとしたばかりでつたのだ

原文 するど目色めつきて (p.171)

訂正 するど目色めつき

原文 ピシャり (p.172)

訂正 ピシャリ

原文 にげけろ (p.175)

訂正 にげ

原文 ふるす (p.175)

訂正 ふる

原文 つたたい (p.187)

訂正 つめたい

原文 むかふからる (p.208)

訂正 むかふから

原文 うしつたやうにも (p.230)

訂正 うしなつたやうにも

原文 たゞあしのうらと (p.243)

訂正 たゞあしのうら

原文 あしのうら (p.245)

訂正 あしのうら

原文 きれれ (p.237)

訂正 

●文字・フォーマットに関する補足

113頁「弟は高笑をして、」「妹も合槌を打つて、」、118頁「おとうとはふと立止たちどまつて、」の行は一字字下げした。

233頁の草書体の「志」は「し」に置換えた。「熱」の字は原文では「灬」の上が「執」の字。






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     has agreed to donate royalties under this paragraph to the
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     sent to the Project Gutenberg Literary Archive Foundation at the
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     distribution of Project Gutenberg-tm works.

1.E.9.  If you wish to charge a fee or distribute a Project Gutenberg-tm
electronic work or group of works on different terms than are set
forth in this agreement, you must obtain permission in writing from
both the Project Gutenberg Literary Archive Foundation and Michael
Hart, the owner of the Project Gutenberg-tm trademark.  Contact the
Foundation as set forth in Section 3 below.

1.F.

1.F.1.  Project Gutenberg volunteers and employees expend considerable
effort to identify, do copyright research on, transcribe and proofread
public domain works in creating the Project Gutenberg-tm
collection.  Despite these efforts, Project Gutenberg-tm electronic
works, and the medium on which they may be stored, may contain
"Defects," such as, but not limited to, incomplete, inaccurate or
corrupt data, transcription errors, a copyright or other intellectual
property infringement, a defective or damaged disk or other medium, a
computer virus, or computer codes that damage or cannot be read by
your equipment.

1.F.2.  LIMITED WARRANTY, DISCLAIMER OF DAMAGES - Except for the "Right
of Replacement or Refund" described in paragraph 1.F.3, the Project
Gutenberg Literary Archive Foundation, the owner of the Project
Gutenberg-tm trademark, and any other party distributing a Project
Gutenberg-tm electronic work under this agreement, disclaim all
liability to you for damages, costs and expenses, including legal
fees.  YOU AGREE THAT YOU HAVE NO REMEDIES FOR NEGLIGENCE, STRICT
LIABILITY, BREACH OF WARRANTY OR BREACH OF CONTRACT EXCEPT THOSE
PROVIDED IN PARAGRAPH 1.F.3.  YOU AGREE THAT THE FOUNDATION, THE
TRADEMARK OWNER, AND ANY DISTRIBUTOR UNDER THIS AGREEMENT WILL NOT BE
LIABLE TO YOU FOR ACTUAL, DIRECT, INDIRECT, CONSEQUENTIAL, PUNITIVE OR
INCIDENTAL DAMAGES EVEN IF YOU GIVE NOTICE OF THE POSSIBILITY OF SUCH
DAMAGE.

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your written explanation.  The person or entity that provided you with
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providing it to you may choose to give you a second opportunity to
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is also defective, you may demand a refund in writing without further
opportunities to fix the problem.

1.F.4.  Except for the limited right of replacement or refund set forth
in paragraph 1.F.3, this work is provided to you 'AS-IS' WITH NO OTHER
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promotion and distribution of Project Gutenberg-tm electronic works,
harmless from all liability, costs and expenses, including legal fees,
that arise directly or indirectly from any of the following which you do
or cause to occur: (a) distribution of this or any Project Gutenberg-tm
work, (b) alteration, modification, or additions or deletions to any
Project Gutenberg-tm work, and (c) any Defect you cause.


Section  2.  Information about the Mission of Project Gutenberg-tm

Project Gutenberg-tm is synonymous with the free distribution of
electronic works in formats readable by the widest variety of computers
including obsolete, old, middle-aged and new computers.  It exists
because of the efforts of hundreds of volunteers and donations from
people in all walks of life.

Volunteers and financial support to provide volunteers with the
assistance they need are critical to reaching Project Gutenberg-tm's
goals and ensuring that the Project Gutenberg-tm collection will
remain freely available for generations to come.  In 2001, the Project
Gutenberg Literary Archive Foundation was created to provide a secure
and permanent future for Project Gutenberg-tm and future generations.
To learn more about the Project Gutenberg Literary Archive Foundation
and how your efforts and donations can help, see Sections 3 and 4
and the Foundation web page at https://www.pglaf.org.


Section 3.  Information about the Project Gutenberg Literary Archive
Foundation

The Project Gutenberg Literary Archive Foundation is a non profit
501(c)(3) educational corporation organized under the laws of the
state of Mississippi and granted tax exempt status by the Internal
Revenue Service.  The Foundation's EIN or federal tax identification
number is 64-6221541.  Its 501(c)(3) letter is posted at
https://pglaf.org/fundraising.  Contributions to the Project Gutenberg
Literary Archive Foundation are tax deductible to the full extent
permitted by U.S. federal laws and your state's laws.

The Foundation's principal office is located at 4557 Melan Dr. S.
Fairbanks, AK, 99712., but its volunteers and employees are scattered
throughout numerous locations.  Its business office is located at
809 North 1500 West, Salt Lake City, UT 84116, (801) 596-1887, email
business@pglaf.org.  Email contact links and up to date contact
information can be found at the Foundation's web site and official
page at https://pglaf.org

For additional contact information:
     Dr. Gregory B. Newby
     Chief Executive and Director
     gbnewby@pglaf.org


Section 4.  Information about Donations to the Project Gutenberg
Literary Archive Foundation

Project Gutenberg-tm depends upon and cannot survive without wide
spread public support and donations to carry out its mission of
increasing the number of public domain and licensed works that can be
freely distributed in machine readable form accessible by the widest
array of equipment including outdated equipment.  Many small donations
($1 to $5,000) are particularly important to maintaining tax exempt
status with the IRS.

The Foundation is committed to complying with the laws regulating
charities and charitable donations in all 50 states of the United
States.  Compliance requirements are not uniform and it takes a
considerable effort, much paperwork and many fees to meet and keep up
with these requirements.  We do not solicit donations in locations
where we have not received written confirmation of compliance.  To
SEND DONATIONS or determine the status of compliance for any
particular state visit https://pglaf.org

While we cannot and do not solicit contributions from states where we
have not met the solicitation requirements, we know of no prohibition
against accepting unsolicited donations from donors in such states who
approach us with offers to donate.

International donations are gratefully accepted, but we cannot make
any statements concerning tax treatment of donations received from
outside the United States.  U.S. laws alone swamp our small staff.

Please check the Project Gutenberg Web pages for current donation
methods and addresses.  Donations are accepted in a number of other
ways including including checks, online payments and credit card
donations.  To donate, please visit: https://pglaf.org/donate


Section 5.  General Information About Project Gutenberg-tm electronic
works.

Professor Michael S. Hart was the originator of the Project Gutenberg-tm
concept of a library of electronic works that could be freely shared
with anyone.  For thirty years, he produced and distributed Project
Gutenberg-tm eBooks with only a loose network of volunteer support.


Project Gutenberg-tm eBooks are often created from several printed
editions, all of which are confirmed as Public Domain in the U.S.
unless a copyright notice is included.  Thus, we do not necessarily
keep eBooks in compliance with any particular paper edition.


Most people start at our Web site which has the main PG search facility:

     https://www.gutenberg.org

This Web site includes information about Project Gutenberg-tm,
including how to make donations to the Project Gutenberg Literary
Archive Foundation, how to help produce our new eBooks, and how to
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